第2章 衡山行

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第2章 衡山行

 今は九月。季節はまだまだ残暑の盛りというのに、かなりの時間歩き続けても汗ひとつかかない。これはまた奇妙……彼は山道を下りながらそう感じていた。この山の気候のせいか、それとも―― 「ここがまだ仙境だからですよ」  横を歩いていた弟弟子(おとうとでし)が唐突に口を開いた。彼はと、軽く弟弟子を睨み付けた。弟弟子もそれに気づいて、軽く首をすぼめた。年若い二人が纏う青藍の道服が、木々の緑の中に鮮やかに映えていた。 「それにしても――」  を誤魔化すかのように弟弟子は続けた。 「入るときよりも、出るときの方が遙かに時間がかかっていますね」 「まあ、確かに行きは迅行符(これ)を使って半月はかかる道のりを一日で来たわけでもあるが……」  懐から呪符を取り出しながら、彼は答えた。この者、年こそ若いが、実力者の集う茅山の中でもこと方術に関しては右に出る者がいない手練れであった。  彼は隋末の群雄割拠の残滓(ざんし)がある中、他害することなく我が身を守り、期日までに確実にを果たすことができる希有な道士だった。それゆえに茅山からの重要な使いは、ほぼ彼――趙紫陽に任されていた。  彼らが籍を置く上清派は江東の茅山を本山としていたが、上清派(かれら)の祖師・魏夫人を祀る廟は、この南岳衡山にあった。今回、紫陽はその南岳廟への使いを命じられたのだが、その供に選ばれたのがこの「訳あり」の弟弟子であった。入山からわずか三ヶ月で、南岳廟への重要な使いに出ること自体も異例ではあったが、何よりその存在が異例すぎた――。 「しかし勝手が解らぬのも事実だな。今まで四方八方に出向いたが、さすがに仙境に足を踏み入れたのは今回が初めてだしな」  紫陽はちらりと彼を横目で見ながら言った。彼も兄弟子の心を、困ったような笑みを浮かべた。ただ南岳廟へ行く予定が、よもや―― 「まあ、仙界と縁のあるお前と一緒だから、仕方ないと言えば仕方ないか」 「私の所為(せい)ですか?」  笑いを堪えながら弟弟子は答えた。それを見て、紫陽コツンと弟弟子の頭を叩いた。 「悪かったな。この紫陽、今まで師父や教主からさんざん怒られては来たが、とうとう大元である祖師にまで叱責を受けることができたとは、光栄この上ない」  開き直った物言いに、弟弟子はとうとう堪えきれずにケラケラと笑い出した。 「こら。仮にも青藍の衣を纏った者として、そう感情を露わにしてはいかん」 「――解ってますよ」  弟弟子は笑いを収めようと、必死に息を整えた。 「師兄は、まったく後悔してないんですね」 「当たり前だ」  居丈高に紫陽は答えた。 「今でもそれが正しかったと思っている。確かに元君の言うとおり“軽はずみ”ではあったが。――ちゃんとその点は反省しているぞ」  弟弟子は、笑いを止めるに止められず、ふるふると肩を震わせていた。祖師を前にした師兄の振る舞いは、何度思い出しても笑いがこみ上げてくるのだ。 「本当に、あなたという人は……」  大きく息を整えながら、弟弟子は言った。 「今回、師兄と同行できて、本当に良かったと思ってます」  おや、と紫陽は思った。驕気の強い弟弟子にしては、珍しいことを言っているなと。 「そうか」 「ええ、本当に楽なんですよ」 「――は!?」 「……茅山に入るまで意識したことがなかったんですが、師兄以外の先達方と話す時、思った以上に身をかがめないといけないんですよ。これが意外と疲れるもので」 「ほ、ほう……」  確かに二人とも七尺もあろうかという長身であり、この弟弟子が入山するまでは、紫陽一人が道士たちの中で頭ひとつ大きいような状態であった。 「物心ついた頃から武人たちの中におりましたから……体躯の良い者たちの中にいるのに慣れてしまっていたようで、身をかがめて頭を下げる生活がこのように疲れるとは思いも寄りませんでしたよ」 「まあ、が頭を下げなくてはいけない者は、数えるほどしかいなかったしなあ」 「――師兄、捨てた名を言わないでくださいよ」  苦笑いを浮かべながら元燕王は言った。  本人は員外子だの何だのと言っているが、彼は紛れもなく唐宗室の人間だった。  唐国公・李淵と女冠(女道士)との間に生まれた落し胤として、宗聖観の岐暉(きき)道士によって密かに育てられ、三つの時に、その出自を知った唐国公の娘・平陽公主と正室・(とう)夫人に引き取られた「員外子」。  竇夫人の子供たちの中でも、とくに次男の世民に懐き、何をするにも常に彼に付き従ってその側を離れることはなかった。隋末、唐国公が起兵した際も、次兄に付いて幼いながらも軍に加わり、以来、秦王世民の麾下で軍功を挙げ、「員外子」ながらも“燕王”に封じられた。  それが“公式”な彼の経歴。  しかし、真相は――  茅山と唐宗室の(ゆかり)は深い。  そもそも、この唐の建国には、上清派を中心とする道教――その大元とも言える神仙界が大きく関わっていたのは公然の秘密であった。  そして、神仙たちが、唐国公李淵の次に帝位につくこと望んだのが、長男の建成ではなく、次男の世民であった。  この弟弟子はその神仙界と唐軍とを繋ぎ、世民を帝位に就くための(たす)けとなる役割を、生まれながらに担っていた。  そしてつい数ヶ月前、骨肉の争いの果てに世民が帝位に就くと、その役割を果たしたとして、彼はのだ。  ここまでは、上清派のごく一部が知っていることであった。  しかし、紫陽は気づいてしまっていた。  彼は、己に与えられた役割ゆえ、唐軍や朝廷で唐の宗室の面々にも(まみ)えることが少なくなかった。当然のことながら、まだ鎧を纏っていた頃の弟弟子を見かけることも間々あった。その時に見た、先天の精気が弟弟子の出自を物語っていた。  人は、父母それぞれから先天の精気を受け継いで生まれてくる。同腹の兄弟であれば同じ精気を持ち、異母兄弟であれば当然違う。  紫陽も、この弟弟子よりはとは言え、精気の区別ぐらいは付く。  本来なら、この弟弟子と同じ先天の精気を持つ者はいるはずなかった。しかし、彼の目には、同じ精気を持つ者が幾人か映った。  それは、この三人。皇太子建成、斉王元吉、そして、秦王世民――すべて、竇夫人を母として生まれ、唐軍の中核を担った皇子たちであった。 (もっとも、精気なんて小難しいもの見なくてもな)  彼は、時に秦王の影武者を務めるほど、竇夫人の子供たちと容姿がとてもよく似ていた。紫陽は会ったことがなかったが、特に三女の平陽公主とは、生き写しのように似ていたと聞く。そのため彼のことを、竇夫人の夭逝した三男であると信じている者も少なくなかった。 (まあ、三男殿とは歳が違うし、何よりわずかではあるが一緒に育っている……だがしかし)  どう考えても、彼は、唐国公と竇夫人の子供であることに間違いはない。  なのに何故、彼は員外子と――  紫陽はハッと息を飲んだ。  目の前に弟弟子の顔があり、自分の瞳をじっと見つめていた。そして人差し指で紫陽の唇を押さえて言った。 「少し静かにしてもらえませんか。煩いんです」 「――え? あ?」  少し狼狽(うろた)えた後、紫陽は我に返った。 「またお前、人の頭の中を覗いたな!?」 「覗いてなんていませんよ。聞こえてくるんです。勝手にね」  踵を返し、スタスタと前を歩きながら弟弟子は続けた。 「ここは巷間と違って静かですからね。雑音がない分、師兄の考え事が頭の中に響いてくるんですよ。困ったことに」 「はは……」  そうだ、彼は――  道士が長年修行してやっと手に入れられるかどうかと言う能力を、誰よりも強大に、そして生まれながらに持っていた。    世の中のありとあらゆることを見透す力。千里眼と順風耳。 (そもそも物心つくまで宗聖観に預けられたのも、この力を使いこなせるようになるためだったはずだ……) 「――師兄」  呆れたような声で、弟弟子は言った。 「良い加減、私のことを気にするのは止めてくれませんか? ここはゆえ、師兄が私のことを考えれば考えるほど、この頭にガンガン響いてくるんです」 「嫌だね」 「師兄?」 「私はお前がなんと言おうと、この道中、お前のことを考えて考えて考え抜く。それが王教主の指示であるし、そうするのが私の務めだと思っているからだ」  紫陽は先に進んでいた弟弟子に追いかけながら言った。弟弟子は立ち止まると、兄弟子が追いつくのを待った。 「――私は、お前ほど物事を見透すほどの力はない。だから、お前のその力が、どれほどのものか、未だ計り知ることはできぬ。だが、その力を活かすことができる方法(すべ)をお前に教えることができるのは、茅山にいる数ある道士の中でも、この紫陽のみだと思っている」  その言葉を聞いて、弟弟子は視線を落として、嬉しいような寂しいような、如何とも捉えようのない顔をした。 「何しろお前と同じ武人の出だ。体力と気力はそんじょそこらの道士の十倍ぐらいはあるぞ」  弟弟子は先ほどの静かな表情から一変し、笑いを堪えた妙な顔になった。この兄弟子には、心の奥底を何度もくすぐられる。 「――師兄は、六男坊でしたっけ?」 「ああ、男ばっかりの兄弟の末っ子だ。私以外はみな、武将として戦に出て行ったよ。……最後は(てい)国公の麾下だったから、もし、私が家に残り、父や兄たちと共に戦場に出ていたら、お前とは敵味方になってたわけだな」 「そんなことは無いですよ」  弟弟子は遠くを見ながら言った。 「多くの優れた武将が、鄭軍から我が軍に(くだ)りましたが、きっと師兄もその中に居りましたよ」 「はは……さっさと討ち死にした兄貴たちと違い、私はしぶとく生き残りそうだしな」  乾いた笑い声を上げながら紫陽は言った。 「まあ、どんな道を通っても、結局、私はお前の面倒を見る羽目になるってことだな」 「――それは、私に覚悟を決めろと言うことでしょうか?」 「まあ、その通りだ」  迅行符を手に取りながら紫陽は答えた。 「往路(いき)をこれで来たのは、できるだけ帰路(かえり)に時間を割くためだ――王教主はいくら時間がかかっても良いとは言っていたがな。時間がかかりすぎても、体面が悪くなるしなぁ」 「問題児ですみません」  その言葉に、紫陽は再び乾いた笑い声を上げた。 「問題児か――そもそもの問題は、お前の事情を上層部(うえ)が隠していることだ。しかし、天機に触れることもある故、それも致し方ないこと。だが、その機微を理解できぬ者が、茅山にあまりにも多いことも問題。そしてお前もだ」 「はい?」 「お前、私のことを師兄と呼んではいるが、道観で修練した歳月を考えると、お前の方が全然歴は長い」 「――ああ、そう言う考え方もできますねぇ」 「そうだ。お前の所作ひとつ見ればそんなこと容易に解ろうが、それを解らぬ者が多すぎる。連中は、陛下のご意向で茅山に入った素人同然の親王様としか見ていない。だがな、その連中を力でねじ伏せるのはどうかと思うぞ」 「ねじ伏せたつもりはないのですが……いい加減なことを言う連中とやり合う内に、何となく、まあ、流れで」 「箒にあんな殺傷力があるとは、知らなかったぞ」 「殺傷とは大袈裟な……傷だけです、殺はしてません」 「では、もし、相手が同門ではなく、賊が相手だったら?」 「それは時と場合によりけりですが……もし、相手が多勢でこちらに手加減する余裕がなければ“殺”もあり得るかと」  その言葉を聞いて、紫陽はほら見たことかと冷たい視線を投げかけた。弟弟子は首をすくめて苦笑した。 「茅山開山以来、ここまで武張った奴は初めてだぞ」 「――つい、体が動いてしまうのです」 「まあ、それも仕方のないことだとは、こちらも解っている。つい数ヶ月前まで、お前が身を置いていた場所は、そういう所だ」  同腹の兄弟ですら、大義のためにその手にかけなくてはいけなかった、血塗られた場所。弟弟子はいたのは、そういった所だった。 「だがそれももう終わった。陛下は無事即位し、お前はこちらに帰ってきた。もうこれからは、その“気”を武に使う必要はない。此度の旅の真の目的は、お前が今まで使っていた武の力を、本来使うべき方へ導くためのものだ」 「はい」 「この後、南岳廟に参るが、あとは修行の日々だと覚悟しろ。まあ、道すがらなのでどれほどできるか解らぬが。それでも、あの連中のやっかみがない分、やりやすかろう」  弟弟子は苦笑しながらも頷いた。 「あの連中は、お前が入山三ヶ月で奥義を習うのはおかしいとケチを付けるだろうが、それは違う。二十年経ってやっと、奥義を会得するのを許されたのだ」 「――」 「お前ほどの素養がある者が、ここまで長かったな。よくぞ耐えた」 「師兄……」 「ああ、そうだ。三ヶ月も経っているというのに、ちゃんと言っていなかったな」  そう言って紫陽は弟弟子の前に、向き合うように立った。 「おかえり。驪龍」  その言葉を聞いて、弟弟子はひとつ息を吐くと、深々と礼をした。 「――しかし、改めて思うに、物々しい名前を陛下から賜ったよな」  ふと紫陽は言った。 「ふふ。半分嫌みですよ」  苦笑しながら驪龍は答えた。 「次兄(あに)から賜った(くろうま)を、出家の時に突き返したのが気に入らなかったようで、新たな名として、再び突きつけたんです。おまけに龍などと……」 (お前は、私の掌中の龍だ。それは私からどんなに遠く離れても変わらぬ) 「全く以て物々しい」  あの時の言葉を思い出しながら、そう呟いた。 「それでも大切な名ですから――」  紫陽はうつむく弟弟子の顔を見ながら、彼がまだ燕王と呼ばれていた頃を思い出していた。 「――師兄」 「ああ、悪い。またいろいろ考えていたことがか?」 「いえ、違います」  前方を指さしながら驪龍は答えた。 「間もなく、仙境と人間(じんかん)の境なのですが、どうにも不穏なのです」 「あ? ああ……」  彼の指さす先に、何となく妙な気配が在るのが、紫陽にも感じ取れた。 「迂闊に進めませんね」 「そうだな」   どうするか考えながら横を見ると、弟弟子が手頃な棒を探して拾い上げていた。 「おい、それをどうする気だ?」 「どうするとは――? 身を守らなくてはいけないでしょう?」  棒を左右に振って感触を確かめながら驪龍は答えた。 「ああ! まったく」  紫陽は懐から呪符を取り出しながら怒った。 「先ほど言ったばかりだろうに。武に頼るな、武に」 「しかし……」 「口答えはするな。今から方術によって難局を乗り切る(すべ)をその目に見せてやる」 「でも」 「良いから、黙って見てろ。あと何歩で仙境から出る?」 「七歩」 「よし、では見ていろ。五雷法(ごらいほう)」  そう言いながら、紫陽は五歩を一気に詰めた。 「(ばく)」  仙境を出た途端、目の前に出てきた黒い影に向かって、紫陽は呪符を投げつけた。と、同時に甲高い悲鳴が上がった。 「――!?」  紫陽の足元には、抜けるような白い肌と、艶やかな黒髪が印象的な娘が、四肢を強ばらせて横たわっていた。 「お前……飛蝶!?」
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