第3章 妖狐

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第3章 妖狐

「飛蝶、悪かった。今、術を――」  術を解くため、紫陽は彼女に近づき身を屈めた。と同時に、その頭上に黒い影が掠めて過ぎていった。 「え?」  そしてその黒い影が、翻って再び紫陽を襲おうとしたところ、驪龍が先ほどの棒で激しく弾き飛ばした。ふたつ、みっつと、いくつもの影が次々と襲いかかってきたが、驪龍は正確に全てを弾き飛ばしていた。 「ああ! もう!!」  紫陽は慌てて印を組むと、口訣を唱えた。  と、途端に黒い影の襲来が止んだ。  影たちは男に姿を変え、集まって何やら相談をし始めた。そして散り散りになって、周囲を捜索し始めた。 「はあああ」  紫陽は大きく息を吐いた。 「師兄、これは……?」 「隠身の術」  そう言いながら、紫陽は娘の額に貼り付けた呪符をぺりりと剥がした。 「――先生! 何するのさ!!」  剥がすやいなや、彼女は大声で紫陽を罵倒し始めた。紫陽は慌てて掌で彼女の口を塞いだ。  と、同時に、先ほど去って行った男たちが数人、戻ってきた。辺りをキョロキョロ見回し、首をかしげると、再び去って行った。 「これは面白い!」  その様子を見ていた驪龍は、興奮した口調で紫陽に言った。 「見えているのに、私たちに気がついていないとは」 「ああ。見えれど見ず、聞こえれど聞かず。これが隠身の術だ。足元に転がる小石のように、我々の存在は、何人も気づく事はない」 「凄いです」  頬をうっすらと紅潮させながら、驪龍はなお興奮した口調で続けた。目前には、男たちが自分たちを探して右往左往しながら通り過ぎていく姿が繰り返し見えた。 「(わたくし)、幼き頃より必要な物のみ意識して見聞きするよう訓練を受けておりましたが、この術はそれと表裏一体のような物……大変興味深く存じております」 「はは。方術の面白味を解ってくれたようでありがたいな。ただ、呪符を用意する間もなく、慌てて掛けたので、術が浅い。大声を出したり、感情を揺らして気を乱すだけで術が破れてしまう」 「呪符の有無で効力は違うのですか?」 「術にもよるがな。呪符には術士の力が込められており、呪符が完成した時点でその術も九割方完成している。だから、方術のほの字も知らないような輩でも、呪符があれば術を使うことはできる」  紫陽は弟弟子が興味を持ったことが嬉しく、知らぬ間に饒舌になっていた。 「しかし、最終的には術士の力が、その術の効力を左右する。方術士でない者が呪符を使った場合と、方術士が呪符を使わずに術を掛けた場合、どちらが効力が強いと思うか?」 「普通に考えれば後者でしょうか」 「だよな。しかし、呪符を作った術士の能力で違いも出る。私が作った呪符ならば、そこら辺にいる農夫に使わせても、下手な術士より遥かに強い術を出せる」 「ということは下手な術士が作った呪符と――」  驪龍が言いかけたところで、兄弟子がひぃっと声を上げたので、慌ててその手で兄弟子の口を塞いだ。 「甘噛みしただけなのに、大袈裟な」  紫陽の大きな手を押しのけながら、娘は言った。 「もう、息ができなくて死ぬかと思った」  そして娘は大きく息を吐いた。 「大丈夫、話は聞いてた。どんなに腹が立とうが、もう静かにしてるから安心して」  そう言いながら、彼女は身を起こして座り直した。紫陽は苦笑しつつ、驪龍の顔を見た。驪龍も慌ててその手を兄弟子の顔から放した。 「……ったく、良からぬ連中が先生たちを狙ってることを、早く知らせたくて駆け寄ったら、いきなりこの仕打ちなんだもん」 「ああ悪かった――あ、もしかすると、師弟、先ほど言いかけたのは……」  驪龍は黙って頷いた。 「参ったな」  そう言いながら、紫陽も座り直し、頭を掻いた。 「ちょっと師弟(こいつ)に良いところを見せたくて急かしすぎた。誠に申し訳ない」 「まあ、無事だったからいいんだけど。でも、先生にしては珍しいね。誰かと一緒にいるなんてさ」 「だな。今回は新入りと一緒だ」      「新入り……? にしては見覚えのある顔なんだけど」 「当たり前だろ、元燕王なんだから」 「――燕王様!?」  大声を出しそうになって、飛蝶は自分で口を塞いだ。 「あのなぁ、声を我慢しても、興奮すればその分気が乱れて、相手に気づかれやすくなるんだぞ」 「ああ、ごめんなさい。――でもそう、燕王様か。遠目でしか見たことなかったけど、確かに」 「今は出家し、驪龍と名乗っております。お見知りおきを」  そう言って驪龍は軽く会釈をした。 「師兄、彼女は……」 「ああ、紹介が遅れてすまない。こいつは武牢関(ぶろうかん)の妖狐、飛蝶」 「例の彼女ですか」 「そうだよ、例のだ」  わざわざ言うのはどういうつもりだと思いながらも、紫陽は答えた。 「何? 私何かした」 「あ、いや、こっちの事情だ。気にするな」  飛蝶はフンと、鼻を鳴らした。どうせ神仙界には縁の無い身。気にするだけ無駄。 「でも、面白い。別れを言いに来たら、出会ったときが再現された」 「再現?」 「ほら、初めて会った、あの時もこの変な符を貼って、私の動きを止めたじゃない」 「ああ、そうだった。秦王軍に闖入(ちんにゅう)しようとしたお前を止めようとしたな」 「ふふ」 「ふふじゃないぞ、戦局が緊迫している中で、お前がやろうとしたことはだな――」 「でも、洛陽が――」  それは七年前のこと。洛陽は鄭を建国した王世充の支配下に入った。  王世充の過酷な統治に洛陽は混乱し、多くの流民が発生した。そして洛陽東辺に居を構えていた飛蝶は、その惨状を見かねて秦王軍に直訴を試みたのだった。  当時、紫陽は入山間もなかったが、体術の心得があったのと、すでに方術使いとして頭角を現していたため、兄弟子と共に茅山から秦王への使いに出ていた。道中、戦渦に巻き込まれて兄弟子と(はぐ)れ、何とか単身で秦王軍の牙営に辿り着いたところで、飛蝶に遭遇した。  紫陽は、一目で彼女が人ならざるものであることを見抜いた。そしてまさにその時、秦王軍は定楊可汗・劉武周との熾烈な闘いを繰り広げている最中。紫陽は妖怪変化の類いに兵士が惑わされてはと、出会い頭に五雷法を掛けたのが、そもそもの始まりであった。  そして物怪とは言え殺生はできぬと、一旦、秦王軍の幕営から離れてから術を解いたところで、激しい罵倒を受けたのも今と同じだ。  その時のことである。紫陽は彼女の罵倒を聞きながら、ふとした疑問が湧いた。 「言い分はよく解った。しかしお前――」 「お前じゃない、私には飛蝶っていう名前がある」 「あ、ああ、そうか。飛蝶か。私は趙紫陽、見ての通り道士で、上清派に属している」 「ふうん。で、何さ」  眉間に皺を寄せて、こちらを睨み付ける小柄な娘の姿を見て、紫陽は苦笑いを浮かべた。なりは小柄だが、態度はかなり大きい。 「ああ、飛蝶。では問おう――何故、こうも人のことを気に掛ける?」 「え?」 「お前たちにとって、我々はただの餌にしかすぎないはずだ。民衆が東都(洛陽)から逃れ、お前たちの餌が少なくなって困るというのであれば、まだ、合点のいく話だ。しかし、お前の話はそうではない。お前は、悪政に苦しむ東都を救え、民を救えと言う。何故だ?」 「――そんなこと、考えてもみなかった」  飛蝶は紫陽の言葉に大変驚き、そしてしばし考え込んだ。 「確かにそうだ。先生の言っていることの方が正論だよね。――でも、私が嫌なんだ」  そう言って、彼女は紫陽の顔を見た。 「別に、人を哀れんでいるわけでは無い。確かに人は、私たちと違って寿命も短いし妖力もない。でも、人は天帝や神々の恵みを受け、来世も約束されている。  方や、私たち妖狐は、元々は天地の澱。天帝からは疎まれ、死後も塵芥に戻るだけ。簡単に滅せられる存在である我が身を哀れめど、人を哀れむ謂われはない」  紫陽から目を逸らさずに、彼女は続けた。 「それでも私は放っておけなかった。人々の、あの苦しむ声を無視することはできなかった。理由やら理屈やら、小難しいことなんて考えてない。ただ、私はこれ以上私を嫌いにならないために、ここに来た」 「これ以上嫌いにならないため?」 「おかしな話よね。確かに私たちは、人の精気を糧に生きている。特に先生みたいに出家した徳の高い人の精気は極上。たいていの妖狐は先生のことを涎を垂らしながら見てるよ」 「ほう。それは褒め言葉なのか?」 「どっちだっていい」  言いたいことはそうじゃないと、飛蝶はぶっきらぼうに答えた。 「私は、人の中に混じって生きている。そしてたくさんの人の生き死にを見てきた。その中で、どうしようも無い糞野郎も数多(あまた)いたけれど、心から尊敬できる人たちも本当に多くいた」 彼女は拳をギュッと握りしめて続けた」 「そう言った、善良な人たちほど、良質な精気を持っている――これって皮肉よね」 「皮肉?」 「悪人の精気を奪ったって、大した力にならないってこと。私が大好きな人たちを助けられる力が欲しければ、他でもない彼らを糧にしなければいけないってこと」 「……」 「だから、秦王に頼みに来たの。私のような矛盾も無く、あの強大な鄭を撃ち破ることができるのは、秦王以外にいないから」 「そうか」  紫陽は静かに笑った。 「我が盟主の高名が、妖狐にまで響いているのは誇らしいことではあるな」  だが、と紫陽は続けた。 「お前のような怪異の物が、秦王に直訴なんてまず無理だ。私以上に目と耳が敏い者が、王の側に控えているからな。最悪滅せられていたぞ」 「そんな――」 「だから、飛蝶、お前は運が良い。私に出会ったからな」 「何?」 「私と出会ったことでお前は三つ運を拾った。一つ目は最初にお前を見つけたのがこの私だったから、こうして命を長らえた。そして二つ目は、私は茅山からの使いとして、秦王軍に来たところ。まだ要件は済んでいない」 「つまり?」 「つまり、秦王に東都の件を上奏する機会が、この私にはあると言うことだ」   飛蝶は紫陽の両手を掴むと大きく振り回した。 「本当!? 代わりにやってくれるの!?」 「まあ、落ち着け。言うだけは言ってみるよ。ただしだな」  紫陽は彼女の手を振りほどきながら続けた。 「運良く上奏できたとしても、即、東都に進軍することは無理だ。どちらにしろ、いつか必ず東都は攻略する。その時期を多少早められるかどうかだ」 「そうなの……?」 「私たちは大局を見て動いている。攻めるには時機があるんだ」 「それじゃ、意味ないじゃない。私は、今、助けたいの」 「慌てなさんな。お前さんの運はあと一つ残っている」  飛蝶は何を言ってるんだというような顔で、紫陽を睨み付けた。 「はは……お前、今、妖力は弱ってるんだろ?」 「何を――」 「図星を突かれて焦ったか? 術を解いたときからバレてたよ。たいていの妖狐なら、あの時点で逃げ出すか、反撃するかのどちらかだ。こっちもそのつもりで構えてたんだけどね。お前さんはただ口汚く罵っただけ。大方、逃げ出す力も残ってないんだろ?」  飛蝶はキュッと唇をかみしめた。全て、彼の言うとおりだったからだ。 「良いことだ。己は飢えても、矜持を守ってる証拠だからな。だから今から、その足りない精気を補う方法を伝授してやろう」  飛蝶は驚いて紫陽を見た。紫陽は気にせず淡々と言葉を続けた。 「お前たちが糧にしている精気は、森羅万象、全てのものに巡っているものだ。この気、私たちの中に留まって力になるが、基本は何かを喰らうことで、体内に取り込んでいる。しかし、じつはこれ、効率は良くなく、どうしても余計な物まで取り込んでしまう。そこで、我々道士は、食べるのではなく、他の方法で精気を取り入れられるように修行をしているのだな」  紫陽は奥義に触れぬよう、慎重に言葉を選びながら説明をした。 「そこでお前に、私たちがやっている修練をほんの少し、伝授してやろう」 「本当?」 「まあ、本山的には御法度だがな」 「え?」 「いや構やしない。どうせここには私とお前しかいない。ちょっと禁忌を犯したとしても解りゃしないさ。それに教えると言っても、基本の基の基。在家に養生法として教えることもあるくらいの簡単なものさ――だが、養生法というのは、物を喰らう者であれば、だ。精気を喰らうお前たち妖狐であれば、もっと効果があると私は見ている」  飛蝶は、跪き、深々と礼を取った。 「――先生、なんて言ったらいいか」 「ああ、そんなことするな。こちらもこれから用件を済まさないとならんしな。時間が勿体ない」  そう言って紫陽は飛蝶を助け起こした。 「今から教えることは、そんなに難しくない。だが、本来は門外不出の秘伝。絶対に他に漏らすな、悟られるな。これだけは守ってくれ」  飛蝶は深く頷いた。 「これで、悪人だけ喰らっていても、多少は動けるだろ? 東都解放まで、お前ができることも増えるはずだ。東都への進軍が始まるまで、なんとかこれでしのいでくれ」  簡単な調息を教えた後、紫陽はそう彼女に告げた。 「これで私、自分を嫌いならずに済む。今日が生きていてきっと一番佳い日かもしれない。先生、感謝します」  飛蝶は再び、深く礼を取り、その後、宙に舞い上がり姿を消した。  紫陽は、彼女が消え去る様を見ながら、はぐれた兄弟子を探すか、秦王の牙営へ向かうか、どちらを先にしようかとぼんやりと考えていた。  と、人の気配がしたので、振り返ると兄弟子が秦王軍の兵士と話しながら歩いてくるところだった。合流して聞けば、ちょうど自分を探していたところだったと言う。    一歩間違えば、兄弟子に飛蝶とのことがバレていたと、紫陽は肝を冷やした。  その後、何故か単身で使いを任されることが多くなり、茅山より外に出ている時間の方が多いぐらいになった。その度、どこからともなく飛蝶が現れ、あれやこれやと訊いてきた。その都度、差し障りの無い範囲で教えていたが、気がつけば調息や導引など、この七年で結構なことを教えてしまっていた。  この、己の軽率な行為を、先ほどまで祖師に叱責されていたのであるが―― 「あの時は、すぐに動くことができずに申し訳なかったです。飛蝶殿以外にも、多くの陳情があったのですが、目の前の強敵を討たねばなりませんでしたので」  驪龍の言葉に、飛蝶はキョトンとした表情で彼を見上げた。そしてハッと気づいた。 「――あ、そうか。驪龍先生は燕王さまだった。あの時はもう、軍にいたんだ」  飛蝶の問いかけに、驪龍は頷いて答えた。 「おい、ちょっと待て」  紫陽は驪龍の肩を掴んだ。 「もしかして、お前、全部?」 「見ていないと思っていました?」  兄弟子の質問に、しれっとした顔で驪龍は答えた。 「あの時、ちょうど良い按配で兄弟子と合流できたのは、偶然だと思っていましたか?」 「――全部、お前が仕組んだのか?」 「仕組んだとは人聞き悪い。協力しただけです。目の前の大局が動かない限り、鄭までは手が届きませんでしたし、かと言って、黙って見過ごすのも……。そんな時、師兄の考えは渡りに船だったんですよ。そこで手の者を使わして、合流するまでの時間をかせいで、事なきを得たんです」 「――ってことは、あの後、私は一人で使いに出るようになったのも、もしかして、お前の差し金か?」 「差し金って、さっきから人を黒幕のように……単に楽したかったんです」 「楽?」 「いつも茅山から使いが出るときは、彼らが無事に往復できるよう、見守りつつ、要所要所で護衛を手配していたんです。影ながらね。これが本当に大変で。  でも師兄なら、放っておいても楽々往き来できる力がありました。だから王教主に頼んだんですよ。使いを寄越すなら師兄にして下さいってね」  紫陽は涼しい顔をしながら語る弟弟子の顔をまじまじと見つめ、そして気づいた。 「てことは、お前は、私が飛蝶にいろいろ伝授してたことも知ってたわけだ」  全てが腑に落ちた。  祖師・魏夫人の叱責を受けたとき、この弟弟子も同席していた。その時は自分の咎に巻き込んだだけだと思っていた。  所がそれは間違いだった。飛蝶の件、驪龍もすべて承知していたということは、つまり共犯。二人そろってこその叱責だったのだ。そもそも、今まで何度も衡山に足を運んでいたにもかかわらず、今回初めて祖師のいる仙境に招き入れられたのは―― (仙界に深い縁のある弟弟子(こいつ)と一緒だったからではなく、叱責すべき二人がそろっていたからだったんだ)  紫陽は深い溜息を吐いた。 「私は事情も知らないお前を巻き込んで申し訳なく思っていたよ。しかし実は一緒に叱責されていたんだな。よくもまあ、自分も怒られてるなんてこと、おくびにも出さなかったな」  兄弟子に返事をする代わりに、驪龍はペロッと舌を出した。 「おまっ」  語調が強くなってきた紫陽の背中を、飛蝶がぽんぽんと叩きながら、先生静かに、と囁いた。その口調から、必死に笑いを堪えているのが解った。その様子に、紫陽はもうどうでも良い気分になってきた。 「――ったく、お前ら二人そろって食えない連中だ。もう少し先達を敬え」 「敬っていますよ」 「敬ってるわよ」  偶然にも、二人の声がそろった。紫陽はそれを聞いてますます呆れた。 (本当に食えない連中だ) 「さて」  紫陽は腰掛けると、深く呼吸をし、乱れた気を整えようとした。 「さっき、別れを言いに来たと言ったが、どういうことだ?」 「ああ、そう、そうなの」  飛蝶は紫陽の目の前にちょこんと腰掛けると、言葉を続けた。 「実はさ、私に縁談が持ち上がって」 「そうか、それはめでたいな」 「はぁ!? 何がめでたいの? 妖狐の生き方が嫌で、何年も先生に教えを請うてきたのに、今更、妖狐の頭領の女将をやれってか?」 「解った解った、そう怒るな」 「はいはい、気が乱れるのは良くないのよね」  頭を振りながら飛蝶も息を整えた。 「私たち妖狐は、天帝の後ろ盾のない分、いろいろな決まりに縛られている。家や身分の縛りも、人間以上に厳しい。特に女の妖狐はね」  飛蝶は寂しそうに笑った。 「私たち妖狐の身分は天狐を頂点にして、上中下、三つの(ほん)にきっちり分けられている。人間の官位と同じようにね。  天狐は唯一天帝に許された存在で、天との往き来もできる。二十八宿になぞって、二十八体の妖狐がいるとされているんだけど、残念なことに、そこまで徳の高い妖狐は多くなくてね、実際はその半分ぐらいの数しかいない。  その天狐の下に私たち普通の妖狐がいるわけだけど、頭領に当たる上品は三十六家あって、さらに十二家ずつ上中下に分けられている。この区分も絶対。この区分を越えて何かすることは許されない。  私の家は上の下で、かろうじて上品に入るような家柄。ところが今回持ち上がった縁談の相手は上の上の家の頭領。天狐直々の命じゃなければ、到底あり得ない話でさ」 「ほう、玉の輿か。良かったじゃないか」 「だから良くないって言ったでしょ」  飛蝶は牙を出して軽く威嚇した。 「今更、妖狐の生活に戻れないし戻りたくない」 「だが天狐の命令には逆らえないのではないか」 「ええそうよ。でも、実は逃げ道があるの」 「逃げ道?」 「私たち女の妖狐は、結構、人に惚れるのが多くてね。まあ、男を閨に誘って精気を奪うことしてるんだから、さもありなん。でも、厳しく家に縛られている私たちが、人と一緒になることなんて夢のまた夢。でもたった一つだけ、それを叶える方法がある」 「ほう」 「もともとは千年ぐらい前、天狐を巻き込んだ駆け落ち騒ぎがあったの。深く愛し合った人と妖狐の姿に、天狐がいたく感じ入り、ある決まりが作られた」  それは、三日間の空白。  女の妖狐は、婚姻によって生家から婚家へと従属する家が変わる。そこで天狐は、生家から婚家へ花嫁が遷るときに、三日間の自由を与えた。  花嫁は生家を出る同時に、どの家にも属していない自由な状態になる。そして婚家へ入るのは家を出てからきっちり三日後と決められた。この三日間、生家からも婚家からも逃げ切れば、未来永劫自由の身となれる。  もっとも、簡単に逃げ切れるわけはない。一族郎党が厳重な包囲網を()く中での自由なため、よほどのことがない限り、ほとんどの妖狐がそのまま大人しく婚家に従属することになる。 「なるほど、お前は三日間逃げ切ったというわけか」 「まあね。本来なら、身内の手引きや情夫の協力があって、なんとか成功するもんなんだけどね、私は自力で逃げ切った」 「さすがだな」 「ふふ。でも今回は、それでお仕舞いってわけにもいかなくてね」 「面子か」 「そう、今回は天狐の肝いりで、序列三十五の家の娘が、序列一位の家に行くはずだったからね。私の逃亡は四方八方の顔を潰したわけ。どこにも属さなくなったとは言え、さすがにこれはね。この中原に居づらくなったから、ちょっと遠くへ行ってみようと思ったのさ」 「それで別れか――」  飛蝶がいつもとは違う旅装をしていた理由はそういうことだったのかと、紫陽は納得した。 「どこに行くつもりなのか」 「考えてない。とりあえず玉門関を越えてずっと西に行ってみようかとは思ってるけどね」 「そうか。今のお前なら、どこ行っても大丈夫さ」 「ふふ。ありがとう。――はあ、やっとお別れが言えた」 「ん?」 「さすがにこの私も茅山に進入するのは憚れるますからね。先生が山から出てくるのを待ってたのよ。でもここ数ヶ月、ちっとも出てきやしないんだもん」  その言葉に紫陽は思わず苦笑いを浮かべた。確かにここ数ヶ月は、茅山から出ることがなかった。玄武門で事が起こるまでは、慌ただしく出たり入ったりを繰り返していたというのに。 「やっと出てきたと思ったら連れがいるじゃない? 先生が一人になるのを待とうと思ったら、途中で消えちゃうし、何故か先生たちを狙う連中は出てくるし――」 「そう、それなんだが」  紫陽も長いこと方々へ赴いたが、いきなり、しかも数限りない怪異に襲われたのは初めてだった。 「何なんだ、彼奴らは」 「何なんだと言われても、同じ妖狐とは言え、中の中とか中の下とか、大した力もない連中。ただあの連中、先生たちの命を狙ってるのは確か。――仙境帰りの道士の肝を喰らうと千年寿命が延びるだとか、妖力が上がるとか……」 「ほう」 「この話、妖狐の宿場みたいなとこがあって、そこで耳にしてね。仙境の出口なんて知らないから、ここ数日、衡山中を飛び回って探してたのよ。やっとここで、先生の残り香みたいなモノを見つけたから、ここで待ってみたら、いきなり術掛けられるし……」 「ああ、あれは本当に悪かった。にしても……」  何故、自分たちが仙境に行っていたことを連中は知り得たのか、そして何故命を狙うのか――と訝しんでいる紫陽の目に、深く考え込んでいる弟弟子の姿が飛び込んできた。 「おい、師弟。何だその顔は」  その言葉に、弟弟子は更に困ったような顔をした。 「どうせお前のことだから、全ての事情がんだろ? 隠してないで本当のことを言え」  兄弟子の言葉を受け、驪龍は大きく息を吐いた。覚悟を決めたようだ。 「まずは、ぜっったいに、平常心でいて下さいね、お二人とも」  彼の言葉に、二人はとりあえず頷いた。 「まず、事を順番にお話しします。発端は飛蝶殿が洛陽で(あによめ)に別れを告げたことからです」 「ええ確かに、ここに来る前に(ねえ)さんに会ってきたけど……兄貴は嫌いだけど嫂さんは好きだし、甥っ子は可愛いし、ちゃんと別れをしておこうと思って」 「その時、次は師兄に会うことも言いましたよね」 「ん-、言ったような気がする」 「それを聞いた嫂が、飛蝶殿の情夫が師兄で、二人はこれから駆け落ちすると思ったんです」 「――!」  二人が驚きの声を上げる前に、驪龍は手を伸ばして二人の口を覆った。 「平常心で、お願いします」  二人はコクコクと頷くと、驪龍はその手を放した。  つまりはこのような事情であった。  嫂が夫、つまり飛蝶の兄でもある家長に事の次第――茅山の道士と駆け落ちするということを話し、飛蝶の兄は、許嫁であった頭領に事情を話す。そして許嫁は飛蝶の情夫――つまり紫陽への意趣晴らしを企てた結果だったのだ。 「どうしたら、この先生と色恋沙汰になるんだか、考えつかない」  飛蝶は紫陽を指さしながら言った。 「その言葉、私を褒めたのだと取っておくよ」  紫陽は彼女の指を払いのけながら答えた。 「――先生は、あいつらのこと怒らないの?」 「まあ、下衆の勘ぐりは何処にでもあるって事だな。それにこの紫陽の力をもってすれば、たとえ天狐であろうとも五雷法で自在に扱える。大した問題じゃない」  紫陽はニヤリと笑った。 「さすが、先生」 「だからお前は安心して行くがいいさ」 「うん、ありがと――」  ふいに飛蝶は風を感じた。振り向くと、驪龍が、先ほどの棒を手に、もの凄い早さで走り去っていた。 「驪龍先生!?」 「――しまった」  紫陽は焦った。先ほどまで周りを囲んでいた妖狐たちの気配が一切消えているのに、何故、気づかなかったのか。あの弟弟子の様子を見るに、尋常ならざる何かが起こっている。 「あの野郎、見えたことは全部話せっての! 先走りやがって」  彼は珍しく声を荒らげた。 「飛蝶、悪い。お前にこれから五雷法を掛ける」 「え? 何で!?」 「私の足じゃ、ついこの間まで甲冑着て走り回っていたあいつの足に、追いつくことなんて無理なんだよ」 「他に方法あるんじゃないの?」 「迅行符は行き先が解らないと使えない。後を追うには向いていないんだ。餞別だと思って、頼む」 「普通、餞別って旅に出る方がもらうんじゃないの? 逆でしょうに」  そう文句言いつつも飛蝶は呪符を受け入れ、彼女は金色に光る、馬ほどの大きさの獣に姿を変えた。
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