第4章 天網恢恢

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第4章 天網恢恢

 そこはまだ、できて間もない真新しい村だった。  (かまど)から立ち上る煙が数本見えるが、それ以外は動くものが何一切見当たらなかった。  驪龍は村を見渡せる崖の上に立っていた。紫陽は彼に追いつくと、飛蝶の術を解いて驪龍の隣に並んだ。 「この村は……?」 「先の戦乱で住むところを失った人たちが逃れ住んだ村です。祖廟を失い、城隍神(とちがみ)との縁も薄い。つまり加護が弱い。そこをつけ込まれたようです」 「――!」  そのひどい有様に、紫陽は反吐が出そうになった。 「師兄にも解りますか。幾重にも網のように張り巡らされた妖術が、住人の精気を徐々に吸い取っている様を」  驪龍は一つ息を吐いた。 「あと一刻もすれば、弱い者から順に命を落としていきます。――夜明けまでにはこの村の住人、全てが……」 「なんでこんなことに!?」  飛蝶が二人の足と足の間からヒュッと顔を出し、崖下を見た。大男二人が前にいては、様子を見ることができないのだ。紫陽と驪龍は黙って彼女一人分の隙間を空けた。 「何これ……この妖気、上の上の連中じゃない? しかも一人じゃない。いくつあるのこの妖気」 「十二体。上品の上、全てがあの村に揃ってます」 「本当に? 私らは集団で動く事なんてまずないのに、なんで上位が雁首揃えて……」  ただの意趣晴らしにしては、大がかりすぎる―― 「全ては飛蝶殿を、妖狐の社会に戻すためです」 「どういうこと? 私は掟に則って自由になった」 「そうですね。ただ、その掟は方法もありますよね」  そもそも三日間の猶予は、人間の男と一緒になることを前提にしたもの。しかし妖狐は人より遥かに長く生きる。それ故、天狐は恩情により寡婦となった妖狐は生家への帰還を許していた。 「確かにあるけど……?」 「天狐は飛蝶殿を手放したくないんです」 「何……?」 「飛蝶殿が、この七年、師兄より習っていたのは仙術の礎となるもの。天狐はそれを手中にしたいのですよ」    そういうことか――。紫陽は深く息を吐いた。  全てに合点がいった。 「七年前のツケを、今支払えって事か。全く以て、天の采配には逆らえん」  紫陽は頭をポリポリと掻きながら呟いた。その様を見た驪龍は、苦笑いを浮かべて頷いた。 「――つまりだな」  紫陽は飛蝶に向かって言った。 「連中はこの私を(あや)めて、お前を妖狐の世界に戻そうと企んでいるわけだ」 「え……」 「まあ、壮大な意趣晴らしだな」  そう言うと、次は驪龍に向かって言った。 「さっきのは、謂わば下っ端に私たちを足止めさせ、上の連中でこの大がかりな術を仕上げる時間稼ぎをしてたって訳だ」  驪龍は静かに頷いた。 「で、お前は、当事者をさておいて何しようとしてた」 「――イケると思ったんですけどねぇ」  苦笑いを浮かべながら驪龍は答えた。 「せっかく師兄たちが旧交を温めてるところに水を差したくありませんでしたし、私たちがので、天狐が下っ端連中を引き連れて南岳廟に罠を張りに行って、ここが手薄になってもいましたし……叩き潰すには良い好機だったんですが」 「叩き潰す?」 「ええ、これで」  驪龍は手にした棒を軽く振り回した。 「この村に掛けられた術は、一見複雑に見えますが、実は、それぞれの術が層のように単純に重なってるだけなんです。だから、掛けた順から逆に術者を叩き潰せば、術自体は簡単に解けます」  また力技を出そうとして……と紫陽は呆れた。 「だが、事はそう単純に行かなかったのだろう」 「ええ、浅はかでした」  驪龍は一つ息を吐いた。 「ここは霊山の麓ゆえ、善きものも悪しきものも四方八方に跋扈(ばっこ)しております。術を解いた瞬間、(たち)の悪いのが一斉に村になだれ込んで、私では太刀打ちできない状態になってしまいます」 「そこに気づいてくれて良かったよ」  紫陽は驪龍の頭をコツンと叩いた。 「そうなってしまったら、この紫陽の力を持ってしても、容易くはなくなる。だが今ならまだ打つ手はある」 「(すべ)があるのですか?」 「簡単なことさ。妖狐連中は、ここの城隍神(じょうこうしん)を剥がして術を掛けた。だからまずは、城隍神を呼び戻して住民の保護を確保する。次いで術を解いていけば良い。数は多いが、師弟(おまえ)がぶっ叩けば解けるくらい単純な術式だから、解呪も難しくない。一刻もかからずにすべて完了できる」 「城隍神って、そんな簡単に呼び戻せるの?」  横から飛蝶が口を挟んだ。 「まあ、城隍神というのは、その名の通り各城市にいるもんだから、実に数が多い。そこでそれを統括する役所が鄷都(ほうと)にあるのさ。そこに頼みに行くんだが、伝手があるからすぐに動いてもらえる」  紫陽は呪符をヒラヒラさせながら答えた。 「鄷都か……人が死ぬと行くとこだっけ」 「だな。そう言う場所だから、私もこの身で行くことはできない」 「え? どういうこと?」 「まあ、簡単に言うと、死体みたいになる」 「え?」 「外側は置いて、魂だけ鄷都に向かうのさ。中身がなくなるから、死体っぽくなる」 「何それ……」  とんでもないことを事もなげに言う紫陽に、飛蝶は思いっきり引いた。 「――それは、分形の術ですか?」  その術を習得した者は数えるほどしかいない、かなりの大技だと思いながら、驪龍は尋ねた。 「分形の術まではいかないかな……? それよりは簡単だ。だからな。まあ、分形の術の基礎だから、お前もすぐに出来るようになる」  難易度の高いことをいとも簡単に……と驪龍は苦笑した。 「――つまり、鄷都に向かってる間は、体はあっても私は。先ほどのように守る術を掛けることはできない」 「畏まりました」  驪龍はそう言うと棒きれを構えた。 「――だよな」  その様を見て、紫陽は溜息を吐いた。 「茅山を起つ前に、身を守る術の一つでも教えておけば良かった……」 「師兄、ご心配なく。生かさず殺さずは得意ですから」  この旅で初めて見せる、すがすがしい笑顔で驪龍は答えた。それを見て、紫陽はもう一度溜息を吐いた。 「あの――」  飛蝶は恐る恐る、持っていた剣を驪龍に差し出した。 「そんな棒きれじゃ、心許ないから、良かったらこれ使って」 「おや……」 「懐かしいな、それ。まだ持っていたのか」  それは六年前、秦王軍の洛陽包囲戦の頃に、故あって手に入った剣であったことを紫陽は覚えていた。 「うん、なんか手放せなくてね。ずっと持ってた」  飛蝶はそう言いながら、剣を驪龍に渡そうとした。しかし、驪龍は手でそれを押しとどめた。 「それは飛蝶殿が持っていてください。こんな物を私が使ったら、生かさず殺さずどころか(みなごろし)になってしまうので」 「――一応、不殺生の心得は解ってるようだな」 「まあ、今更、殺生の数が十や二十増えたところで大差ないんですが」  その言葉を聞き、紫陽はもう一度弟弟子の頭をコツンと叩いた。 「さてと、」  紫陽は驪龍に訊いた。 「連中の動きはどうだ?」 「村の中にいる十二体は、城隍神の廟を乗っ取って精気を吸っています。そして南岳廟にいった天狐とその配下は、私たちがこちらにいるのに気づいて、戻ってきている最中です。間もなく姿を見せるでしょう」 「では、こちらも急ぐか」  そう言うと、紫陽は飛蝶に向き直った。 「では飛蝶、後はこちらで片付けるから、お前は行くがいい。達者で過ごせよ」 「え――何で」 「何でって、そりゃ……」 「妖狐は、人間よりもずっと同族殺しの罪が重い。諍いに首を突っ込むと、我が身を滅ぼしかねないからです」  言葉に詰まった紫陽に代わって驪龍が答えた。事実、同族を殺した妖狐は、天狐によって魂ごと滅せられるという掟があった。 「でも」 「大丈夫だって、落とし前はこっちでつける」  紫陽は飛蝶の肩をぽんと叩いて笑った。 「納得できない」  飛蝶は首を振った。 「元々は、私の勝手から起こったこと。確かに手出しはできないけど、見届ける責任はある」  その言葉を聞いて、二人の道士は顔を見合わせた。紫陽の目配せに、驪龍は不請不請(ふしょうぶしょう)ながらも頷いた。 「――解ったよ」  着衣の乱れを整えながら紫陽は言った。 「見届けるだけだからな」  そう言いながら、紫陽は一本の大樹の根元に座った。驪龍も彼の側に行き、大樹の周囲を囲むように、棒で円を描き始めた。 「飛蝶殿もこの円の中に」  驪龍は彼女を呼んだ。 「この円の中から、一歩も外に出ないでください」  その言葉に、飛蝶は頷いた。 「私もこの円からは出ません。この円に入った者のみ叩きます」 (一応、気を遣ってるわけだ)  最低限の防御で済ませようとする弟弟子の姿勢を、紫陽は微笑ましく思った。 「では、後は頼んだぞ」  紫陽は大きく息を吐くと、瞑目して印を組んだ。と、すぐに首が力なくガクンと落ちた。  その様子を見て、彼の横に座っていた飛蝶はひどく驚いた。彼の体から何かが脱けただして大樹に吸い込まれるのが見えたからだ。  抜け殻になった身体は、息も脈を止まっているように見えた。よくよく注意してみれば、微かだが息も脈もあるのだが、死体のようにしか見えなかった。  一方の驪龍は、二人の前に立ち、遠くの空をじっと見据えていた。      飛蝶も、驪龍の視線の先を見た。 (あれは、(しん)宿の狐)  天狐の一人が空に浮かびながら、驪龍とにらみ合っていた。と、飛蝶の視線に気づくと、彼女の方を向いてニヤリと笑った。そしてふいっと上を向くと、そのまま勢いをつけて天に昇っていった。 「何……」 「挑発に乗らないでください!」  飛蝶の言葉を遮るように、強い語調で驪龍は言った。 「天狐は、師兄が現し身を残して鄷都に向かったことに気づきました。今が、あなたを取り戻す好機とみています」 「え?」 「連中はあなたの罪悪感を利用します。自分の勝手で、私と師兄が命の危機にさらされるてしまったという、罪の意識に駆られるのを待っているんです」  驪龍は棒をひゅんと唸らせた。 「しかし、こうなったのは、七年前。師兄と私の浅慮の結果です。これから起こる全てのことは、私たち二人の自業自得なんです」 「――何が起こるの?」 「大したことではないですよ」  飛蝶の不安を払うように、驪龍は微笑んだ。 「術者がいないところにつけ込んで、これから妖狐たちが全力で襲いかかってくるだけです」 「それって“大したこと”でしょ」 「否、全然」  驪龍は楽しそうに笑った。 「まず、この円の中にいる限り妖術は効きません」 「え?」  驪龍は棒で地面を指し示した。  飛蝶は、円の内側に、文字や図形がいくつか書き込まれているのに気づいた。 「簡単な結界です。これだけは師父より教わっていたんですよ。次兄をから守るためにね」  それから驪龍は棒をくるりと回した。 「そして力勝負であれば、私は負けません」 「言うね」 「私を誰だと思ってるんです? 生まれてこの方、人生の大半は死地で過ごしているのですよ。踏んだ場数が違います。それにこれからやって来るのは謂わばの烏合の衆。ただ数が多いだけです」  驪龍の表情が変わった。敵が近づいてきたらしい。 「とにかく、飛蝶殿は全部終わるまで、見守ってくれれば良いんです」  そう言う彼の表情を見て、飛蝶は気づいた。 (この人、(たの)しんでる!)  青藍の道衣を纏ってるくせに、その中身は生粋の戦士だ。今、戦いを前にした緊張感を、心の底から愉しんでる―― (紫陽先生も、ずいぶん厄介な人の面倒見る羽目になったもんだ)  そう思いながらも、飛蝶は彼がどのように戦うのか愉しみにしている自分にも気づいていた。  そして、それは彼女の期待を遙かに大きく上回った。   一体どこから、こんな数を集めてきたのか。天狐の威光を最大限に使ったのだろうが、それにしても、集団で動くことない妖狐たちを、よくまあここまでかき集めたものだ。  天を覆うばかりの同胞を見つめながら、飛蝶はそう思った。そして数の多寡がここまで意味を成さないのも、初めて見た。    それほどまでに彼は強かった。そして、美しかった。  強いということは、美しいんだ――飛蝶は心の底から、そう感じていた。  指先から爪先までの四肢の動きには、何一つ無駄がない。最小限の動きで、最大限の力を発揮する。その一挙手一投足の滑らかな動きが、優雅にすら感じられた。  妖力が通じないと解ってからは、妖狐たちは次々と力任せで襲ってきた。驪龍はそれを流れるような仕草で捌き、正確に急所を突いていった。  急所を突かれた妖狐は、身動きができなくなり、死体のように横たわった。驪龍は足でそれを円の外に蹴り出しながら、棒で別の妖狐の急所を突く。この一連の動作を、息を切らさぬまま、いや、切らさぬどころかまったく呼吸を乱すことなく、数十回と繰り返していた。 (なんて人なの……)  “生かさず殺さず”なんて、ただの比喩じゃなかった。力勝負では負けない? ――本当だった。こんなことを有言実行できる人物がいるなんて……。  動けなくなった妖狐の身体が累々と積み重なる中、飛蝶は瞬きをするのも忘れて驪龍の動きに見入ってた。  そして、彼女は、自分がいかに“知ったつもり”でいたのかを思い知らされた。  大地を巡る気の扱い方が、自分とは全く違う。修行の成果、とはこのことなのかと。    紫陽が鄷都への入り口に使ったこの場所は、地脈の(けつ)――つまり大地に流れる気があふれ出るところであった。紫陽はこの気の流れを利用して鄷都に入っていた。  一方の驪龍は、その気を巧みに利用し、襲いかかる敵を仕留めていた。彼はこの地の気を取り込ずと、時には流し、時には溜めて一気に放出する。それによって、最小限の動きで最大限の力を発揮することができたのだ。 (私はこの七年、何を学んでいたんだろう)  驪龍の動きや呼吸を見ながら、彼女は己の未熟さを痛感した。彼のそれはは、調息と導引術が基になっていた。  対して自分は、調息も導引も、ほんの基本しか教わっていなかった。  もっと深く知りたくとも、紫陽は言葉巧みにかわし、奥義からほど遠いところしか教えていなかったからだ。そこで、紫陽の日々の修練を密かに盗み見ては、教わっていない部分を知ろうとした。いや、それで知ったつもりになっていた。  けれどそれは、まったくのお門違いだった。  彼女は、先ほどのことを思い出していた。紫陽に使役獣とされたとき、彼女はただの器だった。紫陽の強い気が全身を駆け巡り、己の姿を変えて天を駆け抜けた。  使役されている屈辱感より、彼の気が流れることでもたらされた恍惚感や陶酔感が、彼女の心を支配していた。あの不思議な感覚。  多分、同じだ。驪龍が気を巧みに使っているのと、自分が紫陽の気に使われた状態。  あの感覚をしっかり覚えている今なら、できるかもしれない。 (やってみたい)  そして、驪龍の動き、呼吸を倣おうと、彼の一挙手一投足を必死に目で追った。全てを模倣するのは無理だ。彼の動きは速くて綺麗すぎて、覚える隙がない。その上、闘いながら得た気を、さらに紫陽に向けて流し、兄弟子の消耗をできるだけ防ごうともしていた。いくつもの気の流れを同時に扱うことなんて、自分には到底できない。  では、自分ができることは? (気を溜めて、一撃と共に一気に放つ。それならできるかもしれない)  ただ気を溜めて、攻撃のためだけに使う、それならできる。そう彼女は確信した。  そう思ったら、もう居ても立ってもいられなかった。  飛蝶は、先ほど驪龍に渡せなかった剣を手に取り、一気に空中へ駆け上がった。そして天空で妖狐たちの指揮を執っている軫宿の狐に向かって一気に斬りかかった。 「まさか、蔡殿が引き受けていただけるとは……」  紫陽は年老いた城隍神に恭しく礼を取った。 「よいよい、本来、城隍神は成り手数多なんだがね、このところ異動が多くて手続きが追いつかん。さらに今回は急を要する。ならば私が出るのが一番手っ取り早いと思っただけだ――なんて言うのは建前でな。たまには現場に出てみたくてな」  老神(ろうじん)は穏やかに笑った。 「鄷都の仕事も嫌いではないんだが、城隍の細々(こまごま)した仕事も懐かしくてな」 「大丈夫なのですか」 「さあてな……まあ、仕事が滞ったら、直ぐさま関帝君が代わりを寄越すだろうから、さほど心配はしとらぬ」  城隍神の代わりはいくらでもいるが、鄷都において彼の代わりはいない……城隍神を統べる関帝府の中でも、とりわけ重鎮のお出ましに、紫陽は恐縮していた。 「ほら、若いの。ボケッとするな。一刻を争うのだろ。こちらは城隍(こちら)の仕事をする。お前さんはお前さんの仕事をしろ」  老神の言葉に紫陽は気を取り直した。  そして、老神と共に村の里門(りもん)の前に立った。肉体から離れ、魂魄のみでいると、この村に張り巡らされた術式がよく。 (雑な仕事してるな)  幾重にも重なってはいるものの、術式の稚拙さに紫陽は呆れた。弟弟子が力技でぶっ叩こうとしたのも納得な出来であった。  でもこれなら、思った以上に早く解呪できる。紫陽は絡んだ糸を解すように、一つずつ丁寧に術を打ち消し始めた。  老神の加護もあって、順調に進んでいた――かと思ったその時。  妖狐たちの術が、一斉に消え失せた。 「――!?」  何が起こったのか、紫陽は一瞬、理解できなかった。 「おやおや」  彼の背後に、いつの間にか老神が立っていた。 「これはお前さん、早々に戻った方が良さそうだ」  そう言いながら、老神は彼の背中をドンと強く押した。あまりの衝撃に、息が一瞬詰まった。  ふっと息をついた瞬間、目の前に驪龍の顔が現れた。驪龍は兄弟子と目が合うと大きく溜息を吐いた。 「……良かった。呼び戻し方が解らず、途方に暮れていたんです」  “途方に暮れる”なんて、弟弟子にしては珍しいこと言っているなと思いながら、紫陽は辺りを見回した。そして真っ先に目に入ったのは、周囲に散乱する妖狐の死体だった。 「死んでません。(けつ)――急所を突いたので、しばらく身動きできないだけです」  紫陽の視線を察した驪龍は、慌てて釈明を始めた。 「しばらく?」 「あ、ちょっと力加減ができなかったので、丸一日か二日か――そんなことより」  驪龍は紫陽の肩をぐっと掴んで言った。 「あの“跳ねっ返り”がとんでもないことをしたんです。師兄、力を貸してください」 「跳ねっ返りって、お前……」  どんなに見回しても、ここに飛蝶の姿が見えなかった。一斉に消え失せた術と良い“百戦錬磨”の弟弟子の困窮している姿と良い、嫌な予感しかしなかった。 「飛蝶(あいつ)は、ああ見えて、私たちより遥かに長く生きてるんだぞ。そんな小娘のような言い方は」 「生きてる年月なんて関係ありません。彼女は未熟で衝動的で、考えが足りない――」  ああ、嫌な予感は当たっている。弟弟子の口ぶりに、紫陽は確信した。 「詳しい話は後で良い。とにかく飛蝶の元に行こう」  紫陽はそう言って立ち上がった。  そこは、むせかえるような血の臭いに満ちていた。  嘔吐(えず)きそうになるのを、紫陽は必死に抑えた。横では、驪龍が眉間に皺を寄せていた。数多の戦場を経験してきた彼でも、この光景は耐えがたいものがあるのか――。 「あら、先生達」  飛蝶は血だまりの中にいた。そして二人に気づくと、ペロッと舌を出した。 「驪龍先生の、見よう見まねでやってみたら、結構上手くいったみたい」  それは相手の“思い込み”に乗じた不意打ちだった。  同族を殺した妖狐は、魂ごと存在を消される。何より、天狐が同族殺しを禁じている以上、それを逆らうことはことだった。  だからこそ、軫宿の狐は飛蝶が本気で襲いかかってきたとは思っていなかった。その油断が彼の命を奪った。  飛蝶は軫宿の狐の首を斬り落とすと、そのまま一気に村へ飛んだ。そして、廟を陣取り、車座になっていた妖狐たちにど真ん中にその首を投げつけた。  十二体の妖狐たちは、何があったのかすぐに理解はできなかった。理解できても、信じることができなかった。  思考停止状態に陥っているその瞬間を、飛蝶は逃さなかった。近くから手当たり次第に斬ってかかった。  それはもう、虐殺と言ってよかった。  年若いものは、多少の反撃はした。しかし、実力のある年配者ほどに雁字搦めになっており、本来の力を発揮する機会を出せぬままに終わった。  軫宿の狐を斬ったときは、頭に血が上っていた状態であった飛蝶も、だんだんと冷静になってきた。最初はただの好奇心。それがこうなった――それで良かった?  彼女自身が、自分のやっていることにゾッとしていた。  でも、もう、後には退けない。軫宿の狐を斬ったときから結末は決まってた。――ならば、決着をつけるのは自分自身。己の手を血で染める以外、為す(すべ)はなかった。  そうして彼女は血の海に沈んだ。 「紫陽先生、ごめんね。いろいろ教えてもらったのに、私は全部無くなっちゃうから……」 「飛蝶――」 「後悔はしていない。自分でやらかしたことの決着を、自分でつけられたんだから。それにね、先生に会って、妖狐の身にあるまじき幸せを得られたと思う。どんなことをしても、いずれは消えて無くなる、それを忘れちゃうぐらい、いろんな事を教えてもらえた」  飛蝶は寂しそうに笑った。 「これで消えても悔いない。けど、天狐まで()っちゃったから、一族連座になるでしょうね。ま、兄貴と嫂さんがそもそもの原因だから、別に良いんだけどさ。ただね――」  彼女は肩をすくめた。 「甥っ子まで累が及ぶのはね、悔しいかな。まだ小さいのに。生まれたときから、ずっと、守ってきたつもりだったのに。私のせいで消えちゃうのが、ね」 「飛蝶殿」  驪龍は彼女に近づくと、両手で彼女の手をギュッと握った。 「まだ、諦めないでください。貴女の大事な甥の命を」 「え?」 「それに、ただ消えるだけでは、この(とが)(あがな)いきれませんよ」  思いも寄らぬ言葉に、飛蝶は驪龍の顔を見た。彼はただ、静かに頷いた。 「北を目指して行ってください。今すぐ」 「北?」 「遙か北、漠北(そうげん)の地に、阿史那(アセナ)の廟を守る人狼がいます。彼の元へ行ってください。そこへ行けば、甥の命も失うことはなく、貴女の為べきことも示されます」 「でも――」 「早く! 行くんです!!」  驪龍は珍しく語調を荒げた。彼女はもう一度彼の目を見た。そして頷くと、返り血もそのままに空へ駈け上がった。 「どういうことだ?」  北に向かって飛んでいった飛蝶を見送りながら、紫陽は訊いた。 「天網恢恢(てんもうかいかい)()にして()らさず――天狐の追捕(ついぶ)から逃れることは不可能。さらに逃亡したとあれば、最悪の事態を招くぞ」 「確かに」  驪龍は空を見上げながら答えた。 「でも、その天網に穴を開ける(すべ)はあります」 「何」 「彼女のやったことは最悪です。このまま逃げれば、最悪の最悪となるでしょう。しかし、ここから最悪の最善にすることはできます」 「起死回生の手立てがあるのか?」 「ええ」  驪龍は紫陽に向き直った。 「そこで師兄の力を借りたいのです」 「……どんなことだ」 「一緒に怒られてくれますか?」  その言葉を聞いて、紫陽は思わず吹き出した。そして全て悟った。 「お前はこの紫陽の“怒られ芸”をそんなに見たいのか」  驪龍は苦笑いを浮かべながら頷いた。 「ああ、解った。任せろ。一日に二度、祖師から叱責を受ける名誉を喜んで受けよう」  驪龍が借りたいのは、自分ではなく祖師の力。しかしそのためには、今日、今この時に起こった出来事の責任を、祖師に示さなければいけない。 「では急ぎ戻ろう。うかうかしていると、天狐の追捕が来てしまう。しかし、仙界へはどう行けば良いのか……」 「大丈夫です、道は示されてます」  驪龍は行き先を指で指し示した。 「祖師も待ちかねてるようですし――」  紫陽は驪龍の肩をポンと叩いた。そして城隍神に廟を荒らしたことを詫びると、驪龍と共にその道を進んだ。
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