第5章 狐と狼

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第5章 狐と狼

 北へ。ただひたすら北を目指す。 「――って、どこまで行けば良いのさ!?」  驪龍の勢いに押されて飛び立ったものの、肝心の行き先が全く解らなかった。彼が言ったのは、漠北にある阿史那(アセナ)の廟。 「それが何処にあるのかまで、ちゃんと言えっての」  阿史那の廟なんて、聞いたことない――いや、でも……。  その時、飛蝶は迫り来る気配に気づいた。 (さすが、天狐様。動きが私の何倍も速い)  間もなく追いつかれる。どうする? 「どうするもないか。行けるところまで行くしかない」  空中を(かけ)ながら、飛蝶は自問自答していた。 「そうだ、確か……」  昔、叔母に聞いた話を、飛蝶はふと思い出した。と同時に、天狐の姿が目に入った。  飛蝶は動きを止め、風を読んだ。そしてゆっくりと深呼吸をした。 「――飛蝶、観念したか?」  (きよ)宿の狐が動きを止めた彼女を見ていった。  飛蝶は微笑みでそれに答えた。追っ手は三体。虚宿、(けい)宿、そして()宿の狐。  天狐達は、飛蝶がただ黙ってこちらを見ている様子を訝しみながらも、ゆっくりと彼女に近づいてきた。  急がなくていい、ゆっくり近づいてきて……飛蝶も待っていた。彼らが近づくのを。そして―― (今だ)  風の勢いが一瞬強くなった。その瞬間を逃さず、飛蝶は掌を開いた。そして掌中にふっと息を吹きかけた。キラキラと光るが舞い上がり、天狐に向かって行った。 「(ばく)」  ありったけの気を込めて、飛蝶は言った。  キラキラと光るものが、三体の天狐達にまとわりつくと同時に、彼らの動きを奪った。  天狐達は、悲鳴すら上げられぬまま、地上へ墜ちていった。 「嘘みたい……」  予想以上に上手くいって、飛蝶は驚いた。相手の不意を突ければそれでいいぐらいにしか思っていなかったからだ。 「紫陽先生、やっぱりすごい」  そう呟くと、飛蝶は再び翔だした。  北へ行けと言ったあの時、驪龍は飛蝶に五雷法の呪符を握らせた。飛蝶に使った使でも、何かの役に立つかと考えたのだ。  そして飛蝶は、天狐が近づくのを待っている間にそれを千切り、彼らに向かって放った。  天狐すら自在に扱える紫陽の力が仕込まれた呪符。使い古しでも千切った欠片でも、あれだけの効力があるとは……当代随一の使い手の底力を見た気がした。  そして驪龍の抜け目なさ。さすが、数々の修羅場をくぐり抜けた歴戦の戦士だけはある。 (本当にあの二人は)  茅山の二人に、ただ、感謝しかなかった。これでかなりの時間を稼げる。  目指すのは――   それはまだ、自分が幼くて、叔母もまだ生きていた頃。  何気なく聞いた話。 「突厥の始祖って私たちと同族なのよ」  叔母は嬉しそうに笑った。 「可汗の祖先は、狼と人の間に生まれたの」 「狼? 私たちは狐だよ」 「おんなじよ」  叔母は笑った。 「どっちも天地の(おり)から生まれ、向こうは狼、私たちは狐に擬態しているだけ」 「ふうん」 「羨ましいと思わない? だって、人との間に子をなせて、それだけじゃなく、子孫があれだけ強大な国家の可汗になったなんて」 「で、そこからの使者が今日の精気(エサ)ってわけだ」 「文句言わない」  叔母は飛蝶のおでこに自分のをコツンとつけた。 「自分で精気を摂れるようになるまでは、黙って従いなさい」  そう言って叔母は彼女に精気を分け与えた。幼い妖狐は、一人前になるまでは、そうやって大人達から精気を分けてもらって成長する。  叔母から分けてもらった精気は、いつもとは違う不思議な味がした。 「ねえ、姑姑(おばさん)。この使者って、どこから来たの?」 「どこって……? 突厥」 「その突厥って、どこにあるの?」 「え? さあ……?」 「やだ、知らないの!?」  狼狽える叔母を見て、飛蝶はケラケラと笑った。 「そんなこと知らなくても精気は吸える」  開き直ったように叔母は言った。 「あ、でもね、ひとつ知ってる」 「何?」 「先祖は(アルタイ)山にいたって、使者さんが言ってた」 (あの後、その金山とやらがどこにあるのか、興味本位に調べておいて良かった)  そこはとても遠くて、果たして辿り着けるのかどうか――でも、金山(そこ)しか心当たりがない。その始祖の地を目指して、行くしかない。  と、その瞬間、激しい痛みが身体を貫いた。同時に、四肢がバラバラになるような衝撃。  天狐だ。  飛蝶は、意識を必死に保ちながらなんとか体制を整え、墜落死だけは免れるよう、受け身を取って落下していった。  冷たく乾いた風が頬を撫でた。飛蝶は、自分が一時気を失っていたことに気づいた。 (まだ生きてるみたいだね)  空は突き抜けるように蒼い。少し黄みがかった草の海の中にいるのが解った。ついさっきまでいたのは、蒸し暑く、濃い緑の中。 (ここまで来れたんだ)  どこかは解らないけど、間違いなくここは漠北。 (天狐の放った雷(いかずち)に当たって、よくまあ生き残れたもんだ)  (おのれ)のしぶとさに感心しながら、飛蝶はゆっくりと身を起こした。 「――お前という奴は」  誰かが口を開いた。クラクラする頭を支えながら、その声の方を見た。五体の天狐が、自分を取り囲んでいることに、そこでようやく気づいた。  二十八宿を模しているとは言え、実際に動いている天狐は九体。全天狐が自分のことで動いているのか。  こんな小娘に大袈裟なことだと、飛蝶は可笑しくなった。 「軫宿だけでなく、他の三宿も危うく命を落とすところだったぞ」  飛蝶に話しかけていたのは、房宿の狐だった。事実上、最上位にいる天狐だ。 (ああ良かった、三宿(かれら)は無事だったんだ)  房宿の言葉に、飛蝶はホッとした。 「お前が持つ、その仙術。ここで失うのは惜しいな」 「全くです。大人しくしておれば、いずれは天狐にまでその身を上げられたものを」  横から壁宿の狐が口を挟んできた。飛蝶に縁談を持ち込んできた天狐だ。 (なるほど、いきなり天狐にするには、私の身分が低すぎたからか。あの縁談を持ち込んだのは)  彼らの話をぼんやりと聞きながら、彼女はこの騒動の発端が何であったのか理解した。 (驪龍先生の言ったとおりだった。彼らは私が得た仙術を手に入れたかったんだ) 「その仙術、こちらに渡すことはできぬか?」  房宿の狐が訊いた。 (ああ、なるほど。天狐が揃ってるのはそのためか。仙術を得るのにお互い抜け駆けなしってことね) 「――残念」  飛蝶は笑みを浮かべながら言った。 「これを得るのに七年かかった。渡すにも七年かかるな」  そう言うやいなや、パンと大きな音がして、飛蝶の右頬に平手が入った。飛蝶は蹲って痛みに耐えながら息を整えた。 「こんな輩にこだわることはない。さっさと滅してしまおう」  この怒声は危宿の狐か。(はた)いたのも彼だな。そう考えながら、飛蝶は手に握れるだけの砂を掴んだ。そして立ち上がった。 「五雷法!」  そう叫びながら、砂を五体の天狐にぶちまけた。  仙術の恐ろしさを知っている天狐達は、砂を避けようと必死に身を屈めた。その隙に飛蝶は駆け出した。 (ざまあ見ろ。ただの砂に呪力なんて無い。まあ、紫陽先生ならやれるかも、だけど)  走りながら、飛蝶は心の中で舌を出した。  ただの砂に気づいて、彼らはまず空を見るだろう。走るより空を翔る方がずっと早く遠くまで行けるからだ。足元に気づかなければ、そこそこ逃げられるはずと、飛蝶は算段していた。 (もっとも、私の気配がどこにあるか気づいたら、それで終わりだけど)  行けるところまでは行く、そうしなくてはいけない気がして、飛蝶は必死に走った。“何か”に導かれて。  そして――  彼女は足を滑らせ、何か柔らかいもの上に倒れ込んだ。 (終わった……)  天狐達の足音が聞こえてきた。 (なんでご丁寧に、私に合わせて走ってくるんだろう。この甘さが“狐”なんだよね)  飛蝶は倒れたまま笑った。また叩かれるか、いきなり滅せられるか、どちらになるのかを考えながら。 「コイツ……!」  息を切らせながら、天狐達が追いついてきた。血気盛んな危宿に、また叩かれるのかなと飛蝶が思ったその時、寄りかかっていた“柔らかい何か”がゆっくり動いて、飛蝶と天狐の間に座った。  ――それは銀色の毛並みを持つ、大きな狼だった。  狼はまず、飛蝶の顔を見た。それから五体の天狐達をまじまじと見つめた。そして大声で笑った。 「こんな小さな娘ひとりに、大の(おとこ)が五人とは……狐は面白いのう」  狼はほぼで喋った。 (この狼は同族――!)  それぞれの集団は、それぞれの言葉を持つ。それは人も物怪も同じ。近縁であればあるほど、同じような言葉を話す。  飛蝶は瞬きも忘れて、銀色の毛に覆われた狼の後頭部を見つめていた。狼はかしかしと、後ろ足で耳を掻いた。 「おやおや、どうした若いの? 狼を見るのは初めてかのう?」  狼はニヤリと笑うと、ゆっくりと立ち上がった。すると、腰が曲がった白髪の老人となった。少し彫りの深い顔に刻まれた深い皺。胡服と呼ばれる遊牧民族のまとう毛織物の服を纏ったその姿は、同族といえど異国のものであることを強く感じられた。 「ご老体、大変失礼つかまつりました」  天狐達は慌てて拱手し、礼を取った。 「その娘、(なり)は小柄ですが大罪人です。私たちは――」 「大罪人か! それは面白い!!」  房宿の言葉を遮るように老狼は笑った。 「で、お若いの。この大罪人をどうするのか?」 「それは……」 「もちろん誅します。それが我らの仕事ですから」  口ごもった房宿に代わって危宿が答えた。 「ほうほう、誅するとな」  老狼はぬっと一歩前に出た。 「それはここでやるおつもりか?」  老狼は、房宿の狐に顔を近づけながら言った。房宿は気圧されて一歩後に退いた。 「もちろん……」 「領分、というのを存じておるか? 若いの」  老狼はさらに間合いを詰めた。 「お主ら、狐がお仕えしているものと、わしらがお仕えしているものは違う。ここは金山の君が司る土地でな。お主らの勝手にされては困る」  それから老狼は、この土地のことやら“金山の君”の話やら、挙げ句の果てに昔出遭ったの話まで、思いつくままを、まくし立てるように話し出した。 「――ご老体、確かに我らは無礼でした。金山の君へは、また改めてお詫びいたしますので、ここは辞させていただきます」  止めどなく話し続ける老狼に辟易した房宿の狐は、ここは一旦退くことに決めた。そして飛蝶に向かって言った。 「ここはご老体と金山の君に免じ、我々は退く。だが、お前が許されたわけではないということを忘れるな。お二方の庇護から離れたら、我々は即、お前を誅する」 「房宿、それでいいのか?」  危宿が納得できないという口調で、房宿に言った。 「まあ、焦るな。この地は我々の糧となる人の気配が少ない。直に奴は飢える。飢え死にするか、ここを出るかのどちらかだ。我々はただ、その時を待てば良い」  房宿は飛蝶を睨み付けながら、捨て台詞のように答えた。そして、四体の天狐と共に、その場を去って行った。 「おやおやおや」  消えていく天狐達を見ながら、残念そうに老狼が呟いた。 「まだ話は途中と言うのに、せっかちよのう」  彼は、老人の姿から狼の姿に戻ると、大きな欠伸をした。 「ところで嬢ちゃん」 「え? あ、はい?」 「お主に伝える事があったんだがのう」 「伝える事?」 「ああ、ここで飯でも喰いながら、お主を待とうと思ってたんだが」  老狼はもう一度大きな欠伸をした。 「最近、眠くて仕方が無い。眠くて眠くて、飯喰うのも忘れて寝てしまってたんじゃ」  そう言いながら、老狼は丸くなって目を閉じた。 「ちょっと、おじいさん! 伝えたいことがあるって言うのに、なんでまた寝ようとするの!?」  大らかな老狼の振る舞いに、飛蝶は慌てながら駆け寄った。 「とりあえず、おじいさん、ご飯食べよっか」  老狼を起こしながら、大きな声で言った。 「飯か……最近、狩りをするのも億劫でのう」 「大丈夫! 私が代わりに獲ってくるから、起きよう! 何食べたい?」 「そりゃ、肉に決まっとる」  面倒くさそうに老狼は言った。とにかく寝たいらしい。 「解ったから、起きてて――」  必死に起こそうとする飛蝶の目の前に、ドサリと何かが落ちた。 「(じい)、喰え」  涼やかな声が響いた。“同じ言葉”のようで、何か違う響き。これは誰だ? そう思って見上げると、赤い胡服の女性が立っていた。  筒袖で裾が長く、金糸で細かい刺繍が施された上衣に、金色で筒型の帽子。赤く先の尖った(くつ)。飛蝶は洛陽で、西方より来る色々な民の胡服を見てきたが、彼女の纏うそれは、初めて見る意匠だった。  その女性が老狼に向かって投げたのは、地栗鼠(じりす)のような生き物だった。老狼は目を開けてそれを見ると、大きな口を開けてそれにかぶりついた。 「済まない。爺はもう長く生き過ぎて、時々こうなる。何か食べれば多少は頭がすっきりするだろう」 「でも、食べたらまた眠くなるんじゃ……」 「かもな」  女性は笑った。 「だが、そなたにも休息が必要ではないのか? ここまで遙々(はるばる)来たんだ。かなり消耗しているのではないか?」  言われてみれば確かにそうだ。飛蝶は座って目を閉じ、深い呼吸を始めた。 「――それが、仙術か?」  飛蝶の調息を見て、女性が訊いた。老狼も興味深そうに見ていた。 「違う」  飛蝶は静かに首を振った。 「本当の仙術なんて、こんなもんじゃない。ただの、道士の先生に教わった呼吸法。精気を補えるからやってるだけ」  その言葉に、女性はふふっと笑った。 「そう己を卑下するな。ここまで運んでやった甲斐がなくなってしまう」 「運んだ?」 「適当に飛んでここまできたと思うか?」 「――え?」  赤い服の女性は天空へ向かって手を伸ばし、大きく回した。それに合わせるように空気が動いた。一陣の風が巻き起こり、砂塵を空高く巻き上げていった。 「ほら、こうやって風に乗せて運んだのだ。だから真っ直ぐにここに来れたろう?」  自分はか――風に飛ばされ消えていく砂塵を見上げながら、飛蝶はぼんやりと思った。 「――では、道中、天狐からの攻撃も防いでくれたのですか?」  であるならば、天狐の雷を喰らってもなお無事だったことへの説明もつくかと飛蝶は思った。  しかし、その女性はその言葉を一笑に付した。 「まさか、そんな面倒なことなどしない」  ケラケラと笑い続けながら彼女は続けた。 「お前が無事なのは、あの若い道士のおかげだな。私はただ、お前を風に乗せただけ」  それはかなり後から知ったことだったが、紫陽は旅立つ飛蝶への餞別として“辟兵(へきへい)”の術をかけていた。それはあらゆる攻撃から身を守る術だった。 「私は元君(げんくん)に頼まれて、場所を貸すだけだ。まあ、良い貸しができたがな」 「元君? 誰?」  女性は飛蝶の問いかけを無視し、老狼を促した。 「ほれ、爺。寝るなよ。帰るぞ」  老狼は口を舌で拭うと、大きく伸びをした。そして老人の姿になるとスタスタと歩き出した。女性もその後に続いた。しかし、呆気にとられている飛蝶に気づくと、くるりと振り向いて言った。 「ほら、嬢ちゃん、行くよ」 (……嬢ちゃんって、何? 私?)  そう思いながらも、飛蝶は慌てて立ち上がると、二人の後に続いた。  ここは風が強いな……飛蝶はそう思いながら必死に二人の背中を追いかけていくと、更に強い風が吹いた。埃が目に入って、飛蝶は思わず目を閉じた。  そして次の瞬間、風が凪いだ。あまりにも不自然な風に、飛蝶は訝しみながらゆっくりと目を開けた。  そこは暗闇だった。日の光が降り注ぐ草原は、どこかへ消えていた。  暗闇に目が慣れてくると、ここは洞穴のような場所であることが解った。 「――悪いな」  灯りを提げながら、女性は言った。 「お前を追っている連中はちょっと厄介だから、目を眩ませた」  ああ、天狐達のことを言っているのだなと飛蝶は思った。 「……ここは?」  女性はふっと笑うと、灯りを高く掲げた。  その灯りに照らされて、女性の像が浮かび上がってきた。 「ようこそ。阿史那(あせな)の廟へ。これが突厥の始祖と崇められる雌狼だ」  雌狼とはいうものの、その像は飛蝶と同じ人の(なり)をしていた。 「阿史那……突厥の王族の氏姓(な)よね」 「そうだ」  飛蝶の問いかけに答えながら、女性はの頭部に手を伸ばし、その髪を手櫛で整えた。そこで初めて飛蝶は、それが彫像ではなく、であることに気づいた。 「元は此奴(こやつ)の夫の名。夫亡き後、此奴がその名を引き継ぎ、そして己の子供にその名を受け継がせた」 ( ――可汗の祖先は、狼と人の間に生まれたの)  幼き頃に聞いた叔母の言葉が頭によぎった。 「そうか……」  姑姑(おばさん)、彼女がそうだよ。姑姑(あなた)が憧れて止まなかった――。 「うらやましいひと」 「何だ?」 「……あ、いや、独り言」  飛蝶は照れくさそうに笑った。 「私の叔母がよくね、この始祖狼のことを話してくれてたの。叔母にとって、このひとは憧れだった」 「憧れとな」 「叔母にも好いた人間(おとこ)がいてね……。でも結局は叶わぬ恋ってやつで。だから、人との子を()し、その(すえ)が強大な帝国の礎となった彼女は、叔母の憧れだった」  その言葉を、赤い服の女性は鼻で笑った。 「――酔狂だな。よく見ろ」  彼女は灯りを高く掲げ、始祖狼の姿をよく見えるようにした。 「己の犯した罪により、生きることも死ぬことも叶わず、その(すえ)が絶えるまで永久にこのままだ」 「え?」   「お前たちの(なり)は人に近いが、魂魄(たましい)は全く異なる。人は死してもその魂魄は残るが、お前たちのは霧散し、跡形もなく消え失せる」  それは飛蝶にも良く解っていることだった。 「だが、此奴はそれができぬ。養い子と夫婦の契りを交わすという過ちを犯した結果がこれだ。名を持ち、始祖として崇め奉られてしまった以上、もう、命は()うに尽きているというのに、朽ちることもできない」 「なぜ?」 「祈りが捧げられるからだ。祈りは魂魄に集まる。だからこうして身体(うつわ)を残して魂魄の霧散を防ぎ、祈りを受け取っている」 「祈りを受け取ったらどうなる?」  飛蝶の素朴な疑問に、赤い服の女性は皮肉めいた笑みを浮かべた。 「どうにもならぬな」 「――え?」  女性は彼女を指さしながら言った。 「同じ澱から生まれた同族であっても、この地に住む狼は血が薄くなっていてほぼ“獣”と大差ない。おまえたち妖狐ならともかく、此奴の力では、どんなに祈ってもらっても、大したことは出来ない」  あれほど強大な帝国を作り上げた突厥の始祖神には力がないと――!?  飛蝶の疑問を察し、赤い服の女性は言葉を続けた。 「そう、此奴にはあの帝国を支えてやるだけの力はない。だから、私がやった」  彼女はニヤリと笑った。
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