第6章 食出物(はみだしもの)

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第6章 食出物(はみだしもの)

それは遠い昔の話。  彼女は自分が他とは違うことが悲しかった。  群れの皆と違って、自分は姿が変わる。地肌が剥き出しになって四肢の形と体の大きさが変わるのだ。  その姿になると、群れの皆は一斉に自分から離れ去る。元の姿に戻ると、なんとか群れに戻ることはできた。だが、いつ変わるのか、いつ戻るのか解らない中、彼女は自ずと群れから距離を置くようになった。  群れを遠巻きに眺めて過ごすうち、同腹の弟も同じように姿が変わるようになったことを知った。そこで彼女は弟と一緒に群れを離れることを決めた。  草原を彷徨い歩く日々の中で、彼女はついに見つけた。姿が変わったときの自分たちと同じ(なり)をした群れを。  でも、同じようでいて、何か違う――慎重にその群れを観察していると、その群れもこちらのことを気づいた。そしてそのまま慌てて逃げていった。  彼女はまた悲しくなった。どうして、みんな自分から離れていくんだろうと。 「――そんな中途半端な変化(へんげ)では、そりゃ逃げられるな」  悲しくてうつむいている彼女の横に、いつの間にか赤い服の女性が立っていた。そして彼女にそう告げた。  「その姿は、人でもなく、獣でもない。彷徨いすぎて正しい形がわからなくなってしまったようだな」  その時の彼女と弟は、半人半獣の形をしていたのだ。しかし姉弟(きょうだい)は何が正しい姿なのか知らなかった。  それからその女性は、時間をかけ、色々なことをふたりに教えた。  人と獣の姿に自在に変わる方法。  人の姿になったときの所作振る舞いや言葉。そして、人との関わり方。 「お前たちは、獣の血が濃い故、大した妖力(ちから)はない。異形の者として己を守る力もない。だからあまり人に近づくなよ」  赤い服の女性は続けて、お前たちはただの先祖返りだからな、と呟いた。彼女はその意味がよく解らなかった。だから過ちを起こした。  赤い服の女性の(もと)には、自分たち姉弟(きょうだい)以外にも同じような“異形”が数多(あまた)いた。弟はその中の気の合う連中と(つる)みだし、人に悪さをしたり、どこか遠くへ遊びに行ったりと気ままに過ごすようになった。  一方、彼女は弟のように気ままに動くことはなかった。人という存在が気になって仕方なく、いつも遠くから“人の群れ”を眺めていた。  細心の注意を払って“人の群れ”を見ていたはずが、ある日、ふとしたことから一人の少女に気づかれてしまった。  その少女は恐れることなく、人懐っこい笑顔で彼女に近づいてきた。そしてふたりは友達になった。    月日は流れ、成長した友は他の集落へ嫁いでいった。  彼女は、友と自分――人と異形の違いをよく理解できていなかった。だから彼女は、迷いもせず友を追った。  嫁ぎ先に突然姿を現した彼女を見て、友はとても驚いた。薄々は勘付いていたが、ここで改めて彼女が客神(まろうど)であると友は確信した。そして、人目を忍んで彼女に会うたび、自分の子供達への加護を彼女に頼むようになった。  その頃、彼女たちのいた漠北は、匈奴(きょうど)と呼ばれる部族が、いくつもの遊牧民族(たみ)を束ねていた。しかし匈奴(その)の支配は盤石ではなく、配下の部族は絶えず争いを繰り返していた。そしてある日、友のいた集落も部族間の争いに巻き込まれ、少年ただ一人を除いてすべて殺された。  唯一の生き残りは、意図的に殺されなかった。十歳という“大人”でもなく“子供”でもない中途半端な年齢が災いし、弄ばれるために残されたのだ。敵は一昼夜に渡りさんざんに(なぶ)った後、少年の四肢の腱を斬ってそのまま草原に打ち棄てた。  少年は、草叢(くさむら)に顔を埋め、ただ死をまっていた。彼方から狼の遠吠えが聞こえてきた。腱を切られた身では思うように逃げることは出来ない。このまま生きたまま獣に喰らわれ、この命を終えるのかと、彼はぼんやりと考えていた。  死を覚悟したその時、狼の遠吠えが歌に変わった。その歌は幼い頃、母が唱ってくれた子守歌に似ていた。そしてそれは母よりも低く、優しい声音をしていた。  やがてその歌声の主が姿を現した。その主は、見た感じ自分より少し年上の娘だった。彼女は少年を助け起こすと、まず水と肉を与えた。そして彼を安全な場所へ移し、傷の治療をした。  娘は、ずっと悲しそうな顔をしていた。時折、涙も流していた。そして日が暮れるとあの歌を唱いだし、ぎこちない手つきで彼を寝かしつけようとした。それは、間違いなく夕べ殺された彼の母の真似だった。  その姿を見て、少年は母がいつも話していた守り神のことを思い出した。その守り神は少女の姿をしていて、何かあったとき、必ず自分たちを守ってくれる存在だと母は言っていた。  間違いない、彼女がその守り神だ。  彼は力の入らない手を彼女へ伸ばした。彼女はその手をとって彼を抱き寄せると、一緒に泣いた。  それが、突厥の始祖となる二人の出会いだった。  しばらくは穏やかに歳月が流れた。  切られた腱は完全に元通りとはならなかったが、日々の生活を送る分には支障がない程度にまで回復した。  日々の糧は、“守り神”が狼の姿になって獲ってきた。少年はその獲物の革を(なめ)し、それを売ることで日銭を稼ぐことも出来た。  革を売りに行く時は狼の姿で、ふたりきりでいる時は娘の姿で、彼女はずっと少年の側にいた。少年はそんな守り神が大好きだった。出会ったときは、悲しい顔しかみせなかった彼女も、一緒に日々を過ごすうちに笑顔がたくさん出るようになった。  ふたりでいることが当たり前になり、ずっとふたりでいられると思っていた。  しかし、それは幻想に過ぎなかった。  ふたりがいつも一緒にいることが仇になった。  いつも狼を連れた青年が、市場に革を売りに来る。その物珍しさが話題になり、いつしか領主(イルキン)の耳にもその噂が届くようになった。そして領主はその青年の素性を知ると、恐れおののいた。  その領主は匈奴に取って代わろうと、絶えず周辺部族との争いを繰り返していた。その戦いぶりは容赦なく、一族郎党皆殺しにした部族も少なくなかった。その青年のいた部族も、勢い余って皆殺しにしたはずだった。  だが、生き残りがいた。そして領主は、その生き残りに心当たりがあった。あの部族で最後まで息があったのは、野獣の餌にすべく、草叢に打ち棄てた少年だった。  意に反してその少年は餌にならずに生き延び、逆に野獣を従えて現れた。  領主は、少年が何かしらの神威を得たに違いないと思った。  そして、その青年は必ず復讐に来るはずだ。それが草原の民(じぶんたち)の掟だからだ。そして神威が使われたなら、次に滅ぼされるのは自分たちだ。  ならば先手必勝。青年が復讐に動く前に、虚を衝いて殺すほかない。  領主はそう考えた。  草原の民は季節によって居を変えるため、城市というものはない。ただ、祭りの時期になると商人が集まってきて市が立つ。そしてその青年が現れる時期も場所も決まっていた。だから狙うのは容易かった。  いつものように、狼と共に市場に来た青年を、領主の刺客達が取り囲んだ。  狼が前に立ちはだかって唸り声を発したが、青年は解っていた。心優しい雌狼は、人を傷つけることなど出来ない。唸って威嚇するのが精一杯だ。そして子供の時に四肢の腱を斬られた自分は、屈強な兵士達に抗うだけの力はない。  ここで彼女と一緒に死のうと、覚悟を決めたその時――  急に厚い雲が日の光を遮った。  と同時に、巨大な狼に跨がり、赤い服と帽子を被った女性が天空にその姿を現した。その女性は両手を合わせてパンと叩いた。それから腕を真横に広げてふぅと息を吐いた。  辺りはさらに暗くなり、大風が巻き起こった。  その怪異を天罰だと感じ取った人々は、叫び声を上げ、蜘蛛の子を散らすように四方八方に逃げていった。 「……まったく、お前には力がないから、人とは関わるなと言って聞かせただろうに」  人々が逃げ去っていくのを尻目に、赤い服の女性は溜息を()きながら雌狼の前に降り立った。 「金山の君、ごめんなさい」  雌狼は娘の姿になると、ひれ伏して詫びた。  金山には、赤い服を着た魔女がいる――娘姿の守り神が必死に謝る姿を見ながら、青年は幼い頃に聞いた昔話を思い出した。そして得体の知れない恐怖を感じていた。 「謝って済む問題か? その青年は間もなく死ぬぞ」  その言葉を聞くやいなや、雌狼は青年をギュッと抱きしめた。 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」  青年を抱きしめながら、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。       「何でもします、何でもしますから、お願いです。金山の君、彼を殺さないで」  彼女の懇願に、金山の君と呼ばれた赤い服の女性はもう一度大きな溜息を()いた。 「何ゆえ私がその青年を殺さねばならぬ。お前たちがやってきたことのツケだ。雌狼、お前の腹の中にはこの青年との()が宿っている」  金山の君の言葉に、ふたりは顔を見合わせた。 「人との仔を育てるには、かなりの精気がいる。だがお前はもともとただのだ。人との仔を育てるだけの精気を生まれ持っていない。だから腹の仔は父であるその青年の精気を吸って成長している。腹の仔が生まれる頃には、全ての精気を吸い尽くされて、青年は死ぬ」  生と死の、幸せで残忍な宣告。ふたりは彼女の腹に手を重ね合わせ、互いの目を見つめ合わせた。 「……いや」  彼女は震えながら懇願した。 「アセナがいなくなっちゃうの? そんなのいや。金山の君、お願い、助けて。アセナを死なせないで」  その言葉を聞いて、金山の君はニヤリと笑った。 「容易(たやす)いことだ。お前たちふたりが離ればなれになれば良いだけだ。この青年は命を狙われているから、お前の弟を護衛につけてもやろう。ああ、腹の仔は諦めるんだな。精気が足りなくなるから、直に死ぬ」 「そんな……わたし、またひとりになっちゃうの?」  涙をぽろぽろ溢しながら、彼女は金山の君に訴えかけた。 「わたし、ずっとひとりだった。群れでは誰もいっしょには、いてくれなかった。弟も、なかまを見つけて、わたしを置いていった。友だちだったあの子も、死んじゃった。ただ、ただ、アセナだけがずっとわたしの側にいてくれたのに」 「独りになんてしない」  彼は彼女の手をギュッと握りしめた。そして金山の君に言った。 「もし、貴女が伝説の魔女なら、嘘を吐いたら石にされてしまう。だから本当のことを言います。自分も守り神(おおかみ)さんから離れる気は全くありません。何もかも失い、自分も滅茶苦茶にされたあの日から、ずっと守り神さんは側にいて、扶けてくれた。辛くて眠れない夜も、優しく寄り添って温めてくれた。もし、守り神(おおかみ)さんから離れてしまったら、自分も生きていけない」  似たもの同士が寄り添って生きてきたわけだ、と金山の君はふたりを見て思った。 「でも、アセナ、わたしの側にいたら死んじゃうよ」  青年は彼女の頬を伝う涙を拭ってあげながら言った。 「ねえ、守り神(おおかみ)さん、気づいているでしょ。僕はあなたよりずっと寿命が短いことを。遅かれ早かれ、自分はあなたより早く死ぬ。だけどあなたを独りにはしない」 「どうやって?」 「守り神(おおかみ)さん、僕をあなたの中に取り込んで。そして子どもを産んで。そうしたら、あなたは独りじゃなくなる」 「でも……」 「自分の名、アセナという名もあなたにあげる。そうしたら、僕たちはずっと一緒だ。そして生まれた子どもにもこの名を受け継がせて。その子どもの子どもにもこの名をあげて。この名が続く限り僕はあなたと一緒にいる。あなたは独りじゃない」 「本当に?」 「祈るよ。祈り続けるよ、守り神(おおかみ)さん。あなただけのために。あなたがずっと寂しくないように。あなたがずっとひとりじゃないように」  青年の“祈る”という言葉を聞き、金山の君はカラカラと笑った。 「よし、お前には名前が与えられ、祈りが捧げられた。これでお前は神格となる」 「金山の君?」 「さあ、雌狼よ、どうする? 祈りを受け入れて“真の神”となるか? ならぬか?」 「どういうこと? わからない」  彼女は何度も首を振った。 「わからない。わからない。むずかしいことを言わないで」 「何、簡単なことさ」  金山の君は顔をぐいっと彼女に近づけ、その目を見据えた。 「独りになるか、ならないかだ」  彼女は金山の君の言葉に、底知れぬ恐怖を感じた。 「ひとりはいや」  青年は震える彼女を強く抱きしめた。彼女は彼の腕に体を預けながら呟いた。 「アセナとずっと一緒にいたい」  その言葉を聞き、金山の君は笑みを浮かべて満足そうに言った。 「アセナの祈りは成せり」  こうして雌狼は突厥の始祖神となった。    それから幾星霜を経て、赤い服の女性――金山の君は遙か東から来た雌狐に、雌狼が始祖神になった顛末を語っていた。 「ここは高昌の北にある山の中にある洞窟だ。ふたりをここまで逃したかったんだが、夫の方は体が持たなかった。道中、彼は精気を使い果たして死んだ。腹の仔が(とお)もいたんだから仕方あるまいか」 「十……?」 「さすがに多産の狼でもなかなかない数だからな。仔を産んだ時点で、此奴もほぼ力尽きた。だから実質、十人の子ども達を育てたのは爺だったな」  金山の君の言葉に、老狼はカラカラと笑った。 「やんちゃ坊主どもの相手は、なかなか楽しかったですぞ」 「おかげで十人が十人とも、勇猛果敢な部族の祖と成れた。爺のおかげだ」 「……あ」 (それはつまり九姓鉄勒(トクス・オグズ)――)  そう気づいた飛蝶は思わず声を上げた。鉄勒族は突厥に従属しているものの、もともとは同族。そして主要な部族は九つあり、総じて九姓鉄勒(トクス・オグズ)と呼ばれていた。つまり、突厥とあわせて十。アセナの仔と数が合う。つまりこの雌狼は突厥だけの始祖神ではない――。 「何だ?」  飛蝶の様子を訝しみ、金山の君は彼女に問いかけた。飛蝶は何でもないと首を振った。十の仔の(すえ)がどうであろうと、この雌狼の子孫が、草原の覇者となっている事実は揺るがないと思ったからだ。 「ねえ、彼女は子どもを産んですぐにこうなったの?」  飛蝶はもっと興味のあることを問うた。同じ天地の澱から生まれた存在が神となった経緯をもっと知りたかった。 「――そうだな。本来なら子どもを産んで力尽き、塵芥(ちりあくた)となって消え失せるはずだった。しかし、アセナの強い祈りがこうして押しとどめた」 「祈り……」  祈りがあれば、澱も神と成れるのか? 飛蝶はとても不思議だった。 「祈りって何?」  飛蝶の素朴な疑問に、金山の君は静かに微笑んだ。 「力だ。そして契約でもある」 「どういうこと?」  素朴な疑問なはずが、金山の君の答えで、謎が更に深まった。 「別に、そんなに難しいことではない」  簡単なことだと、金山の君は言った。 「多くの祈りが集まれば集まるほど、神々は力を得る。逆を言えば、祈りを捧げられなくなった神は、簡単に力を失うことになる」  金山の君はニヤリと笑った。 「天界でも人間(じんかん)でも争いが絶えないのはそういうことだ。少しでも多くの力を集めるため、神も“人”を取り合って相争うのさ。そしてその争いは人間(じんかん)にも影響を及ぼす」 「成る程ね。祈りが力というのは、何となく、解る。では契約というのは?」 「“祈り”は“願い”でもある。“願いを叶える”という言葉があるだろう? 力を得た代償を、神々は払わねばならない。だから“契約”なのだ。力を得る代償として神々は願いを聞き届けるという契約に縛られる。かと言って、神々の力も無限ではない。聞き届けられる願いとそうでない願いも出てくる。また、叶えた願い事も微妙にずれる事もある」 「ああ」  だ、と飛蝶は思った。 「願いを叶える力の強い神は、より強い祈りを集められる。叶える力がなければ、祈りも集まらない。力を失えば神々は簡単に零落する」  金山の君はニヤリと笑った。 「つまり、神々とてその地位は盤石ではないってことだ」 「……神様というのも結構大変なわけね」 「ああ、大変だ」  可笑しそうに金山の君は言った。 「彼らは、力を失わないように必死だよ。それ故、神々の世界は位階や掟、為来(しきた)りなど、人以上に規範(のり)に厳格だ。規範(のり)だ。枠組みをしっかりすることで、力の分散を防いでいるのだ。この森羅万象にはいくつもの神界が存在しているが、力が強大な神界ほど、決まり切った世界になる」  雌狼の隣に腰掛けながら、金山の君は続けた。 「お前たち妖狐が、強い力を保っているのも、神界に倣って位階や掟を創り、それをしっかり守っているからだ」 「……え?」 「もとは同族の人狼を見てみろ」  そう言って金山の君は雌狼を指さした。 「人狼(こいつら )妖狐(おまえたち)と違って規範がない。それ故、時の流れの中で生来の力は分散し、(つい)には獣の中にその血を埋めていった。たまに此奴や爺のような先祖返りが現れるが、大した力もない――爺は例外だがな」  金山の君の言葉に、老狼はかっかと笑った。 「全ては金山の君のおかげですな」 「はは。もともとはお前の姉が早くに群れから引き離したおかげだよ。だから、獣の影響をあまり受けずに済んだし、私もいろいろと教えることができた」  そう言われて老狼は深く頷いた。 「そうですな、姉のおかげですな」 「アセナ始祖神(あね)の眷属となったから、それなりの力も得られたしな。最盛期の爺なら、天狐ども(あの)程度なら一撃必殺だったろうに」 「あの小童(こわつぱ)どもですか? まとめて一口で喰ってやりしたな。ははは、もう今は無理ですなぁ。年を取り過ぎましたからな」 「年だけではないさ。阿史那氏族の衰退で、始祖神の力も衰えたからな。可汗家が東西に分裂したとき、爺の力もガクンと落ちた」 「そうでしたかのう? 忘れちまった」 「爺らしいな。ま、余計なことは覚えていないのに限る」  「ねえ」  飛蝶はふたりの会話に割って入るように声をかけた。 「さっきから貴女は、神々のことを、何か他人事のように……そう、神々とはとても距離があるように感じるんだけど、貴女も天界に属する存在(もの)ではないの?」  金山の君は、その問いかけを聞いて大声で笑った。 「流石、噂どおりの聡い妖狐じゃ」  そして大きく手を広げて言った。 「私は天界にも人間(じんかん)にも属さない。この漠北(そうげん)に、ただ()って()り続けるだけだ」 「有って在り続ける……」 「そう、だから、私には名前がない。それ故、神に成りようがないとも言える」 「名前がない? でも貴女は金山の君という――」 「それはただの呼び名だ。空に浮かぶ白いものを“雲”と呼び、空から落ちてくる水を“雨”と呼ぶのと同じだ。天地の理から食み出た連中の面倒見てたら、そいつらが私のことを“金山の君”と呼んだだけだ。そうそう、食み出した異形の連中を連れた私の姿を見た人々には魔女とも呼ばれているな」  可笑しそうに金山の君は言った。 「もし誰かが“金山の君”に祈りを捧げても、私には届かない。それは私の名前ではないからだ」 「でも、貴女はとても強大な力を持っている。何故?」  金山の君はふふっと笑いながら、本当に聡い娘だと呟いた。 「神々のように、祈りがないのに」 「自由だから」 「自由?」 「そうだな、仏や仙に近いとも言えるかな。全ての規範、理から解き放たれた存在(もの)」  その言葉に、飛蝶はゾクッとするものを感じた。 「違いは、そうだな。仏も仙も、解き放たれれば、一部を除けばこの世界から去る。残った者たちは規範を創って後進の育成や衆生の救済に当たっている。しかし、私は救済もせず、何事にも依らず、ただ独りこの世界に留まっている」 「独りって……何をしているの」 「何をだって?」  金山の君はニヤリと笑った。 「ただ、面白いことをしているだけさ」  飛蝶は、金山の君の底知れなさに恐怖した。 「私自身が()()しもののせいか、此奴や爺のような連中の面倒をついつい見てしまうが、基本は独りだ。妖狐の食み出しもののお前がここに来たのも、何かの縁だな」  飛蝶は苦笑した。自分自身が食み出しものであることは、否定しようがなかったからだ。 「お前は聡いし機敏だから、結構気に入ってる。だが、お前の属するものは既に決まってるから、こちらは手出しせぬわ」  そう言いながら、金山の君は包みを飛蝶に投げた。 「これは……?」  包みと思ったらそれは婦人用の胡服だった。金山の君はそれにいろいろな物を包んで投げて寄越したのだ。 「衣食足りて礼節を知るだったか? 漢人にはそんな言葉があるのだろう。その格好じゃ、これからやることはどうにも不味いらしい」 「あ……」  飛蝶は自分の格好を見て思わず声を漏らした。天狐の雷を受け、衣服はボロボロに焦げていた。 「おいおい、ここで妖力を使うな」  いつものように、妖力で身支度を調えようとした飛蝶を金山の君が制止した。 「お前を狙っている天狐に気づかれるぞ」 「確かに」  飛蝶は自分の軽はずみな行為を恥じた。 「それは、始祖神の供物だった胡服(もの)だから、嬢ちゃんには少し大きいかもしれないが、まあ、何とかなろう。これからやることはその手紙に書いてある」  飛蝶は包みの中にあった手紙に目を落とした。書かれた文字に見覚えがあった。 「爺、この嬢ちゃんの手助けをしてやってくれ。頼んだぞ」  そう言うと、金山の君はすうっと姿を消した。 「え? ちょっと待って!?」  (ろく)な礼も言えぬまま姿が消えたので、飛蝶は慌てた。 「まあ、気にしなさんな」  狼狽えている飛蝶に、老狼は声をかけた。 「あの方はいつもああでな。気紛れな方なんじゃよ」 「はあ」  飛蝶は思いっきり溜息を吐いた。  洞窟内にある冷たい泉で身を清めるのはまだ良かった。  だが、濡れた髪がどうにも気持ち悪かったし、借り物の服の着心地がどうにも悪かった。金山の君が言っていたとおり、飛蝶にはその服がどうにも大きかったし、着方がよく解らず、老狼の助けでなんとか着こなしたが感じがしてどうにも収まらない。  いつもなら妖力を使ってササッと身ぎれいにできたのに。妖力が使えないのはなんて不便なことか。 「はあ」  彼女はもう一度大きな溜息を吐いた。  これからは、その妖力と縁を切らなければならない……飛蝶は金山の君から受け取った紫陽の手紙にもう一度目を落とした。  それには、彼の字でこれから彼女がやらねば成らないことが淡々と書いてあった。  何故、ここに紫陽自らしたためた手紙があるのか。  それについては、手紙の冒頭に顛末が書いてあった。  今、ここで飛蝶がこの手紙を読んでいるのは、驪龍と二人で仙界に戻り、祖師魏夫人――仙名紫虚元君(しきょげんくん)に取りなしてもらった結果なのだそうた。  それにはこうも書いてあった。予め何もかも決まっていて、ここに導かれたかのように感じるかもしれないが、それは仙術を駆使してだけで、実際は飛蝶の命を助けるために、二人が持てるだけの伝手(つて)を駆使し、ギリギリのところで、何とか取り得る限りの最善を取っただけなのだと。  取り得る限りの最善。  飛蝶は、ほぼ見様見真似だったとはいえ、紫陽や驪龍の「術」を使い、同族を殺した。この罪は、彼女やその一族の命で(あがな)えるほど軽くない。そして、彼女の罪は紫陽や驪龍にも責任がある。  二人はそう主張し、魏夫人の助力を請うた。 魏夫人も二人の言い分を受け入れたが、事はそう単純ではなかった。飛蝶が殺した天狐は天帝の使いでもある。その罪は決して軽くはないし、天帝の顔も立てねばならぬ。  そこで魏夫人が下した裁量は次のような物だった。  “飛蝶の妖狐としての能力、寿命を奪い、人として生きること。  数百年から数十年――十分の一に減らされた寿命が尽きたとき、鄷都の関帝府において裁きを受けること。そこで生涯の功過(こうか)(つまび)らかにし、彼女の行いが正しかったのかどうか改めて判断すること。”  魏夫人の下命に続いて、これから飛蝶が人間になるために、やらねばならぬ事が事細かく書いてあった。そして最後は紫陽から飛蝶へ宛てた言葉で締めくくられていた。  “祖師は「生涯の功過」なんて難しいこと言っているが、気にすることはない。お前自身の心が正しいと思うことをやっていけばいい。それだけだ。  己の心に正直になること。それが、正しき道へとお前を導いてくれる。お前はお前自身を信じていけば良い。この七年、お前の修行する様を見てきた私の言うことに間違いはないよ。  そしてお前の命が尽き、関帝府で裁きを受けるときは私も立ち会おう。その時に、お前がどんな一生を送ったのか、その話を聞くのを楽しみにしている。”  綴られた紫陽の言葉は、何度読んでも涙が出てくる。  紫陽先生は、いつもそうだ。自分がどんなにても、全部笑って受け止めて、先に進む道を示してくれる。  ちっぽけで取るに足らない自分に、どうしてここまでしてくれるんだろう。今回だって、ここまで話をまとめるには、かなりの困難があったに違いない。  だったら、取るに足らない自分から、そこまでしてもらえるだけの価値ある自分になるだけだ。  そう決意したものの――飛蝶はもう一度大きく息を吐いた。 「無理……」  妖狐から人になるためにやらなくてはならないこと。  まずは、飛蝶の体から狐の珠を取り出さなければならなかった。そしてそれを砕いて粉にし、墨に混ぜて経文を書き上げることで、妖力をそこへ写し体内から消し去るのである。  狐の珠とは、全ての妖狐の体内にある宝珠で、妖力の源でもある。妖力が強ければ強いほど、その宝珠は大きく白く美しい珠になる。死せば魂魄が霧散する妖狐にとって、唯一後に残るものであった。  それ故、妖狐の葬儀では亡骸から狐の珠を取り出すと、それを砕いて粉にし、各々で飲み込んで、先人の偉大な妖力をその身に写すのである。  妖力を消す方法は、妖狐の葬儀に似ていた。飛蝶は自分で自分を弔うような感じがして、妙な気分になった。  そして何より、狐の珠を取り出すことが耐えられなかった。叔母のことを思い出してしまうから。  叔母は、好きな男性(ひと)がいた。妖狐と人間との恋ゆえ、一族の反対が強く添い遂げることは出来なかった。しかし叔母はその人が別の女性を娶り、年を取って死んでいっても、ずっとずっとその人だけを想っていた。  その人が亡くなってから、だいぶ経ったある日のこと、街でそっくりな男性に会った。叔母は想い人の生まれ変わりだと信じ、今度こそ添い遂げようとその男と懇意になった。  しかし、その男の性根は邪悪だった。  男は叔母の正体に気づき、体内の宝珠――狐の珠を奪おうと目論んだ。  狐の珠を吐き出させるために、叔母を捕らえて首から下を生き埋めにし、呪術と称した様々な拷問を行った。耐えきらなくなった叔母は、血反吐ともに狐の珠を吐き出して死んだ。念願の宝珠を手に入れた男は、叔母の亡骸をそのまま打ち棄てて、どこかに去って行った。  飛蝶は、野晒しになっていた叔母の惨たらしい姿を、今でも鮮明に覚えている。一族で一番の器量良しだった叔母。その面影は全くなかった。 「姑姑……」  叔母は飛蝶ら一族の子ども達の面倒を見ることで、独り身でいることを許されていた。それが人間の男にうつつを抜かし、挙げ句の果てに狐の珠を奪われるという失態を犯したのだから、天狐の怒りは大変なものがあった。  そうだ、上品の上だった飛蝶の一族が上の下に落とされたのは叔母の件が原因だったことを飛蝶は思いだした。  物事は連鎖する。  がそのままだったら、縁談の話は持ち上がらず、飛蝶はそのまま天狐に上がったかもしれない。しかし、叔母のことがなければ、飛蝶は人に興味を持たず、ただの妖狐で終わったはずだ。  きっかけは、叔母の仇を討とうと、狐の珠を奪った男を捜すために市中を彷徨ったことだった。そこで市居の人々の優しさに触れ、あの男のような悪人もいれば、見ず知らずの小娘にも親身になってくれる善人がいることを知った。  気がつけば、叔母が、どうしてあんなにも人に恋い焦がれたのかが理解できるようになっていた。そして、仇討ちに夢中になるなら、弱く虐げられている善人を扶けることが叔母の意志を継ぐことになると思うようになった。そしてそれを実行した。  やがてそれが紫陽との出会いにつながることになる。 「はあ」  飛蝶はもう一度大きく息を吐いた。 「どうせ私は一族の食み出し物。だったらとことん食み出してみようじゃない」  決意を強くするために、飛蝶は大きく声を出した。  この恐怖は、叔母のむごい姿が脳裏から離れないから。  だったら、美しく楽しげに人々について語る叔母の姿だけを思い出せば良い。 「自分で自分を弔うのも、上等。それだけのことをしたんだから」  勢いのまま用意された呪符を飲み込むと、狐の珠を取り出すために飛蝶は自分の喉にぐっと指を入れた。
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