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第7章 際会
ぎらぎらと焼け付くような日差し。遮るものが何一つない中で、どれくらい歩き続けたのだろう。
もうダメ、これ以上動けないと思った丁度その時、飛蝶の目に岩肌から湧き出る清水が映った。彼女は残った力を振り絞って湧き水に駆け寄った。そして両手いっぱいにその水を掬い取ってゴクゴクと飲んだ。
「ふう」
飲み干すと同時に深い溜め息が出た。この先の道中、ただ不安しかなかったからだ。
今、彼女は生まれて初めて、飢えと渇きに苦しんでいた。
長いこと人に混じって生きてきたから、飢えたふり、渇いたふりをするのには慣れていた。だが、本当の飢えと渇きがどんなものだかは知らなかった。こんなに辛いものだったとは……。
彼女は岩から滴り落ちる水を掌に受け、そこから零れ落ちるさまをぼんやりと眺めていた。そして、せめてこの水を集めて持ち運ぶものがあれば良かったんだということに気づいた。
「遠慮しないで全部もらっておけば良かったのかな」
彼女は独り言ちながら、アセナの廟を出たときのことを思い出していた。
旅立ちの時、老狼は廟にある供物をありったけ、彼女に持たせようとした。しかし、彼女は路銀に変えられそうなものをいくつか受け取っただけで、あとは荷物になるからと断っていた。
「いや、そもそも、あれはガラクタばっかりだったし」
飛蝶は、老狼が奥からあれやこれやと妙なものを持ってきては、彼女の前に山積みにしていったのを思い出して笑った。
漠北の突厥にとっては物珍しいものを始祖神への捧げ物にしたのだろうけれど、中原で生まれ育った飛蝶にとってはただのガラクタにしか見えないものばかりだった。
「ああでも、あれは貰ってきた方が良かったのかな」
最後に老狼が持ってきたのは、その辺で獲ってきたばかりの野兎。
何の処理もしていない血の滴る野兎など、持ち歩ける訳がない。必死に固辞して出立したが、今思うとあれは貴重な食料だった……。
「ダメダメ、落ち着け」
飛蝶はパンパンと頬を叩いた。
この暑さの中、何の処理もしない生肉を持ち歩いたらすぐに傷んでしまう。それに、下等の妖狐ならいざ知らず、末位とは言え上品の家柄。口にするものは人と同じ調理したものであり、獣を生のまま丸齧りすることなど有り得なかった。
「この暑さで頭の中も煮えたぎってる」
飛蝶は冷たい湧き水を頭から浴びて気持ちを落ち着かせようとした。
(ああ、でも……)
飛蝶の頭の中には今まで食してきた兎料理が過った。羹や煮物、揚げ物、蒸し物――彼女が生まれ育ったのは、妓楼に見せかけた妖狐の餌場。古都洛陽に往来する男たちを引き寄せるために、贅や趣向を凝らした料理が出された場所だった。だから自然と舌は肥えていたはずなのに、今一番食べたいと思ったのは、凝った料理ではなく塩すらかけていないただの丸焼き。
それを食べたのは、どれくらい前だっただろう。
そうだ、あれは娘子軍にいた頃。四人の娘達と一緒に行軍からはぐれ、道に迷ったまま森の中で夜を明かしたときだ。
暗闇の中、誰もが不安で押しつぶされそうになっていた。お互い励ましあって、なんとか捕まえた小さな兎。ああだこうだ言いながら熾した火で炙り、少しずつ分け合って食べた夜。
もう味なんて覚えちゃいないのに、頭に浮かぶのはその時の兎肉だった。
「そっか」
今の自分は人が恋しいんだ。不安なんだ。
彼女は手や顔についた水を払いながら思った。今の自分は水滴を拭うものすら何も持っていない。
今までは、困ったことはたいてい妖力で解決していたから、旅の装備なんて必要なかった。だが今の自分には妖力がない。
(さて、これからどうするか――)
紫陽先生の手紙には、高昌へ向かうようにと書いてあった。
高昌は、西域には珍しい漢人が支配する王国であり、隋末時の戦乱から逃れた者たちが数多く流れ込んでいた。妖力を失った上、西域の風土にも慣れていない彼女にとって、漢人の流れ者が多い高昌城市は紛れ込むのに都合が良かった。老狼によると、アセナの廟から高昌はそう離れていないからすぐに着くだろうという話だったので、彼女は深く考えずに高昌へ向かって旅立った。
しかし、それはあまりにも軽率だった。千里を一夜で駆けることができる人狼と、妖力を失った妖狐では事情が違いすぎた。二本の足だけでは、思うように先に進むことができないのを、彼女は考えてみたこともなかったのだ
娘達と迷い道を進んだあの夜も、森を抜けるまでかなりの時間がかかった。そのことを思い出していれば事情は違ったのかもしれない。
(だからなのかな)
彼女はもう一度頬をパンと叩いて気合いを入れた。暑さで髪も服もすぐ乾いたが、パリパリしていて心地悪かった。
(こんなんじゃ駄目だ。とにかく隊商でもなんでも人間を探して、そこに紛れ込むしかない)
汗すら拭えない、旅の装備が何一つない状態では、高昌に辿り着く前に魂までカラカラに乾いて死んでしまう。命をつなぐには、どこかの隊商にでも紛れ込んで一緒に移動するしかない。
(高昌は大きな城市だから、隊商の往来も多いはず。それを見つけるまで、なんとか保たせよう)
とりあえず水で腹を膨らまそうかと、もう一度、掌に水を集めようとしたその時――
微かに血の臭いと、断末魔の叫び声を感じた。
人の形を取ってはいるものの、彼女の五感は獣に近い。彼女は反射的に、その声がする方へと駆け出していった。
(ひどいな……)
山道の、少し拓けたところに累々と横たわる骸たち。それを目の前にして、飛蝶は寸での差で間に合わなかったことを恨んだ。
どうしてこの足は、こんなにも遅いのか――誰かしら助けられると思い、脇腹の痛みを堪えて全力で走ってはみたが、無駄だった。着いた時点でもう全てが終わっていたのだ。
乱れた息を整えながら、ここで何が起こったのか、その痕跡を辿ってみた。
辺りにつけられた人馬の足跡から察するに、ここで何らかの捕り物劇があったのは間違いない。
(逃げたのは七騎、追ってきたのは二十騎? いや違う)
七騎が先んじてここの来たのは確かだ。ここで追っ手と交戦となったのも間違いない。でも、最後に来た三騎は先行の七騎を守るように動いている。つまり追っ手の増援ではなく、逃げている七騎の味方。そしてこの三騎がかなり善戦したようだ。それは残された跡からうかがい知ることが出来た。
三騎は己の命と引き換えに七騎のうち四騎を逃した。しかし、追っ手全てを殲滅することは出来きなかった。戦いに勝ち残った五騎が、逃げた四騎を追っていった。
飛蝶は、彼らが無事逃げられたらといいなと思った。どちらが善か悪かなんて解るわけなかったけれど、命を賭して彼らを逃した人たちがいるのは事実だ。その人たちの想いが叶うことを願った。
骸を見るに、敵味方どちらも身につけている装備は良く、それなりに身なりが整っていた。つまりどちらも野盗ではない。そこそこの家柄の人間だ。そしてどちらも似たような紋章を付けていたから、高昌貴族のお家騒動か何かなんだろうなと彼女は思った。
ふうっと、彼女は息を吐きながら伸びをした。この騒動の顛末が気にはなったが、この二本の足じゃどう足掻いたって追いつけない。
(あ……)
飛蝶は気づいた。自分は彼らの何の役にも立たなかったけれど、目の前の亡骸は自分の役に立ってくれる。
(もう、死んじゃったら使わないもんね)
長距離の移動を予定していたのだろう。彼らはしっかりとした旅の装備をしていた。その装備を貰えば、高昌まではなんとか不自由せずに済みそうだ。
そう思って、何か使えそうなものを物色していたその時、崖上から叫び声が響いた。
「うわあああああっ!」
頭上から、十歳前後の少年が叫び声を上げ、転げ落ちるに近い状態で崖を駆け下りてきた。
「危な――」
飛蝶は両手を伸ばして彼を受け止め、そのまま二転三転して勢いを殺した。そして誰かの亡骸にひっかかり、何とか崖下に落ちずに済んだ
「大丈夫?」
飛蝶は身を起こしながら、少年の様子を見た。少年は、顔を上げると、辺りを見回した。そして少し間を置いてから、何とも言えない泣き顔になった。
「叔父上!!」
彼は飛蝶を飛び越え、彼女の後ろにあった亡骸に泣きすがった。
「叔父上……そんな、叔父上。どうしよう。公子が……兄上が」
少年は泣きながら、その亡骸に必死に訴えかけていた。
飛蝶は身を起こすと、服についた埃を払いながら少年が泣き叫ぶ様子をじっと見た。
「ああ……」
飛蝶は頭を掻きながら、溜め息をついた。全てが腑に落ちた。
逃げていたのは、“公子”と呼ばれる貴人だ。そしてその付き人であろうこの子の兄と、おそらくもう一人が、今、この山の頂にいる。
彼らは、追っ手から逃げ切るよりは戦う方を選んだんだろう。狭い山道なら、囲まれる心配は無いし、山道から突き落とせば無勢でも何とかなると目論んだのだ。
だが、それは上手くいかなかったようだ。
だから、こうやってこの少年が道とは言えない崖を駆け下り、追っ手を食い止めているはずの叔父に助力を請いに来たのだ。
飛蝶はもう一度深く息を吐いた。
戦いの跡を見るに、少年の叔父は確かに手練れだった。だが、それ以上に敵は手強かった。
彼女は少年の肩を叩いて訊いた。
「ちょっとそこの阿兎(うさぎちやん)、公子とかあんたの兄ちゃんは、この山の上にいるの?」
少年は涙を拭きながらコクコクと頷いた。
「解った。ちょっと行ってくる」
そう言うと、飛蝶はいつものように岩山の頂まで一気に翔ようとした。
が、思い切り転けた。
「あちゃちゃ、そうだった」
地面にしこたま打ち付けた顔面をさすりながら、自分にはもう、空を翔る妖力が無かったことを思い出した。妖力を失ったことに、なかなか慣れない。
しかし、自分以上に少年の方が驚いていたようだ。あれだけ流した涙も一気に引いていた。そして目をまん丸に見開いて、彼女を大きく転けた見ていた。
飛蝶は拳を握って“大丈夫”という仕草をすると、すっくと立ち上がった。
岩山を一気に駈け上がるなら、獣身の方が効率がいいが、変化の術も、もう使えない。そう、今の自分は出来ないことの方が多い。けれど、出来ることだってある。彼女の脳裏には、気を自在に操る驪龍先生の姿が思い浮かんだ。あれを真似してみればいい。
飛蝶は調息をして気の流れを整えると、それを足先に一気に放ってみた。すると体が大きく浮き上がり、身長の倍はあるであろう岩を軽く飛び越えられた。そして息を乱さないよう気を付けながら着地し、すぐさま気を放つと、再び体は空高く跳ね上がった。天空を翔るよりは遅い、だけど、二本の足で走るよりずっと早い。
(これなら行ける!)
飛蝶は、今度こそ間に合うと信じ、一気に山頂まで向かって跳ねて行った。
そうして辿り着いた山頂で目に入ったのは、大きな岩を背に攻防を続ける男たちの姿だった。岩の前には三人の男たち。彼らが少年が「公子」とか「兄」とか呼んでいた者たちだろう。三人は退路がない中で、必死に追っ手を牽制していた。
先頭で剣を構えている青年が、おそらく少年の兄だ。あの少年は黒髪に黒い瞳だったが、岩の上にいる青年は灰茶色の髪に翡翠色の眼をしていた。しかし目や髪の色は違えど、顔立ちや雰囲気がよく似ているから間違いない。おそらく二人は腹違いの兄弟なのだろう。
その後ろにいる男は、良くも悪くもごくごく平均な漢人。これといった特徴のない面立ちだった。そのぎこちない剣の持ち方から見て、本来は文官なのだろう。彼が慣れない剣を振るってまで助けたいのが、その後ろにいる“公子”だ。
飛蝶は、双方の間にトンと着地した。そして“公子”の方を向いてにっこり笑ったあと、振り向きざま一番近くにいた追っ手の腹に蹴りを入れた。蹴りを受けた男は、声を上げる間もなく、大きくすっ飛び、崖を転げ落ちていった。
「ありゃ?」
無益な殺生を避けるため、驪龍先生のように“生かさず殺さず”をしたかったのだが、何か、思っていたのと違った。ただ、気を込めるだけではダメなのかなと、飛蝶は狙いを定めて別の男の鳩尾当たりを狙って蹴った。
と、そやつは何かを吐きながら下へ転げ落ちていった。
(うーん、やっぱり違う)
“打ち所”が違うのかなと思った飛蝶は、今度は逃げようとしている男の背後に駆けより、そのまま首の後ろを狙って蹴りを入れた。すると、ゴキッと鈍い音がして、その男はそのまま絶命した。
飛蝶は“生かさず殺さず”を目指しているのに、さっきからやっていることは“一撃必殺”だった。しかし彼女はそのことを気にもとめていなかった。殺す殺さないよりも、どうやったら一撃で相手の動きを止められるのか、その術 を探ることしか頭になかったからだ。
そしてこの短絡的な性格は、この先何度も彼女を危機に陥れることになる。
今度こそ、一発で動きを止めてやると、飛蝶は改めて身構えた。しかし、小柄で華奢な娘が、倍以上はある体躯の男たちを息つく暇なく仕留めていくさまを見て、狙われた追っ手達は化け物出ただ何だと口々に叫びながら、転げ落ちるようにその場を去って行った。
男たちの去り際に「化け物」と言われた飛蝶は、失礼なと思いながら、腰に手を当て溜め息を吐いた。
「あとちょっとで、出来そうな気がしたのになぁ」
追っ手が逃げていく様を、飛蝶は残念そうに見送りながら独り言ちた。そして背中に視線を感じたので振り返ると、三人の男たちが呆然とした顔で飛蝶のことを見ていた。
「あー……」
飛蝶はポリポリと頭を掻いた。
「やっぱり可笑しい? この格好」
彼女はくるりと体を一回転させた。
背中に狼の縫い取りのある紺色の胡服がふわりと風に舞った。小柄な彼女の体にその服は大きすぎて、今にも脱げそうだった。
「物は良いんだけどねぇ……貰ったはいいものの、どう着て良いのか解んないし、体に合ってないから、ぶかぶかだし」
「いや、そうじゃなくて!」
ぎこちない手つきで剣を握っていた平凡顔の男が、飛蝶の言葉にツッコミを入れた。
確かに、妙な着こなしをしている上、洗いざらしのまま、櫛ひとつ入っていないボサボサの髪に埃だらけの顔。色白で涼しげな目元の、整った上品な顔立ちとは全くもって釣り合わない。奇妙奇天烈としか言えない見てくれだった。
しかし、彼らが呆気にとられていたのは、その姿形ではなかった。まるで天から降り立ったかのように、目の前にふっと現れ、自分の体の何倍もある大きな男たちを軽々と蹴り上げた尋常ならざる動きだった。どう考えても、人ならざる何かとしか思えないその動き……。
「お前は、一体何者――」
「確かにそれは良い物だな」
飛蝶を詰問しようとする平凡顔の男を、“公子”が静かに制し、彼女に話しかけた。
「背中にある狼の縫い取りは、阿史那家の紋様だが、どこでそれを?」
「え? 何? そんなのついてるんだ」
飛蝶は背中の縫い取りを見ようと振り返りながら答えた。
「だめだね、脱がないと見えないや。でも確かに、これをくれたお爺さんは、阿史那家の親戚みたいなもんだから、縁があるのは間違いないよ」
「そうか、じゃあ、そのお爺さんは私の遠縁にもなるのかもしれないな」
(あれ、この公子、突厥の人なの? てっきり高昌の貴族だと思ってたんだけど……?)
その疑問こそ口には出さなかったが、知らず知らずのうちに飛蝶は公子の顔を凝視していた。
飛蝶の視線を苦笑いしつつ受け止めながら、公子は言葉を続けた。
「追っ手を退けたその動きも、突厥仕込みかな?」
「まっさかぁ」
飛蝶はケラケラと笑いながら言った。
「茅山の道士先生から、教えて貰ったり見様見真似で身につけた技だよ」
「――そうか、仙術なのか」
平凡顔の男はそう呟きながら、安堵の表情を浮かべた。求道者は妙な格好で修行をすることもあるというが、この少女もそういった者の一人なのかもしれないと思ったからだ。
「茅山? その高名は高昌でも聞くが、この西域にもそこの道士がいらっしゃったとは」
「いや、どうなの? いるの? 知らない。私が習ったのは西域に来る前だし」
「お嬢さんは唐の人間なのか?」
「そうよ。訳あってこっちに来たのさ。で、高昌に行こうと思ってこの岩山を歩いてたの。そしたら断崖から少年が駆け下りてきてビックリ。で、その子に事情を聞いて、ここまで来たってわけ」
「無事なのか――」
少年の兄が不意に口を開いた。
「あの子は……無事、なのか」
「うん、泣きべそはかいてたけどね」
「良かった……」
そう言いながら、彼は膝からがっくりと崩れ落ちた。
「危ない!」
飛蝶は慌てて支えようとしたが、小柄な彼女には彼は大きすぎた。結果、そのまま一緒になって地面に倒れ込んでしまった。
「……!?」
飛蝶は驚いて息を飲んだ。自分の上に乗っている青年の体が、燃えるように熱かったのだ。
(なんてひどい熱。こんな状態で戦って――)
残りの二人に助け起こされたものの、青年はもう自力で立つことは出来なかった。何とか三人で青年の体を支えると、そのままゆっくりと山道を歩き始めた。
ようやっと少し道が広くなったところまで降りてくると、さっきの少年がいた。散り散りになっていた馬を集めて彼らを迎えに来ていたのだ。少年はみんなが無事に降りてきた姿を見て、嬉しそうな顔をした。しかし、意識がもうろうとしている兄に気づくと、再び泣き出した。
感情の浮き沈みが激しいヤツだなと思いながら、飛蝶は少年のおでこをコツンと叩いた。
「おい、しっかりしろ」
少年はビックリした表情で、しばし彼女の顔を見た。
「……姐さん」
「叔父さんの代わりに、ちゃんと助けたよ。安心しな、阿兎」
「姐さん」
少年は彼女に小突かれたおでこをさすると、頬を赤らめた。そして急に堰を切ったようにここまで来た経緯をべらべらと話し出した。
最初はどうなることかと思ったが、ふわりと浮き上がってあっという間に崖を登っていく姿を見て、夢か幻かと思ったこと。しかし、間もなく頭上から悲鳴と共に敵が次々と転がり落ちていくのを見て現実だと確信したこと。それから、残兵に見つからないように細心の注意を払いながら、散っていた馬を集め、こうやって登ってきたこと。時々話が前後しつつも、息つく暇もない勢いで必死に説明した。
「ほら、落ち着いて。息をちゃんとして」
飛蝶はもう一度少年のおでこを叩いた。それから、彼の頭をくしゃっと撫でた。
「よく一人で頑張ったね。エラいぞ。私も約束どおり助けたよ」
その言葉で、少年の心に張りつめていたものがふっと切れた。そしてぽろぽろと涙を溢しながら、大声を上げて飛蝶に抱きついた。
「うん、うん。よく頑張った」
飛蝶は少年の背中をぽんぽんと軽く叩きながらそう言った。それから後ろにいる三人に向かって言った。
「この子も疲れ切ってるね。どこか、休めそうな所ある?」
「――ここから高昌方面に進むと、道を少し外れたところに廃寺がある」
平凡顔の男が言った。
「追っ手は私たちが輪台へ向かっていると思っているから、高昌に近いその廃寺は盲点となるはずだ。そこなら追っ手を気にせず、多少は落ち着いて休めるはずだ」
「そう」
飛蝶は少年の頭を撫でながら、言い聞かせるように言った。
「あと少し、もうちょっとだけ頑張れるか?」
少年は嗚咽しながらも頷いた。
「よし、エラい」
そう言って少年から離れようとした瞬間、彼は飛蝶の服をギュッと掴んだ。飛蝶は苦笑しつつ後ろを振り向いて言った。
「私もその廃寺とやらまで行ってもいいかな?」
「もちろん」
“公子”は迷うことなく答えた。
「むしろありがたい」
平凡顔の男は、横でちょっと困ったような顔をしていたが、“公子”には逆らえない。飛蝶を少年と一緒に馬に乗せると、ついてくるように合図をした。
その廃寺は、飛蝶の知っている寺とはかなり違っていた。そもそも建物ではなかった。そこは岩窟を削って造ってあり、中は薄暗かったがひんやりしていた。高熱に苦しんでいる病人にはちょうどいい隠れ場所になりそうだ。平凡顔の男によると、外気温に左右されず、室内の気温はほぼ一定なので、寒暖差の大きいこの地域ではよくある造りなのだそうだ。
明かりを灯すと、岩肌に直に彫った仏像とおぼしきものが目に入った。見たことのない異国の意匠。
「――姐さん」
仏像に見入っている飛蝶に、少年が声をかけた。
「兄のために冷たい水を汲んで来たいんだけど、追っ手がいるかもしれないから一緒に行ってくれる?」
飛蝶は少年の顔を見た。泣き止んではいたものの、腫れぼったい顔をしていた。
「ああ、そうだね。行こう」
一人で崖を駆け下りたり、追っ手の目をかいくぐって馬を集め、公子達を迎えに行くこともできた少年だ。本来なら、追っ手の目を気にしながら近くにある湧き水を汲んでくるぐらい造作もないことだろう。しかし、今は不安が大きすぎて、一人になることが怖いんだ。
ここに着いた時点で、この子の兄はもう意識がなかった。
「あんたの兄さんには冷たい水が必要だもんね」
飛蝶の言葉に、少年はコクンと頷いた。二人は手をつないで外を出た。照りつける日差しは眩しく、熱いというより痛かった。
(こんな日差しに曝された野晒し達は、どうなってしまうんだろう)
廃寺に向かうには、少年と出会ったあの場所を通らなければならなかった。五人は一旦そこで止まった。凄惨な戦いのあと、累々と横たわる死体。
飛蝶はここで彼らの縁者の亡骸を埋葬するために足を止めたのかと思った。しかし、馬から下りたのは少年だけだった。高熱が出ている少年の兄は別としても、残りの二人は微動だにしなかった。
そして少年は、亡骸ひとりひとりに声をかけながら、彼らの持ち物を遺品として一つずつ取っていった。
「……葬らないの?」
少年の行動を不思議に思った飛蝶は、不躾に訊いた。しかし、少年は何も答えず、黙って飛蝶の前に座った。馬の数が足らなかったため、彼女は少年と相乗りしていたのだ。それから集めた遺品をギュッと抱えながら手綱を握った。
「――そう言う約束なんだ」
少年に代わって平凡顔の男が答えた。
「公子を北へ逃すまで、斃れた者はそのまま捨て置くと」
「え……?」
「約束なんです」
独り言のように、少年は言った。
「でも、これをみんなの代わりにして、いつかどこかで墓を作ります」
遺品に顔を埋めて肩を震わせた。涙を必死に堪えているようだった。
「だったら――!」
その様を見かねた飛蝶は言った。
「私が代わりに、彼らを埋葬するよ。もともとあんた達と縁もゆかりもない。約束なんて関係ない」
「駄目だ」
平凡顔の男が即座に断った。
「追っ手はお前が蹴散らした連中だけじゃない。別動もいるし、第二陣、第三陣も出ているだろう。彼らが死体の埋葬に気づいたら、私たちが近くに潜んでいることがバレてしまう。私たちが輪台に向かっていると欺くためには、野晒しにするしかないんだ」
飛蝶は自分の浅慮を恥じた。彼らは命がけで逃げている、その重みを全く分かっていなかったのだ。彼らのために何かしたいと、彼女は心からそう思った。
廃寺にあった古い盥を湧き水の所まで持っていき、それを軽くすすいでから、なみなみと清水を汲んだ。それから二人で両脇を持ち、溢さないように慎重な足取りでそれを運んだ。しかし時々二人の息が合わなくて、よろけてひっくり返しそうになった。そのたび少年はおかしそうに笑った。飛蝶はこの子はまだ笑える、まだ大丈夫だと安堵した。
しかし、廃寺に戻り、兄の様子を見た途端、再び顔が曇った。飛蝶の目から見てもあまり良い状態とは言えなかった。
「水を汲んできたよ。……どう?」
彼女の問いに、公子は首を横に振った。
「熱冷ましがないんだ」
平凡顔の男が言った。
「これだけの熱が続くのは危険だ。かなり強い熱冷ましの薬が必要なんだが、あいにく手元にない」
「それはどこで手に入るの?」
「あ、ああ……確実に手に入るのは高昌城市だな。丁度夕市も始まる頃だし、行けばすぐに手に入る……だが、危険すぎる。なにしろ我々はそこから逃れてきたんだから」
「大丈夫じゃない?」
飛蝶は平凡顔の男を指さして言った。
「あんたなら、同じような顔、軽く百人はいそうだし、絶対気づかれないって」
「はあ!?」
平凡顔の男は思わず変な声を上げた。横では公子が必死に笑いを堪えていた。
「いくら何でも、そんなことあるわけないだろ」
「いや、いけるかもしれない」
横から公子が口を挟んだ。
「公子!?」
「お主ひとりなら、案外気づかれないかもしれんぞ」
「しかし――」
「もし追っ手が心配なら、私が一緒に行くよ。さっきみたいに蹴散らしてやるから」
飛蝶は得意げに言った。山頂で遭遇した程度の連中なら、負ける気はしなかった。
「お前と一緒なんて行けるわけないだろう!? そんな素っ頓狂な格好しているヤツと一緒に歩いていたら目立って仕方ない。逆に危険だ」
「えーっ」
頬を膨らませて不満の意を露わにした飛蝶に、少年は包みをそっと差し出した。
「姐さん、これを着れば大丈夫だよ」
「これは?」
「従兄の服。ちょうど姐さんと背格好は同じぐらいだったから、大きさもちょうど良いはず。その服を着て歩くよりはずっと良いよ」
「あ……」
さっきの野晒しの中に、年端もいかない少年もいたことを、飛蝶は思い出した。
(あれは少年の従兄だったのか。この子は、叔父だけでなく従兄も……)
何とも言えない気持ちを、拳を握りしめることで堪えた。
「良いの? 大切なものじゃないの」
少年はゆっくりと首を振った。
「お下がりでもらったんだけど、自分が着るにはまだ大きいし、公子や兄を助けてくれたせめてものお礼に、姐さんにあげるよ」
「礼なんていらないのに」
「それに高昌の街を二人で歩くなら、男の格好をした方が、目立たないと思う」
確かにそうだなと飛蝶も思った。そこで着替えるために胡服を頭から脱ごうとした。
「うわっ」
と同時に平凡顔の男が悲鳴を上げた。飛蝶は胡服の下には何も着けていなかったのが見えたからだ。
「おっ、お前、下着はどうした」
彼女の白い肌を見ないように、顔を背け、なおかつ両手で顔を覆いながら平凡顔の男が言った。
「下着……?」
飛蝶は一瞬きょとんとし、次の瞬間、我に返った。
「ああ、下着かあ」
なんでこの服がしっくりこなかった理由が分かって、飛蝶は嬉しそうに言った。
「どうもこの服、着心地が今ひとつだと思ってたんだよね。そっか、下着がなかったからだ」
「ご託は良いから! とにかく下着を着けろ」
「あればとっくに着けてるって」
「は? ないのか!?」
「僕も男物しか持ってないよ」
「だよねえ、困ったね」
飛蝶と少年は困ったように顔を見合わせた。
「何でも良いから、そこら辺にある適当な布を巻いておけばいいだろ」
平凡顔の男の言葉を聞いて、飛蝶はポンと手を叩いた。
「なるほど、アンタ天才だね」
「ああ、もう! 勘弁してくれ。感心している暇があったら、さっさと着替えてくれ」
平凡顔の男は、後ろを振り向いたまま叫んだ。よく見たら首まで真っ赤だった。
「はいよ。分かったよ」
飛蝶は来ていた胡服をバサッと脱ぎ捨てると、少年から着替えを受け取って彼らの目の届かない、ちょっと奥まったところへ歩いて行った。
「――奥に行ってから脱いでくれよ」
頭を抱えながら平凡顔の男が呟いた。その横で、公子が笑いながら彼の頭をポンポンと叩いた。
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