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第8章 秘密
彼は今、二つのことが気になっていた。
一つは、日が完全に落ちる前に戻れるかどうか。
太陽が沈んだら、辺りは真っ暗闇になり、ただでさえ危険な道中が、より危険になる。
そしてもう一つは、彼女の口の動き。
(さっきから喋るか食べるかで、口が全く止まらないな)
彼女はどうしても上手く騎乗することができなかったので、仕方なく彼の前に座らせた。彼女の背後から手綱を取ったので、どうしたって彼女の口元が目に入った。
当の彼女は、干した砂棗が気に入ったようで、馬上でポリポリと囓っては、先ほどまでいた高昌の街並みや市場にいた人たちについて、思いつくままべらべらと話していた。
(そんなに物珍しいものなのか?)
あの街で生まれ育った身としては、何が物珍しいのかまったく理解できなかった。彼にとっては、ただの懐かしい故郷。しかし、中原で育った彼女にとっては、聞くもの見るものすべてが珍しかったのだ。
そんな彼女の口が止まるときは――
まず、彼女の切れ長の瞳がキョロキョロ左右に動く。そして、砂棗が入った袋を彼にポンと押しつけると、馬の背から大きく飛び上がる。それから空中でクルッと体を回転させ、勢いのまま着地する。
砂埃が舞い上がる中、足元にはだいたい山賊がやふたりは転がっている。残りの山賊も、男装した小柄な娘が、自分の体の何倍もあろうかという屈強な男どもを、軽々と吹っ飛ばしていく様を見て、恐れ戦いて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
すべての男たちが逃げていくのを確かめると、彼女はふっと息を吐き、体についた埃をぱんぱんと叩いて落とす。これがだいたい一通りの流れ。
(毎回、毎回、見事だな)
あの山頂で初めて会ったときから、この小さな体のどこに、こんな力があるのか皆目見当がつかなかった。あまりにも奇怪で、彼女を信用していいのかどうか、今ひとつ判断しかねた。しかし、公子や自分たちの窮地に駆けつけ、助けてくれたのも事実だ。ただその行動に、何か裏があるのか、今ひとつ判断がつかなかった。
(公子は彼女を気に入っているようだし、自分も彼女が悪人のようには思えなかった。だが、ここで簡単に気を許しては……)
「――さん、蒼さん」
名を呼ばれて、彼はハッと我に返った。そうだ、今の自分の名は“蒼”だと。
「ねえ、蒼さんってば!」
彼女は、手を伸ばして自分の方をじっと見ていた。
蒼は苦笑しながら馬を下りると、彼女をひょいと抱えて馬に乗せた。それから、自分もその後ろに跨がって、手綱を取った。
(あんなに軽々と飛び上がることができるのに、なんで馬には乗れないのか?)
それがどうにも不思議だった。彼女も彼が疑問に思っていることを薄々感じたらしい。耳まで真っ赤にして、掌で顔を覆ってうつむいていた。
(おや、こいつにも照れるって感情があるんだ)
案外可愛いところがあるんだな、と彼は思った。そして、もしかするとさっきから休むことなく口を動かしていたのは、苦手な馬の上にいることから気を逸らすためなのかもしれないと考えた。出会ったときから予想外のことしかしていない彼女の、ちょっと解りやすい部分に気づいて、蒼はちょっと面白くなった。
しかしそれを差し引いても、本当に奇妙な娘だと彼は思っていた。何しろ、高昌へ行くまでだって予想外のことばかりやっていたのだから。
(だいたい、下着もなにもない中で、どうやってこの高昌まで来たんだか……)
彼は、彼女が身支度から大騒ぎだったことを思い出していた。
「なになに、この服!」
少年からお下がりのお下がりを来た飛蝶は、驚きの声を上げた。形は同じ胡服なのに、素材が違うだけで着心地が全く違ったからだ。
「これ、すっごく軽くて涼しいの。着心地もスゴく良い」
そう言って彼女はくるりと回った。
「まあ、さっきまで着てたのは、寒冷な北の気候に合わせたものだからな」
飛蝶のはしゃぎっぷりをおかしそうに眺めながら、公子が言った。
「その服は、高昌の木綿でできてるから着心地はいいだろう?」
「うん、とっても」
「――ていうか、こんな暑いところで、あの厚手の服着て動き回る方がおかしいと思うんだが」
平凡顔の男が呆れたように言った。
「あとは、そのボサボサ頭を何とかしろ。急いで城市に向かうぞ」
「頭……?」
飛蝶は自分の髪の毛を触りつつ、困ったように首をかしげた。
(確かに埃まみれでゴワゴワのバサバサだけど、どうしたら良い? 妖力があれば、一瞬で綺麗になるんだけど――)
「何、ぼさっとしてる? 櫛でとかせば良いだけだろ!?」
「櫛?」
ちょっと間を置いて、飛蝶はポンと手を叩いた。
「そうだ、櫛ってこういうときに使うんだった!」
「はあ?」
呆れた声を上げた平凡顔の男の後ろでは、少年が必死に笑いを堪えていた。
「お前、まさかと思うが、櫛も……」
「下着も持ってないんだから、櫛なんてもっと持ってるわけないでしょ」
飛蝶は悪びれることなく答えた。それを聞いた彼は舌打ちをすると、飛蝶にそこに座るように言った。それから自分の櫛を取り出すと、彼女の髪を梳かしだした。
「うわ……ゴミもすごい絡まってるな、これ。羊の毛を梳く方が楽なくらいだ」
「――羊の毛を梳くの、私は得意だが」
「コイツの毛は羊じゃないんで私がやります。公子はそこで黙って見ててください」
彼は公子を制しながら、乱暴に髪を梳いた。
「ねえ、痛いってば」
「煩い、我慢しろ。どうしたらこんな野獣並みな髪になるんだ?」
「どうしたらって言われても」
「ったく、お前どこでどんな育ちをしてきたんだか?」
「何よ、それ――」
「そうだ!」
二人の会話を聞いていた公子が叫んだ。
「和んでいてすっかり忘れてた。互いに名乗りがまだではないか。まずは私が……」
「――ダメ」
今度は飛蝶が公子を制した。
「お互いさ、いろいろ訳ありなようだから、名乗りは止めとこうよ」
「何?」
「追われている以上、互いの素性を知らない方が絶対良い。この先、別々に行動したとき、それが互いの命を守ることにつながることにもなる」
飛蝶は、妖狐の力を手放したとは言え、天狐達の追捕から完全に逃れられたとは思っていなかった。老狼の時は、互いの領分を慮って引いただけだ。そして、ここにいる人たちは漢人。つまり祀っている神は自分たちと同じ。要するに、天帝に使える天狐達の領分にいる人たちだ。下手するとこの人たちにまで天狐がらみの災禍が及ぶ可能性がある。彼女はそのことを恐れたのだ。
「だから、私はあなたたちのことを勝手に呼ぶ。あなたたちも、私のこと、呼びたいように勝手に呼んで」
それから飛蝶は公子の方に向かって言った。
「まずはあなた。あなたは公子と呼ばれてるけど、それだけじゃつまらないから、私は“福公子”って呼ぶ」
「福……?」
「たくさんの人が、あなたを守ろうとしてたでしょ? そのたくさんの人たちのためにも、“福”をつけるの」
「――そうか、ありがとう」
少し照れたように公子は答えた。
「で、そこで熱を出して寝てる兄さんは、瞳の色が緑だったから“緑さん”」
それから、首をちょっと反らせて、自分の髪を梳かしている彼の顔を見た。
「で、あんたは“蒼さん”」
「なんだ、人の容姿のこと散々言ってたから、“並”か“凡”と思ったら“蒼さん”か」
「確かに。でも、“並”も“凡”もピンとこないな。何となく“蒼天”って感じがしたから蒼さん」
「蒼天? そんなこと言われたのは初めてだな」
「じゃ、姐さん、俺は?」
横から少年が顔を出して聞いた。
「えーっ、君は阿兎って呼んでるじゃん」
「なんで阿兎なんだよ」
ちょっと不満そうに少年は言った。
「それは……」
ちょうど兎肉のことを考えていた時、少年が崖を脱兎の勢いで駆け下りてきたからなのだが……。
「脱兎の如くって言葉があるじゃない」
「孫子の九地だな。“始めは処女の如く後は脱兎の如し”。素早く動くことで敵の虚を衝く例えだな」
何とか取り繕うとワタワタしていると、横から蒼が口を挟んだ。渡りに船とばかり、飛蝶は蒼の言葉に乗っかった。
「そ、そう。それ。孫子! 崖を勢いよく駆け下りてきた君は、正しく孫子の兵法だったから」
「へえ」
少年はちょっと嬉しそうな顔をした。兎肉のことを考えていたからという真実は、だいぶ後になってから伝える事になる。真実を知った阿兎は、あの出会いは良い思い出だったと笑って済ませてくれた。
「ほら行くぞ」
飛蝶の髪の毛を適当にまとめると、蒼はスタスタと外に歩いて行った。彼女も慌てて立ち上がった。
「お嬢さん」
外へ出ようとする飛蝶を、福公子が呼び止めた。
「私は“福公子”で良いとして、お嬢さんは何と呼んだら……」
「適当で」
飛蝶は手を振りながら答えた。
「何でも良いよ。思いついたので」
そう言って外へ駆け出していった。
適度にほの暗い洞窟から表に出ると、厳しい日差しに目が眩んだ。そして明るさに目が慣れると、蒼が馬を用意して彼女を待っていた。
(そうか、馬に乗っていくのか)
ここから高昌城市までどれくらいの距離か、飛蝶は知らなかったが、歩いていく距離ではないらしい。
彼女は馬を前にして一歩も動けなかった。彼女の本性は狐。その狐の本能が馬を恐れたのだ。腕力的な意味で、狐は馬に敵わない。
そもそも妖狐であったときは、馬に乗る必要はなかった。馬よりももっと早く、天を翔ることができたからだ。人に交じっているときは、周りに合わせて馬に乗ることもあったが、その時は妖力を使って馬を操っていたので、何とかなった。しかし妖力を失った今、馬をどう扱って良いのか、皆目見当がつかなかった。
「――おい、どうした?」
蒼は馬を前に、妙な構えをしたまま、微動だにしない彼女にしびれを切らして言った。
「これ以上無駄に時間をつぶしたくない。さっさと馬に乗れ」
「……無理」
冷や汗を垂らしながら飛蝶は答えた。
「蹴られたら、死ぬ」
「は?」
コイツは何言っているんだと、蒼は理解に苦しんだ。
「勝てない」
「馬と闘ってどうすんだ!? これに乗って移動するだけだろ」
「無理無理無理無理」
「無理って、ここまで馬で来ただろ?」
「その時は、阿兎が乗せてくれたから……一人じゃ無理」
「――ったく」
しびれを切らした蒼が、舌打ちをしながらひょいと彼女を抱え上げた。そして自分の馬に乗せ、その後ろに自分も乗った。
「お前、本当に不思議なヤツだな。本当は狐かなんかが化けてるんじゃないか?」
飛蝶はその言葉に驚いて、蒼の顔をじっと見た。
「本気にするな。冗談だよ」
「冗談……」
「まあ、お前が"実は私は女狐です”て言っても、納得しかないがな」
「女狐、か」
「おい、本気にするな。冗談だって言ってるだろ」
「いや、採用」
「は?」
「やっぱ、蒼さんって賢いね。私はこれから女狐って名乗るわ」
「あ?」
そうなんだ、妖力を失っていても、自分の本質は狐なんだと飛蝶は気づいた。たとえこの先、人の中で生き続けようとも、自分の中の狐は決して消えないもの。隠しても隠しきれないものなのだ。それを忘れないためにも、彼女は女狐と名乗ろうと決めた。
そう、この時から、飛蝶は女狐となった。
「ねえ、一体いつになったら着くの」
苛ついた彼女の声に、蒼は我に返った。ぼうっとしている間に、また盗賊が出てきたのだ。
「行きは変なものに全然出くわさなかったのにさ」
その苛立ちをぶつけるように、女狐は思いっきり賊を蹴り上げた。
「こいつらが次々湧いて出てくるから、全然先に進めない」
「行きは、我々を捕まえようと軍が動いていたからな。山賊どももなりを潜めていたんだろう」
盗賊達が立ち去ったのを確かめてから、蒼は馬を下りた。
「とは言っても流石にこうも数が多いとうんざりするな」
そう言いながら、もう何回も繰り返した動作で彼女を馬に乗せた。
「ありがとう」
女狐は、軽く頬を染めうつむきながら礼を言った。
(こういうときは乙女っぽくなるんだな)
蒼はいつの間にか彼女が照れる様子を楽しんでいた。
「気にするな。人間、誰しも得手不得手ってあるもんだ」
「う、うん」
そう言いながら、女狐は溜め息をついた。
(辛い……辛すぎる)
この胸の中にあるもやもや、すべて吐き出したかった。知ってはいけない彼らの秘密を知ってしまったから。あの高昌の街中で、聞いてしまったから。
余計なことを言いたくなったら、砂棗を囓って口を塞いだ。何か適当な話題を思いついたら、思いつくままに喋った。途中で表れる山賊も、初めのうちは良い気晴らしにはなったが、こうも数が多いと鬱陶しいだけだった。
(あんな話、聞くんじゃなかった)
女狐は、高昌城市で入った飯屋でのことを心底恨んでいた。
西域随一の王国、高昌。その王府があるのが高昌城市だ。蒼と一緒に城市の門をくぐったとき、その壮大さに女狐は息を飲んだ。
この高昌は西域では珍しい、漢人が王となっている国。だから高昌城市は長安や洛陽のような街並みだと、彼女は勝手に思っていた。しかし、実際は全く違っていた。
日干しレンガで作られ、白く塗られた建物。胡楊の並木道。縦横に巡らされた用水路。熱い日差しを避け、まどろむ住民達。その住民達は漢人だけでなく、西域人や胡人、遊牧民など、さまざまな民族が入り混じっていた。
ここは、紛れもない異国だった。
高昌城市では、日中はあまりにも暑すぎるため、市が立つのは朝と夕方。二人が城市に着いたのは、暑さのピークを過ぎ、夕暮れが近づいてきた頃。街中がゆっくりと動き始めた時間でもあった。
高昌は東西の要衝であり、隊商が多く行き交う街でもある。街を訪れる多くの商人達が時間をつぶすため、飯屋や茶店はなんとなく一日営業していた。
蒼は適当な店を見つけると、女狐をそこに連れて行った。
「ちょっと買い物している間、弟にこれで何か食わせてくれ」
蒼は店の者にそう言って金子を渡した。それから女狐を座らせて、子どもに言い聞かせるように言った。
「いいか、俺が戻ってくるまで絶対にここを動くなよ。物珍しさに動くと迷って戻れなくなるからな」
「やだな、迷子になるような年じゃないし」
「お前、洛陽に比べたら高昌なんてちっぽけな街だと思ってるだろ。だがな、ここは西域で一番大きな城市だ。路地も入り組んでいるし、土地勘ないヤツは簡単に迷うからな」
「う、うん」
「解ったな、高昌舐めるなよ」
「わ、解った」
「じゃあ、戻ってくるまでそこで大人しくしてろよ」
「はい、はい」
何をエラそうにと思いながら、薬屋へ向かっていく蒼を見送った。正直、何か食べられるのはありがたかった。公子達と行動を共にしたあとも、いろいろあって口にしたのは水と干し肉ぐらいだったからだ。
店主は料理はまだ準備中だからちょっと待ってくれと言いながら、焼き菓子と切った瓜を出してくれた。それは初めて見る種類の瓜だった。
「何、これ、甘! 美味!」
一口食べてみると、みずみずしい上に味が濃くて、思わず声が出た。
「そうだろ、坊主。この高昌の暑さが美味さの秘訣さ」
近くにいた体格の良いおじさんが自慢げに言った。
「連れは土地の者みたいがだ、お前さんは、洛陽から来たのか?」
「あ、うん。そう。連れの兄さん所に厄介になってるかんじ」
「あら、やだ、この子、まだ声変わりもしてないの? 可愛いわねぇ」
店の女将が女狐の声を聞いて、まだ幼い少年だと思ったようだ。
「ここまで来るのも大変だったでしょう?」
「うん、まあ、いろいろあった」
女狐は何となく言葉を濁した。嘘はあまり言いたくないが、天狐に襲わてれましたなんて、本当のことも言えない。
「高昌は初めてなのかい?」
「うん。別の連れが熱を出したから、ここまで薬を買いに来た」
それを聞いて女将はどこどこの薬屋がいいだの言ってくれたが、肝心の蒼さんがいないから、何の役にも立たない情報だなと思いながら聞いていた。恐らく蒼さんは、この暑い中、薬屋が開くまで店の前で並んで待ってるんだろうなと思うと、生真面目な彼らしくちょっと面白くなった。
「やっぱり、あんたもここまで流れてきたのかい?」
「え?」
「この店に集まってくる連中は、みんな十年前の動乱を逃れてきたヤツばっかりなんだよ。唐が興って落ち着いたと思ってたんだけど、あのことが起こってまた荒れたんでしょ」
「あのこと?」
「ほら、ついこの間、秦王が謀反を起こしたでしょ。あれでまたあちこちに戦渦が起こったんじゃないの?」
どうやら玄武門の変のことを言ってるらしい。長安からこんなに離れたこの土地まで、あの事件のことが伝わっていることに、女狐は驚いた。
「いや、荒れてはないよ。あの事件は起こるべくして起こったものだし……」
むしろ、秦王が皇帝に即位してからは、魏徴など皇太子派からも優秀な人材を重用したため、皇太子派・秦王派で争っていた先帝の頃よりも、国としての一体感が増していた。
「僕がこっちに来たのは、家のゴタゴタのせいだし」
「そうなんだ、坊主、幼いのに苦労したんだな」
そう言っておじさんは女狐の頭を撫でた。
「とすると、私らもあっちに戻れそうかね」
「どうだかな、土地も荒れてるだろうし」
この店は、隋末の動乱から逃れてきた人たちの溜まり場だった。そして皆、遠く離れた故郷に、いつか戻ることを夢見ていた。彼らにしてみたら、つい最近まで中原にいた女狐は、格好の情報源でもあった。いつの間にか、女狐の周りには、近くにいた流民達が集まっていた。
実は漢人国家とは言え、街中で主に話されている言葉は車師――高昌の前にあった国――の言葉だった。そのため、隋末の動乱を逃れた流民達が一カ所に集まるのも自然の流れだった。
蒼は少しでも言葉が通じた方が良いだろうと、流民達が集まっている場所にある飯屋に彼女を置いていった。しかし、よかれと思ったことが、逆に悪い結果となった。
「でも、今度はこっちが荒れそうでしょ」
女将は不安そうに言った。
「そうだな、逃げるなら早いほうがいいかもな」
女狐の横に座っていたおじさんも、女将の言ったことに同意した。
「荒れそう?」
花を摸した焼き菓子をかじりながら女狐は訊いた。
「ああ、そうだね、坊ちゃんはあれ見てないものね」
「すごかったのよ」
「あんなの、滅多に見れるもんじゃないよな」
いつの時代でも、どの場所でも、人々の噂好きは変わらない。彼らは口々に、今日の午前中にあった大捕物について話し出した。それは高昌の第三王子の悲劇でもあった。
それは先王麹伯雅の頃からの因縁にさかのぼる。
伯雅の母は突厥可汗の娘だったため、即位当時の朝廷はほぼ突厥の支配下にあったと言っても良い状態だった。しかし当時の突厥は東西に分裂したばかりで、弱体化が始まっていた。そこで、伯雅は最盛期を迎えていた隋とつながりを深めた。
同時に西突厥とのつながりもおろそかにはしなかった。王太子の麹文泰を、西突厥の質子(人質)とした。その時、すでに文泰には妻子がいたが、改めて可汗の娘を妻とし一男をもうけた。その子が第三王子である。
第三王子が生まれた頃、隋の高句麗遠征が決まった。麹伯雅・文泰親子は西突厥の泥撅処羅可汗とともにそれに参加することとなった。彼らは二年間も国を空けることとなった。その隙を突き、勢力を強めた鉄勒を後ろ盾にした伯雅の弟が、謀反を起こして王権を奪い、義和王となった。
後に義和政変と呼ばれるこの事件は、文泰が西突厥の力を借りつつ五年がかりでようやく収めることができた。復位した伯雅を補佐するため、文泰は高昌国へ戻ることになった。西突厥には、そこで生まれた第三王子麹智興を、質子としてそのまま残すことにした。当時、突厥領内には高昌国から数多くの流民がいたが、王子のためにわずかな世話係を残し、皆、文泰と共に高昌へ帰って行った。
残された智興は、高昌国の王子ではあるものの、高昌国内に一歩も足を踏み入れることなく、西突厥の領内で成長した。
それから十数年後、高昌から遠く離れた長安で玄武門の変が起こった。
伯雅の後を継ぎ、高昌王となっていた文泰は、その報せを聞き一抹の不安を覚えた。
弟が兄を殺して皇位を奪ったこの事件は、同じく弟が王位を簒奪した先代の義和政変と似てはないかと。
王太子智盛とその弟智湛は、親の欲目を抜いてみても仲の良い兄弟だった。智湛は、自分は兄を支える立場だというのをよく理解していた。この二人が骨肉の争いを繰り広げる可能性はほぼないと考えて良いだろう。
だが、文泰にはもう一人息子がいた。西突厥の地に残したまま、もう十数年会っていない息子だ。高昌で生まれ育った智盛と智湛にとっても、一度も会ったことのない腹違いの弟だった。
現可汗である統葉護可汗は、智興を実の子と同じように可愛がっていると聞く。互いの情は薄く、西突厥の後ろ盾がある第三王子。もし、唐のことを聞き及び、長子を倒せば王位に就けると考えでもしたら――?
しかも、第三王子の後ろ盾は西突厥だけではない。義和政変で最も功を上げた建武将軍・譚慧とその一族が、自ら望んで第三王子の側に残っていた。
(その気になれば、簡単にこちらの寝首を掻けるわけだ)
そうなる前に、謀反の芽は摘んでおかねばなるまいと、文泰は考えた。
幸い、末の妹を統葉護可汗に嫁がせたばかりで、特に質子も必要な状態ではない。
そこで、第三王子に“田地公”の位を授け、政に参加させるという名目で、彼らを高昌城市へ呼び寄せることにした。そして適当な証拠をでっち上げ、謀反を図ったことにして処刑することにしたのだ。
しかし、建武将軍はいち早く危機を察すると、自らの命と引き換えに、王子を高昌城市から逃したのだ。
「ほんとビックリしたよ。西突厥から末の王子が初めてやって来るって、みんなで大騒ぎしてたのにさ」
「はは、まさか謀反企ててたとはね」
「でも、さっき飯食いに来たお役人曰く、でっち上げだったって話だよ」
「ああ、その話、俺も聞いた。でも謀反起こす前に処分するってことは、謀反起こす気だったってことだよな」
「それでね、坊ちゃん、街中で大立ち回りしたあげく、何と逃げおおせたのよ、その王子」
「連れ戻されてないから、西突厥まで逃げられたんかね」
「それが怖いんだって。仕返しに突厥兵が大挙して押し寄せてきたらどうする?」
「早く捕まると良いな」
「どっかの郊外で討ち取られてるんじゃないか?」
口々に勝手なことを言う流民達の話を聞いて、女狐は溜め息を吐いた。
(そうか、あの人は公子じゃなくて、王子だったんだ)
重い話だな、と彼女は思った。
「どうした? 坊主にはつまらない話だったか?」
「あ……いや」
確かに聞きたくない話だった。お互いに秘密を持っているからこそ、対等だったのに――。
「うん……そう……あの……しょっぱいもの、食べたくなった」
話題を変えようと、彼女は必死に言った。
「おお、そうだそうだ。料理できたぜ。肉食え、肉」
店主が焼きたての肉の塊をどん、と目の前に置いた。
「野菜も食えよ。野菜も。高昌の野菜は美味いんだから」
この店に野菜を卸している農園のおじさんが、泥付きの野菜もどん、と目の前に置いた。
「ちょっと陳爺、そのまま置かないでよ。坊ちゃん、ちゃんとうちの人に料理してもらってくるからちょっと待ってて」
女将さんが野菜を取り上げると、調理場の方に持っていった。
それからは、卓の上に並びきれない料理が並び、あれが美味しいだの、これは食べない方が良いだのと、食べ物やら高昌の名物の話になった。
蒼が戻ってきたのは、そんなたわいもない話で盛り上がっていた時だった。彼らのことが話題になっていたことを知らぬまま、帰路につくことができて、女狐はほっと胸をなで下ろした。
「――馬の負担を考えて、ゆっくりめに走ってたからなぁ」
“いつになったら着く”という女狐の文句に答えるように蒼は言った。
「何しろ、二人乗りだし、あの飯屋からもらったお土産は大量だし……」
帰るとき、卓に乗り切れないほど並んだ料理を女将さんは包んで二人に持たせてくれた。最初に支払った額では、まかないきれないほどの量に、蒼は驚いた。女将さんは、気にするなと言って、全部持たせたが、馬に乗せるのも一苦労だった。
「何よ、ゆっくりなのは私のせいってこと?」
「まあ、そうだな」
笑いながら、蒼は拍車をかけた。それに呼応して馬は勢いよく駆け出した。
「もう、あとちょっとだから、一気に行くぞ」
それは山賊が出ても楽に振り切れるぐらいのスピードだった。
蒼も含め、西突厥で育った公子達は馬の扱いが格段に上手かった。譚一族の武術の腕前もあったが、彼らの操馬術があったからこそ、高昌城市から逃げられたのだ。
あまりの速さに、女狐は軽く悲鳴を上げると蒼の腕にしがみついた。馬にしがみつく方が身体は安定するだろうが、こんな時でも馬が怖くてそれができなかったのだ。
ほんの数分で廃寺に着いたが、その間、女狐は生きた心地がしなかった。ここ数日、いろいろなことがあったが、心身共に一番疲れたのがこの時であった。
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