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終章
翌朝、ドアを春風のように軽快にノックする音で眼ざめた。レイコさんは、土砂降りの雨から虹があらわれたような笑顔で立っていた。
──昨晩はごめんなさい!
くわしいことを話しさせて。
彩光によって明るくなった部屋で若いオレたちは、とりあえず昨晩の分もふくめてセックスをした。
レイコさんの少し縺れた長い黒髪を撫でながら、オレは彼女のやや切れ長の美しいひとみを見つめて、ようやく好きだといえた。
それから、真夏の日差しのような微笑みを浮かべたレイコさんは、真っ白な天井を見上げながら覚悟を決めたらしく、ゆっくりと詳細を話しはじめた。
昨晩、彼と正式に別れた。しかしワタシのお腹には彼の赤ちゃんがいる。彼は強く堕せと言った。実のところワタシは洗礼を受けた身、堕すことは絶対に許されないし、もちろんそんなことはしたくない。今朝、実家の両親にも電話で相談したら、すぐに帰って来いと……
──ユウくんが、せっかく好きだといってくれたのにほんとうにごめんなさい。
ワタシもユウくんのことは好きよ!
オレはただ微笑みながら頷くだけだった。彩光によって明るくなったライトブルーのカーテンが、小さなひとつの希望に思えた。
──人間存在の破壊されえぬことへの顕現ということば知っている?
ひとりの人間が生きているということ、生きたということは取り消せない、そこから光を導いてみれば、現代のいかに悲惨な生にしても、当の個人の存在には、indestructibility(和訳:不滅)と呼ぶほかにないものがあるらしい。
大江が影響を受けたという宗教哲学者エリアーデのことばだけどね。
──いい言葉ね。
indestructibility!
実はとっても落ちこんでいたけど、少し勇気が湧いてきた。
その言葉を忘れずに死にものぐるいで子どもを育てていくわ。
ユウくん本当にいままでありがとう。
あなたはまことのひかりをさがしつづけて生きていってね!
あれからもう十数年が過ぎてしまった。オレはレイコさんの実家が秋田県にあるらしいことしか覚えていない。おそらくシングルマザーとして初夏の日差しのような微笑みをたたえて頑張っているだろう。女の子が生まれたとは聞いたけれど、それっきり音信不通にもなってしまった。いまでも彼女が「生命の樹」をさがしていると信じたい。
スタンドライトの卵型のLED電球は、まるでこの8畳の和室の小さな太陽のように、隅々にまで淡くあたたかなひかりを放っていた。深夜午前3時、枕もとでご機嫌に熟睡していたシーが急に眼ざめてオレの頭を前足で叩きだした。いつもの朝の散歩の催促だ。
──indestructibility!
シーこの意味わかるかい?
シーはオレのまことのひかり。
不滅ってことだよ!
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