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第1章
──相席お願いしてもいいかしら?
おもに学生向けとされているパンション(食事付き賃貸ルーム)1階の、明るさを抑えた暖色系の照明が穏和な雰囲気の喫茶店で、オレは小瓶のビールを飲みながら少し遅い晩ご飯をとっていた。声をかけてきたのは、いつも陽気なこの店のオーナー兼ママだった。
オレが躊躇なくすぐにハイと返事をすると、ママは目尻に小じわをよせながらも衰えない美貌に笑顔を浮かべた。
──ありがとう! ちょっと混んでてね。
今度ビールサービスするから!
胸まであるストレートの黒髪を前に垂らしながら会釈をし、向かい席に腰かけたのは、冷たくも玲瓏な印象の女の子だった。しかし彼女は、すぐにオレが読んでいた太宰治の文庫本に目を向けると、クスッと冬の日差しのような微笑みを浮かべた。そして持参した1冊の単行本をテーブルに置くと、しおりを挟んでいたページを開いて、まるでオレのことを道端の雑草のように気にもとめず、微風のような小さく可憐な声で口誦しはじめた。
《粉碾き臼を廻している奴隷をして、野原に走りいでしめよ。/空を見上げしめ、輝やかしい大気のなか笑い声をあげしめよ。/暗闇と嘆きのうちに閉じこめられ、三十年の疲れにみちた日々、/その顔には一瞬の微笑をも見ることのなかった、鎖につながれたる魂をして、立ちあがらしめよ、まなざしをあげしめよ。》
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