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『今どこにいますか?』
目の前に打たれたその文字列を見つめて、白木レナは小首を傾げた。その文字は数秒前にレナが自分の意志で打った文字であったが、その数秒で彼女はその記憶をなくした。
白紙病と呼ばれる病が世界に広がっていた。
記憶が抜ける病気である。認知症との違いは、『心から消えていく』ことにある。
物事の判断は衰えず、精神年齢の退化も見られない。しかし、だんだんと記憶が抜け落ちてゆき、それに伴い発達してきた感情を失う。
症状が進むにつれて自傷行為などを起こす患者もいるが、大抵一年たたないうちに静かに眠りにつく。
笑わなくなり、怒らなくなり、泣かなくなり、次の日目を覚ますこともない。
レナは自分が白紙病だと分かったその日、大粒の涙を流し、「まだ大丈夫だよ。ほら」と毎日見舞いに来る親族に対して笑って見せていた。
しかし、ぽつりぽつりと抜けていく。記憶。
「大丈夫だよ……ほ、、ら?」
ある日、日課的にそう呟きながら壁に向かって悶々としている彼女がいた。
そんなレナには過去に付き合っていた男が一人いた。喧嘩別れでもなく、自然消滅でもない。ただ、彼が就職した会社の配属先が遠くであったから別れた。遠距離で恋をし続けるのは難しい、と彼は告げたて去って行った。それが優しさでもあるとレナは分かっていた。
「いかないで」とは言えなかった。「遠距離でも大丈夫」とも言えなかった。ただ、笑顔で最後の最後まで一緒にいて彼を見送った。
レナが白紙病にかかったのはそのわずか二週間後であった。
そんな無慈悲な恋のシナリオ。人生のシナリオ。
それが、まもなく終わろうとしていた。
数十分悩んだが、レナは自分がその文字列を誰に向けてどんな気持ちで打ったのか思い出せないでいた。
『今どこにいますか?』
思い出せない。それだけ、症状が進んでいる事実。しかし、彼女はもう自分が白紙病であることも忘れ、白紙病であることの不安も消えている。
どこかに出ていこうとする、好奇心もなく。毎日ベッドの上で過ごす毎日
。
心が白に染まる。
余命はわずかであった。
今日が最後の眠りになる可能性が高かった。
たッ、たッ、たッと文字を一文字ずつ消していく。
そのたびにどこかがひどく傷んだ。それがわからず、消しては戸惑い、消しては戸惑い、しかし、文字は消され続ける。
そして、最後の一文字を消したとき、スゥーッと風が通り全身が冷える心地がした。
何とも奇妙な感覚であり、胴体にぽっかりと大きな穴が開いてそこに風が通って行ったような。
「もういっか」
誰かが紡いだ言葉と共に、視界は白く。無限の迷宮に落ちて夢を彷徨うとする。
しかし、瞳を閉じる瞬間に、ポッと軽い音が響く。
重い体を必死に起こす。何がそこまで自分を動かすのかレナは分からなかった。でも、画面を見て。その言葉を見て。
『レナ、今どこにいる? 少し話せないか?』
笑った。
体の空洞が温かさで満たされた。
文字を打つと同時に、本当にわからなくなる前に送信ボタンを押した。
『わかんない!』
そうして、ナは再び真っ白なベッドに落ちた。
目を瞑り、誘われるように夢の底へ。
その目じりには涙がたまっている。
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白の世界で少女は進む。夢の迷宮で彷徨い歩く。
ある白紙病患者の手記がある。その手記には度々『夢』の世界について語られていた。すべてが白いのに複雑な構造の世界。その手記の最後のページには『夢に救われる』といった言葉が一文。
少女は白の迷宮を進み、やがて一つの影を見つけた。そこには、一人の男がたっており。その顔、姿をみるや否、彼女は駆け出して抱き着いた。
「もう、どこにも行かないで!」
幸福に包まれて、笑顔が花咲く。
されど、そのすべてが夢と化していた。
醒めない夢と分かっていた。
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