親愛なるお姫様

1/1
前へ
/1ページ
次へ
『私、今どこにいるんだろう?』  電話の向こうのその発言に、今川二葉(いまがわふたば)はしばし言葉を失った。 「……それを、わたしに聞かれてもね」  こちらの呆れに気付く余裕もないらしい相手に駅名を尋ねると、まさかの目的地とは反対方向。それも、よりにもよって彼女は各停しか停まらないと思われる駅に降り立ってしまったらしかった。 『どうしよう。なんか周り畑ばっかで、すごい田舎って感じなんだけど』 「それでも無人駅って訳じゃないでしょう?駅員さんに聞けば?こっちの駅までの乗り換え」 『え~…。二葉ちゃん、調べてくれない?」 「……」  その口調を聞いただけで、いつもの上目遣いのおねだり視線を想像できた。駅員に話しかけることも、スマホで乗り換え検索をすることもできない…もとい、しようとしない姉・一花(いちか)。彼女が社会人として働けていて、しかも結構な高給取りの部類であることに、この世の不思議を感じずにはいられない妹・二葉であった。 「じゃあ調べてあげるから、ちょっと待ってて」 「ありがと!二葉ちゃ…」  ささやかな苛立ちを主張する為に、二葉は姉の礼の途中で電話を切った。その指ですぐに乗り換えを調べてやると、一花が待ち合わせ場所である二葉がいる駅に到着するのは最短でこれから四十分後、本来の約束の時間から一時間以上後になるらしいことが分かった。姉妹二人で観ようとしていた映画の上映時間に間に合わないことは確実となり、二葉の貴重な休日の予定は完全におじゃんになった。  仄かに湧きかけた怒りの感情を抑えつつ、二葉は姉のスマ―トフォンに乗り換え案内画面のスクリーンショットを送信した。  初対面の、または初対面に近い相手からきょうだいの有無を聞かれる場面なんてものは、よくあるものだ。 「きょうだい?いますけど」  二葉がそう答えると、「二」葉という名前にも関わらず、大抵こう重ねて尋ねられる。 「妹さん?弟さん?」  そうして二葉の唯一のきょうだいが姉だと知ると、決まって皆、意外だと驚く。こういったやりとりの度、ほんの少しの苦々しさと共に二葉はしみじみと思うのだ。ああ、深くも知り合ってない人からもわかってしまうほど、自分からは滲み出てしまっているのだなと。  「妹を持つ姉」と聞いて、一般的に人はどういうイメージを思い浮かべるだろうか?妹の手を引き、妹が危なくないよう気遣ってやり、守ってやる。そんな、母親に代わって甲斐甲斐しく妹の面倒をみてやる姿だろうか?それらのことは全部、姉ではなく妹の二葉の方が二歳年上の一花にやってやったことだ。  ほんの小さい頃から、物心ついた時にはもうそうなっていた。一日の最初の仕事は、朝に弱い姉を起こしてやること。それから、不器用な姉の髪を整えてやり、忘れ物が無いかの確認を手伝ってやり、靴紐を結んでやる。家に帰ってきた後は、弁当箱を洗ってやり、明日の予定の確認を手伝ってやり、洗濯物を片付けてやる。一緒に外に出掛けることがあれば目的地まで手を引いてやり、切符やチケットを手渡してやり、はぐれて迷子になれば探してやり…。  学業に関しては進学校で常にクラス一位か二位という成績でありながら、なぜか実生活では全くのポンコツである一花の面倒を、共働きの両親に代わり二葉はずっと朝から晩までみてきてやったのだった。  そんなことから、一花が実家から通勤するのには距離があるシステム開発会社に就職した時には、二葉は大いに期待した。姉が引っ越してくれれば、彼女の面倒をみる役目から自分は解放される、そう思ったからだ。だが、なんと両親から一花と一緒に引っ越し、姉の私生活の面倒を見てやって欲しいと頼まれてしまった。  もちろん、二葉は冗談ではないと断った。あと二年しかない大学生活、姉のお守りなどせず気儘に自由に楽しみたかった。他の家族の協力なしに姉の衣食住をみてやるなんて、絶対に御免だった。  姉抜きで行われた話し合いは当然、なかなか折り合いがつかなかった。仕舞いには二葉は母親に泣き付かれ、恨み言を言われた。お前は姉を見殺しにするつもりかと。  なにを人聞きの悪い、姉だって子供ではないのだ。実際にひとり暮らしをしてみれば、自分で何とか生活していけるだろう。そう反論しようとした二葉の頭の中を、一花の日々の生活態度がよぎった。  集中すると勉強でもゲームでも、二徹でも三徹でもする姉。誰かが声を掛けない限り、食事を摂ることを忘れる姉。大事な郵便物を開けもせずに、ゴミ箱のすぐ横の棚に放っておく姉。全自動洗濯機や電子レンジの使い方を知らない姉。家の戸締りの習慣が永遠に身に着かない姉…。  二葉は口を噤み、極めて消極的に姉との二人暮らしを決意した。  そして、二葉の姉離れの最大にしておそらく最後のチャンスは、その引っ越しの三年後に訪れた。一花が、同僚の紹介で知り合ったという男性と籍を入れたのだ。  改札から出てきたスキニージーンズの女性を、通りすがりの男性が振り返った。そんなんことが、彼女が二葉のすぐ傍に来るまでの十数メートルの間に、三度繰り返された。 「二葉ちゃーん!やっと会えた!」  三番目、最後に振り返った男性は、女性が待ち合わせていたのが男ではなかったことをその目で確認してから、本来の彼の進行方向へと進み始めた。  大したメイクもしていない。長い髪もろくにセットせずに無造作。服も鏡の前で合わせるなどしないで、部屋で手近にあったものを着て来ただけなのだろう。だというのに、一花は通行人たちにはオフの日のモデルにでも見えるのか、人の目を引く。 「『やっと』ね。映画終わっちゃったし」 「ごめん!次の回は?何時?」  次なんて、ない。見逃した昼の回が最後の上映だった。しかし二葉は、妹の返事をただ待つ姉の無邪気な表情に毒気を抜かれ、文句を言う気が失せてしまった。 「待ち疲れて、映画って気分じゃなくなっちゃったよ。それより、お腹空いた。なんか食べ行かない?」  映画はお気に入りのテレビドラマの特別篇で、公開前から楽しみにしていて。その上映期間が派遣先の繁忙期と重なって、そして、今日がギリギリ、最後の鑑賞のチャンスだった。だったのだけど。  二葉は今まで一花と待ち合わせをして、時間通り計画通りに落ち合えたことがない。だからきっと今朝、姉から電話が来たときには多分、二葉は本日の自分の楽しみについて薄々諦めがついていたのだ。  数時間前。  二葉が平日よりもラフに髪をまとめ、通勤用のトートバッグから休日用の小さなショルダーバッグに財布と交通系ICカードを入れ替え、部屋の戸締りと火の元をチェックし、さあ出掛けようかという丁度その時に、テーブルの上に置いてあったスマートフォンが鳴った。  姉からの着信であるということだけで、もう嫌な予感がした。休日は昼近くまで寝ていることが多い一花から朝九時に電話が掛かって来るなんて、面倒な用事だとしか思えなかった。  無視することも考えたが、結局、スリーコール目が終わる直前で二葉は電話に出た。電話越しにもわかる姉の涙声に、電話に出てよかったという気持ちと、出なければよかったという後悔とが半々だった。 『二葉ちゃん。今日、会いに行っていい?』  「あー…」と、二葉は内心で唸ってから断った。 「わるいけど、これから映画観に行こうとしてたトコだから」  一人暮らしの部屋で、両親が非難してくる幻聴が聴こえた。 『……私も一緒に行っちゃダメ?』  いいけど、よくない。この日曜は自分の為にだけ使いたい。充実した休日と家族への情を秤にかけようとして、その前に諦めた。二葉は涙声の姉の頼みを断るという選択肢を、そもそも最初から持ち合わせていなかった。  それでも、楽しみにしていた映画鑑賞だけは遂げられるようにと、観に行く予定だった上映時間を一回分遅らせた。しかし、その対策も結果としては無駄になった。  ラーメン屋のカウンター席で姉妹並んで昼下がりのラーメンを啜った後、この後どうしようかということになった。一分足らずの相談の末、利用する筈だった映画館の横に併設されたショッピングモールで、二人で一花の冬服を見繕うことになった。 「二葉ちゃんは、私の服選ぶの上手いから」  絶望的に人見知りな姉は、どういう訳か妹に甘える方法だけはよく心得ていた。  セーターとスヌードを買い、また別の店で長袖のTシャツ二枚を選んだところで、一花から遅刻のお詫びに服を買ってやると言われた二葉だったが、姉の申し出は断った。  二葉にとって、一花に服を選ぶのはとても簡単なことだった。一花は洋服が映える体型で、彼女の服選びで二葉が気を付けなければいけないことといったら、彼女の肌の色に服の色が合っているか、他は、着て行く予定の場所のTPOに合っているかどうか、くらいのものだった。  それが、自分の垢抜けないもっさりとした体型に合う服を探すとなると、全体の形、襟や袖の空き具合、膨張して見えない色かどうか、気にしなければいけない項目が多過ぎて格段に難しい。特に姉の服を選んだ後では、自分の服を探すのはどうも億劫になるのだった。  買い物を楽しむ人々で混み合う店は、当然レジも混んでいた。選ぶ気もない服に囲まれているのも居辛く、二葉は同じフロアにある本屋で待っているとレジの列に並ぶ一花に告げ、店を離れた。その時点で悪い予感はしていたが、その後、二葉が本屋に着いてから三十分以上経っても一花はやってこなかった。  店でなんらかのトラブルがあったのか、一分もかからない距離だというのに姉は奇跡的に迷子になってしまったのか。痺れを切らした二葉が自分のスマートフォンに手を伸ばしかけたところで、一花が大きなショッピングバッグを提げてやって来た。 「レジ、随分かかったね。そんなに混んでた?」 「え、うん」  一花は目を泳がせ手を後ろにまわした。絶対になにか隠している。 「……また迷子になってたの?」 「えっ?そんなわけないじゃん!こんな近い場所なのに」 「まぁいいけど。それより、そろそろ帰る?晩御飯は悠哉(ゆうや)さんとでしょ?」  待ち疲れの日となった二葉は、姉の夫をだしに解散を提案した。 「まだ早くない?それに、…ちょっと疲れた。どっかでコーヒー飲もうよ。私が奢るから」 「わたしは別にいいけど。あっ、待って」  バッグからスマートフォンの振動を感じて、二葉は今後についての話し合いを中断させた。休日の夕方に電話とは珍しいと思いつつ発信元を確認した後、一花を見ながら電話に出た。 「はい。…いえ……はい、一緒です。代わります?…はい」  二葉は送話口を押さえて姉に聞いた。 「お姉ちゃん、スマホの充電切れてる?」 「どうだろう?気にしてなかった」 「まぁいいや。ちょっとここ出よっか。電話、お義兄さんから」  モールの端にあるトイレの手前のベンチで、姉と義兄の、二葉の電話を介した会話はなかなか終わらなかった。二葉はベンチから立ち上がりかけたところを横に座る一花に袖を掴まれ、その後も「そうじゃなくて」とか「気分変えたかっただけ」とか「まだ帰らない」とかの言葉を延々聞かされた。 「またこっちから連絡するから」  そう言ってようやく借り物の電話を切った姉に、二葉はすかさず言い渡した。 「うちには泊めてあげないよ」 「なんで?!」 「ウチの狭さ、知ってるでしょう?お姉ちゃんの寝る場所なんかないから」 「二葉ちゃんのベッドで一緒に寝ればいいじゃん」 「嫌だよ。滅茶苦茶寝相悪い人の隣で寝るなんて。それに明日、月曜。お互い仕事だから」  一花は黙り込んだ。本当はつい数週間前、二葉の部屋には友人が一泊していった。狭くはあっても客一人寝る場所なんて、どうにでもなるのだ。だが、そんな事実を姉に知らせてやる必要はなかった。 「今朝、悠哉さんと何かあった?」 「別に…。でも………が」 「ん?何?」 「だから、ティッシュが……」 「ティッシュが、何?」 「ティッシュが入れっぱなしだったみたいで。洗濯物に…」  ああ、あれ。二葉が一花にそれ以上聞く必要はなかった。一花と二人暮らしをしていた時、二葉もまた同じ被害に遭った。三回も。あの湿った服の繊維に絡みつく、忌々しい紙の白。 「完全に私が悪いけど、あんな怖い顔して怒鳴らなくっても」 「いや、わかるよ。怒鳴りたくなる気持ち。あれ、取るの大変だもん」 「でもさ、そこまで怒ること?たかが洗濯物のことで」  他人ごとながら、二葉のこめかみがピクリと痙攣した。 「それは洗濯しない人が言うことだよ。私も、お姉ちゃんにあれやられた時には、ほんっと腹立った!」 「二葉ちゃんも凄い怒ってたけど、でも、なんか、なんか…」  一花は紙袋の取っ手をぐしぐしと揉んだ。そうして、それまでの半分の音量以下の声で呟いた。 「男の人、怖い」 「……」  二葉は義兄の顔を思い浮かべた。彼を見た十人中十人に「優しそう」と評されそうな人。それに二葉の知る限り、姉にベタ惚れでベタ甘な人だ。おそらく、世界一。 「仕事とかでは、もっと凄い厳しいことも言われてんでしょ?」 「仕事は、生きるか死ぬかだもん。でも家は別でしょ」  口を尖らせた一花が、じっと二葉を見た。煩わしいことに、彼女が目で訴える考えが二葉には一発で伝わった。 『結婚する前の方がよかった』  現在は夫に家事全般をみて貰っている姉だが、本当は、実の妹に面倒を見てもらうのが一番気楽なのだ。自分をお姫様に、妹を召使いのようにして。  でも、一花だって姉として気付いてはいた。姉の世話ばかりの生活から逃れたがっている二葉の気持ちを。それもあって、彼女は結婚を選んだのだ。その決意を曲げないでほしい。 「帰るよ!」  二葉は姉の手から自分のスマートフォンを取り上げ、立ち上がった。  拗ねて歩みの遅い一花を「ここではぐれても私は探してあげないから」と半ば脅しつつ、姉妹二人、駅の改札に向かった。その間にも、二葉は乗り換えの駅名と乗り換え電車の方面の駅名とをしつこく姉に繰り返し聞かせた。  改札を潜るところまで姉を見届けてやり、さあ、自分が使う路線に向かうかと二葉が方向転換したところで、背中に声をかけられた。改札の向こうで一花が手招きしていた。二葉は改札に向かう人々をよけ、姉に駆け寄った。 「なに?忘れもの?なんか失くした?」 「二葉ちゃんに渡すの忘れてた。今日付き合ってくれたお礼」  一花は大きなショッピングバッグから、その半分程度の大きさの紙袋を取り出した。姉が本屋に来るのがやたらと遅かった理由が、これでわかった。 「はい!」 「……ありがとう」  薄ピンクの地に箔押しの金のプランド名。中身の物が想像できて正直まったく嬉しくなかったが、お礼は言っていおいた。 「じゃあ、二葉ちゃんも気を付けて帰ってね」  手を振りホームへ去ろうする姉に、二葉は慌てて注意した。 「そっち、反対方面!」  そのまま家に帰って休日を終わらせてしまいたくなくて、二葉はひとり、カフェに入った。上着を脱ぎ荷物を置き席に落ち着いたところで、覚悟を決めて改札で渡されたショッピングバッグの中から服を取り出した。  現れたのは、フリルの施されたカーディガン。色は、袋と同じような甘いピンク色。全く二葉の趣味ではない。部屋着にする気すら起こらない。  かつては、こういった服が好きだった時期もあった。しかし、それはせいぜい小学校低学年の時までで、昔にも程がある。それ以後は子供ながらに自分にはファンシーな服は似合わないと理解し、シンプルな服を選ぶようになったというのに、何故か一花の中で、二葉の服の好みの情報は一向に更新されていない。  目の前でこういった類の服を買われそうになった時には、何度も止めている。だが、こうして二葉がいないところで購入されてしまっては、止めようもない。二葉は脱力しカーディガンを膝に置くと、椅子の背に寄りかかった。  天井を見る。着る気はしない。売ることも悪くてできない。余計な物をくれたものだと苛立ちつつ、ほんの少し、くすぐったい気持ちになる。  一花にとって二葉は、いつまでも可愛い物をあげたくなる、そういう存在なのだろう。いい加減、妹はとっくに大人になっているのだと気付いてくれと思いつつ、そんな風に二葉を扱ってくれる唯一の存在が、あの姉でもあり。二葉は姉の不器用さを、今さっき別れどうせまた近く会うだろうに、妙に恋しく思った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加