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13
レフィが目覚めた時、花の香りがした。ずっと暮らしていた神殿に咲いていた低い木に咲いていた白や薄い紫の花の匂いに似ていたから、一瞬日常が戻ったような気がした。
「フィオ、おはよう。気分は悪くないか?」
低い声が真横から聞こえて、現実が悪夢に塗りかえられた日を思い出した。
「あんたが声を掛けてくるまでは悪くなったけどね」
悪態が口をついて、レフィは少しだけ心が痛くなった。レフィの人生でこんな当てこすりを言ったことなど一度もない。義父の手前もあって大人しくしていたレフィは、神殿においても穏やかで誠実な人間だと認識されていたはずだ。
「そうか。なら大丈夫だな。頭は痛くないか?」
腕枕をされて抱き込まれていたのだと気付いたレフィは、筋肉で硬い腕をどけてベッドに座った。
「別に痛くない」
「そうか、頭の傷も治っていたから安心したが……目は見えないままか」
気落ちした声を聞いて、ローレルがオメガの特殊体質である異常回復でレフィの視力が元に戻ることを狙っていたのだと気付いた。
「見えない……」
突然見えなくなってまだそれほど実感はなかった。レフィも治るなら、きっと番を得たときだろうと思っていた。運命はいつも優しくないとレフィは改めて思った。
黙り込んで俯いたレフィを、ローレルは驚かさないようにと気遣いながら身体を抱きしめた。
「私が護る……」
出会って一週間も経っていないのにローレルの身体はレフィに安心感を与えた。最初に抱かれた時のことは覚えている。番にされた瞬間の痛みも。けれど、その後のことはさっぱり記憶がなく、今が何日経っているのかさえわからなかった。けれど、唇が首の証しに触れた瞬間、陶酔するような心地よさを感じるくらいには二人の肌は馴染んでいた。
「何日経ったの?」
「出会ってから?」
「発情してから――」
「心を奪われたあの日から、まだ三日しか経っていない」
ローレルの口調にイラッとして、レフィは手を突っぱねた。
「あんたは嘘つきだ!」
「どうして? フィオ、何か……」
「何かって……、心を奪われたとか、そんなわけがない! 発情につられただけだろう!」
初めて会った時、ローレルは植物の香りを纏っていた。つまりオメガの番がいたか、定期的にオメガを相手にしていたかどっちかだ。発情時、オメガはフォロモンを纏う。アルファはそのオメガが自分のものであるという所有の証しとしてフェロモンと同じ匂いを調香させ、身に纏うのだ。発情しているオメガを抱いていれば自分で纏わなくても自然と香りは移ってしまう。大体のオメガは花や草、果物の匂いを発する。ローレルが今纏っているのはローレルの葉や花ではなく、もっと華やかな甘い匂い。自分ではわからないがレフィの匂いがダフネと同じなのだろう。
最初に会った時はローレルの香りがしたから、自分の名前にちなんだ香りをもつオメガを見つけて相手にしていたんだろう。そういう好事家のアルファがいるとレフィも聞いたことがあった。
「フィオ……、愛してる」
トスッと寝台に寝転ばされたレフィは、ローレルから逃げるように匍匐前進をした。どこへ向かっているのかもわからない恐怖より、嘘をついている男に愛を告げられ信じてしまいそうになるほうが怖かった。信じて、前のオメガと同じように捨てられるのはごめんだった。
「あっ……!」
ついた手の場所に寝台がなく落ちそうになったレフィを、ローレルは抱き留めて深く息を吐いた。
「フィオ、無茶だ。目が見えなくて怖くないのか?」
「怖いけど……。売られる前におっさんに殴られて……家具で頭を打ったんだ。それから見えなくなったからまだ最近だし」
「……殺してやる――」
レフィは首を横に振った。
「あんな男、殺す価値もない」
エルネストの遣いだとレフィを偽った男を許すつもりはなかったけれど、もう二度と会いたくないのが本音だ。
「優しいんだな、フィオは。私は、上半身簀巻きにして肉食魚の群れに落としてやろうかと思っていたのに」
「あんた、物騒なんだな……」
ローレルが言うままに想像してレフィは自分の身体を抱きしめた。暴力とは縁遠い生活をしていたせいかレフィはアルファであるローレルの強さに本能的な怯えもあった。特に目が見えなくなってから周囲の気配に敏感になって、レフィは何でもないことでも疲れてしまう。
「私を怖がらないで……」
魚の餌にしてやると言うような男が困ったように懇願するのがレフィには不思議だった。
身体を痛めつけ、恐怖で支配すればレフィは簡単にローレルのいいなりになるだろうことはレフィ自身でも想像がつくというのに。
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