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 淡い紅色の花が追い立てられるように風にとばされていくのを目の端に写し、エルネストは春の終わりを感じた。身体に纏わり付く花の匂いに血が昂ぶっていく。 「まるで啓示のようだ」  エルネストはひとりごち、ダフネ(沈丁花)の花を指先で折った。手のひらの中におさまるこじんまりしたブーケのような小さな花の集まりを胸のポケットに挿して視線を上げると、晴れ渡った夜の空に何年も見ていない緑の瞳の少年の笑顔を思い出す。 『エルネスト兄様、海へは僕が連れて行ってあげる』  庭に誘うような気軽さでエルネストに約束をくれたのは義理の弟のレフィだった。その瞳は明るかった。それが強がりだと、震えた唇で気づいた。母を失い、今この場所から去ることを知ったレフィが必死でエルネストを励まそうと言葉を紡ぐ。  ダフネの香りがエルネストを惑わせたのではない。ましてや運命などと言いたくなかった。エルネストが惹かれたのは、レフィの優しさや強さ真心といった内面のものだから。  離ればなれになって何年も姿すらみることができなかったレフィが隠されていた神殿から攫われ、ここに囚われたと知ってエルネストは覚悟を決めた。布石は打ってある。積み重ねた想いと努力はもはや疑いもなく今のためだ。  木々の隙間から瀟洒な屋敷を睨みつけたエルネストの中に迷いはなかった。  湖畔にある白い屋敷はアンヴィル伯爵の別邸であり、当主が趣味に興じる時に使われていると報告を受けていた。最初にレフィを攫った黒幕の屋敷から引きずられるようにしてそこに連れ込まれたと聞いた時、エルネストは身の内知らず育っている凶暴な獣の存在に気づいた。レフィに触れたもの、レフィに害をなすもの全てを喰らいつくし、骨のかけらすら残したくないと暴れだそうとするのを必死で堪えたのはダフネの香りを持つ少年の『僕、待ってるよ』という言葉を思い出したからだ。  真っ黒に染まった自分では、きっとレフィには似合わない。 「陛下、そろそろパーティが始まりそうです」  呼ばれたエルネストは、横目で隊長格の男を睥睨した。 「ナイゼル、陛下はやめろ。ここにいるのはフロレシア王国国王の命令を受けて来た騎士団暗部のローレルだ」 「実際のローレルはこんな美丈夫ではありませんし、その名を使うのは最後にしていただきたいです。はい、これで暗部らしく顔は隠しておいてください」  エルネストが渡された黒い布を広げてみると目の部分に穴があいている。ここに現れたとき、ナイゼルはすでに布で顔を隠していた。 「ローレルの名は便利だからな。知らない相手が噂で引いてくれる。しかし……目の部分だけあけた黒い布を巻くなんて、まるでこちらが悪者のようだぞ。普段はこんなものをつけていないだろう?」 「暗部は隠密行動が基本です。このように大人数で襲撃をかけたりしませんからね。全員を抹殺するわけにはいかないので……顔は隠さないと。暗部だとバレてしまうとこの後が面倒です。それに今夜は仮面パーティなのですから区別を付けないと混乱します。わかっているとは思いますが、……ローレルの名は劇薬です。薬にもなれば毒にもなる。相手は名を聞いて逃げるか、死に物狂いで向かってきますよ」  ナイゼルの呆れたような声に、エルネストは微かに笑った。 「この名を使うときは、私も相応の覚悟で行動している。安易に現場にでていないつもりだが」 「わかっていますが……、心配なのです。殿下にこんな仕事をさせて……」 「殿下も止めろ、もう元凶である王は死んだんだ」  ハッと目を瞬かせ、ナイゼルは頷いた。 「申し訳ございません。しかし、秘密裏に事を進めるためとはいえ暗部を使うとは思いませんでした」 「機動力、隠密力、それに口の堅さも暗部に勝るものはないだろう?」  元々国の裏側で国王の命令に従ってきた暗部だが、その内部は一員であるナイゼルですら把握していない。とはいえ王太子時代からエルネストの指示の元、少なくない任務をこなしてきた暗部にエルネストは絶大な信頼を置いている。 「騎士団の他の部署に睨まれそうですが」  ナイゼルの所属する近衛を含め、騎士団はエルネストに忠誠を誓っている。少しでもいいところを見せたくなるのは騎士の忠誠心によるものだ。主に認められ、栄誉を望むのは当然のこと。暗部はそれだけでは務まらない。ナイゼルもそうだが自分が曲げられない信念の元、エルネストに使われている。 「今回は失敗するわけにいかない。騎士団全ての人心掌握ができるならともかく、裏切りが出れば私は番を失い、ここは血の海になるだろう。オメガの人権を無理矢理認めさせたとはいえ、議会を抑えているのは騎士団だ。私が目を離した隙をつかれぬよう睨みはあちらに向けてもらうつもりだ。ナイゼル。指揮と口上は任せた」  騎士団には別の指示を与え、エルネスト自身は暗部としてここにいる。気づかれないようにと銀の髪の色粉で変装までして。  強い視線を建物に向けたエルネストに、ナイゼルは不安を隠さなかった。ナイゼルも大事な人はいる。それでも執着の度合いが違うのがひしひしと感じられた。運命の番とはそれほどまでに狂おしいものなのかと思うと、うらやましいような恐ろしいような気がした。 「オメガなのですよね。ローレル、わかっているとは思いますが、その場で犯したりしないでくださいよ」  酷い忠告に、さすがのエルネストも思わず目を見ひらいた。 「効力の強い抗性剤を飲んでいる。だが、運命の番は抗性剤の効きが悪いからな。本能に負けそうになったら、刺してでも止めろ」  エルネストは、ナイゼルの心配を杞憂だと言い切れる自信がなかった。 「あなたはオメガではないのですから、刺されれば死にますよ」 「オメガだって刺せば死ぬ。オメガの異常回復は発情もしくは出産の時だけだ」  エルネストは昔を思い出して苦い唾を飲み込んだ。 「でしたら頑張って自制してください。あなたを刺したら私達が反逆者として抹殺されますよ」  周りを囲んでいた暗部が神妙な顔で頷いた。 「できる限り抑えてみよう」  エルネストは気を引き締めて屋敷に視線を移した。その目には成功以外のカードは映っていなかった。
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