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まったく油断していた。
今週は抱えていたプロジェクトが山場だったこと、それでロクに休めず体調を崩しかけていたこと、昨日満月の日を確認したはずの新聞が実は一昨日のものだったこと、徹夜覚悟の仕事が思いの外早く一段落して気が緩んでいたこと…原因はいくつも思い付くが、全て後の祭り。
とっさにビルの陰に入り込み、コートの襟を立てて顔を隠す。0時を過ぎたととは言え、人通りも街明かりもまだまだ多い。
焦る心を置き去りに、身体の変化は止まらない。
血がたぎり、熱く燃えるような感覚。
身体が一回り大きくなり、スーツが苦しい。ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを3つ外す。その指にもさもさと毛が生えて爪が伸びていく。
スーツがストレッチ素材で良かった、とどこか冷静な頭で思う。破れでもしたらあまりに惜しい。
顔はすでに変形が終わり、鼻筋が伸びてヒゲが張り、犬歯が鋭さを増して口が裂ける。耳は尖ってやや上に。すっかり狼の顔だ。
俺、大神志郎は、現代に生きる狼男である。
マヌケなことに、明日だと思っていた満月をガッツリ見てしまい、帰宅途中に変身が始まってしまったのだった。
スラックスに太くなった手をどうにか突っ込んで尻尾の位置をどうにか調整する。結構痛いがここは街中。下半身露出の獣人なんて、格好の都市伝説になってしまう。それは避けたい。とにかく人目を避けて暗がりに逃げてうずくまる。
このまま夜明けまであと5時間ほどか。耐えられない時間じゃないが、できればどこかに隠れたい…。
「こんなことなら会社に泊まれば良かったな…。」
よりによって今日が満月だったとは。感覚で分からないとは、なんとも野性味のない狼だな。
「あっれ~?誰か、いますかぁ?」
不意に、声がかかる。ちょっと舌たらずな呂律の怪しい甘い女性の声。
「もしもぉーし?具合でも悪いですかぁ?」
明らかに素面ではない、酔っ払った声だ。
「い、いえ。だいじょぶ、です。」
何とか誤魔化せるだろうか?ちら、と顔を見てゾッとする。
「それはー、よかったですねぇ~♪あ、でもぉ、ここ、私んちの入り口なんで、ちょぉっと通っていいですかぁ?」
ふらりふらりとした足取りの女性が近づいてくる。彼女の顔は、よく見知った顔だった!
「げ、犬塚さん…?」
それは数時間前まで一緒に戦っていた、会社の同僚。俺より早く帰ったはずの彼女は独りで打ち上げでもしていたのだろう、スーツ姿のまま赤ら顔だ。
無言で、道を譲るよう脇に身を寄せる。冷や汗なんてかけないはずなのに背中に冷たいものを感じる。
この姿なら俺だとは気付かれないだろうが…どのみち人外の存在とバレて叫ばれたら終わる…。
「ありがとー♪ごめんなすって~」
とご機嫌に脇を通る犬塚さん。その鼻がスン、と鳴る。
「……わんちゃん?」
くる、とこっちを見られ、目が合う。臭いでバレた!?
「……やっぱり、わんちゃんだぁ♪」
でも酔っぱらってて助かったー!
「くぅーん…。」
それっぽく鳴いて誤魔化せるか??
「おっきいねぇ♪どーしたの?迷子?ウチ来る?」
わしゃわしゃと頭を撫で回しながら犬塚さんが言う。というか、すでに引き摺るように連れていこうとしている。
「野良犬に厳しい世の中だからね~♪明日からおうち探そうねー♪」
ネクタイをリードに見立てて引っ張る犬塚さん。力、強いな!?しかし、ここで騒いで他の人に来られたらマズイ…。
仕方なく、俺は犬のふりをして彼女に付いていくことにした。
「だいじょぶだいじょぶ♪ウチにもおっきい子いるからさ~」
犬塚さんだけがご機嫌だった。
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