5.幸せの記憶

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5.幸せの記憶

 テーブルの上で食器がカチャカチャと鳴る。向かいから、背中を丸め味噌汁をずずっと啜る音がする。好物を取り合いわっと声があがる。    もう食器同士が当たることはない。未だに啜る癖は治らない。リビングでつけっぱなしのテレビが鳴っている。    いつの間にか食卓は静かで、自分の声さえ思い出せない。   ◇   ◇   ◇    食器が触れあう音が好きだった。 みんな気持ちいいくらい食べてくれた。夫は新聞を読みながらの食事。そうとは言わないけれど、仕事の為だとわかっていたから火傷をしないよう気をつけて配膳した。あなたはそれに気付いて遠慮なく啜っていたわね。食べ盛りの兄弟は、食事の最中さえ競ってばかり。あっという間に空になるお皿に呆れたものだった。  子どもたちが独立して、これからは二人でゆっくり食事を楽しめると思っていた。「あれは控えて、これは食べちゃ駄目」なんて言われるようになるとはね。隙間のできたテーブルで、あなたが汁物を啜る音と会話の代わりにテレビの音が聞こえていた。  今はひとりきりの食卓でプラスチックの容器に入った食事をいただく。私の周りは静かだけれど、耳の奥ではいまも賑やかな音がしている。自分の声は忘れてしまったのに幸せが奏でる音は覚えている。                〈了〉  ⧿ * ⧿ * ⧿ * ⧿ * ⧿ * ⧿    冒頭部分は以前、家族の移り変わりを音で表そうと書いたものです。140マスにどんな言葉なら伝わるだろうと苦心しました。  転載にあたり、彼女の心のうちを覗いてみると幸せな記憶がありました。        
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