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長い黒髪を頭の高い所で結んでいたが、踊り手は男だった。それも女性のように、否、女性よりも美しい若い青年だった。だが男の顔には表情が無く、その瞳の奥に光も無かった。
彼は本当にあの踊り手だろうかと自分の目を疑ったが、ひらひらとした上から下まで白い衣装と、手に持った仮面は踊り手のそれに間違いない。何より、彼が仮面を外す瞬間を見てしまった。
踊り手を観る為に半年。SNSの目撃情報を頼りに追いかけて10度目の観覧が叶った後の事だ。いつものように踊り手は投げ銭を受け取り、その場を離れる観客が増えると、鈴を外し黒い外套を羽織って仮面を着けたまま逃げるようにその場を去った。
本音を言うとそれを追いかけて次はいつ何処で踊ってくれるのか、動画投稿やSNSの運用は無いのかなどと聞きたかったが、質の悪い観客にはなりたくないと思い耐えた。だがたまたま、本当に偶然人気の無い道に向かって走る踊り手を見つけ、そちらに足を運んだら仮面を外すところを見てしまった。
その瞬間の気分はと言えば、男子禁制の女の園をうっかり覗いてしまったかのようだったが、振り返った踊り手の空っぽの顔を見て浮かれた空気が音を立ててひび割れ、一気に血の気が引いた。
「無」だったのだ。まるで深い闇に囚われたかのように感情が見えない。分かりやすく言うなら、肖像画の顔の部分だけを入念に墨で塗り潰されたような不穏さを醸し出している。
言葉など必要無い程感情豊かに踊り、優雅なジェスチャーで挨拶をした踊り手を見ていたのだから、表との雰囲気の違いがここまで衝撃を引き出したのだろう。
踊り手は喜怒哀楽4つの面を用い、それに合わせて鈴と踊りを変える。ある日は喜びを、ある日は怒りを、ある日は悲しみを、ある日は楽しみを表して踊った。僕が初めて見たのは「楽」だったが、今まで見たのは「哀」が断トツで多い。その理由が、彼の素顔に隠されている気がした。
「あ、えっと……」
僕が何かを言おうとすると、彼は無言で僕から目を逸らしてそのまま静かに歩いて去っていく。
見てはいけないものを見た気持ちのまま残された僕の横を、冷たい風が責めるように吹き抜けた。
それでもやはり僕は踊り手の踊りを見続けた。大学の授業とアルバイト中以外は常に探し続け、リアルタイムの目撃情報があればその場に駆けつけた。既に終わってしまっている事も多かったが、辛うじて間に合う日もあった。運良くその日2度目のパフォーマンスを見られる時は両手を握りしめて喜んだ。
踊り手は何の予告も無く、都内何処にでも現れる。5分程度踊ってさっさと立ち去る日もあれば、仮面と鈴を変えて1時間以上踊る日もある。時間も場所も、全てが気まぐれのようだった。
彼の素顔とその気まぐれさがミステリアスなイメージを作り、踊りの美しさと合わさって僕を更に虜にした。「恋」なんて言葉では物足りない感情はきっと「崇拝」に近い。だが踊り手にも素顔の彼にももっと近付きたい、もっと知りたいと思ってしまう欲は、やはり俗世的な恋心だろうか。それとももっと下賤な感情だろうか。
SNSや動画投稿サイトには既に何本もの動画が上がっている。全て観客が撮影し投稿したものだ。それらはいつの間にかじわじわと再生数を伸ばし、それらから踊り手を知って目撃情報を頼りに観に来る人も増えている。
その事を本人が知っているのかは分からない。
13度目の観覧の時、いつもより多く投げ銭をした。
そして踊り手が走り去る時、初めて後を追った。だが想像以上に足が早く、その姿を見失ってしまう。息が切れて周囲を探す気力も無く、その日は諦めて帰路に着いた。
その日から、僕は何度も踊り手を追った。
初めて出逢ってから1年近く経つ頃、漸く再び彼の顔を見る事ができた。
「すみ、ません、ハァ……後、ゼィ……追ったり、ハァ……して」
彼は無表情で、膝に手を付いてゼイゼイと息を切らす僕を見下ろす。見下ろされている、と言うよりも見下されているようだ。まともに喋れない僕とは対象的に、彼は何度か深呼吸をするだけで息を整えた。
「あなたに、会いたくて……すみません。次、いつ何処で踊るかだけ教えていただけませんか?」
彼からの返事は無い。僕の行動が行動だけに期待はしていない。彼はやはり僕から顔を背けて立ち去った。
やってはいけないと分かっている事ほど手を出したくなるのも、もう少しで欲しいものに手が届きそうならば頑張って伸ばすのが人らしい心理だと思う。僕は何度も彼を追い続け、話し掛け続けた。自分が不味い事をしている自覚はある。そろそろストーカーとして通報されてもおかしくないのは分かっている。それでも、彼を追う事を辞められなかった。彼から「辞めろ」と言われれば辞めるかもしれないが、相変わらず何も言わないのをいい事に、僕はひたすら彼とのひと時を追い求めた。
彼の方も、僕を撒こうとはしていないように見えた。尤も、諦めただけとも言えるしその可能性は限りなく高い。彼はいつも人気の無い場所に向かって走る。そして周囲に僕以外がいない事を確認して仮面を外し、仮面と黒い外套を素早く鞄にしまって別の外套を羽織る。まるで簡易的な変装をして別人を装おうとしているみたいだった。
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