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 それから半年ほどの月日が流れたある春の日、吾輩の「夢」に現れた悪魔が我が家を訪ねてきた。  玄関の呼び鈴が押されたとき、吾輩はちょうど縁側の日向に寝転んで、庭で花開いた桜を愛でている最中であったから、住み込みの書生に来客の応対をさせた。食事の支度から室内の掃除、果ては庭の草むしりに至るまで吾輩の身の回りの世話は一通り彼に任せている。 「どちら様ですか?」  書生の無愛想な声が玄関から響いてくる。彼は極度の人嫌いであった。たとえ客人と雖も初対面の相手に対しては警戒心が先に立ってしまい、愛想良く接するということができない。 「初めまして、わたくし四月から新しく先生の担当をさせて頂くことになりました、出版社の者です。ご挨拶に伺いました」  どこかで聞き覚えのある声だと思い、吾輩は身を起こして玄関に行きかけたが、そのとき書生が客人を連れて座敷に入ってきた。吾輩は書生の後ろを歩いてきた男の顔を見るなり戦慄した。 「夢」で見た悪魔に他ならなかった。  だが、悪魔は倫敦の路地裏をうろついていたときのような山高帽に黒外套を身に着けてはおらず、今風の背広姿だった。さらに脚も蹄の生えた獣のそれではなく、ズボンに靴下を履いた人間の形をしていた。  ただの他人の空似かと胸を撫で下ろしたその時、悪魔が吾輩に向かって目配せした。忘れもしないあの氷のように冷たく光る瞳の片方を素早く瞬いて見せたのだ。  悪魔は座敷の畳の上に正座するなり手にしていた菓子折りを紙袋ごと座卓の上に丁寧に置いた。 「これは詰まらないモノですが……」  恐縮したように頭を下げて云う。  吾輩は床の間を背に座布団に腰を下ろすと、悪魔と差し向かいに座る書生を見遣った。無愛想な書生にしては珍しく愛想笑いなど浮かべている。やがてしびれを切らしたように書生が悪魔に向かって云った。 「あの……どこの出版社の方ですか? できれば名刺などを頂けますか?」 「ああ、これは失礼しました。わたくし、こういうものです」  そう云いながら悪魔は背広の上着の内ポケットから名刺入れを取り出すと、吾輩と書生に見せつけるように座卓の上に一枚の名刺を置いた。そこには出版社の名や肩書は一切記されておらず、ただ横に一行、漢字二文字で「悪魔」とだけ記されていた。 「これは……何かタチの悪い冗談ですか?」  書生は呆気にとられながらも不愉快さを露わにして云った。  吾輩は恐怖のあまり体が震えて声が出ない。あれはやはり夢などではなかったのだ。 「冗談などではありませんよ。わたくしは本物の、正真正銘の悪魔です。お近づきの印に今日はこうして日本の風習に則って手土産を持ってご挨拶に伺ったわけです」 「では、出版社の社員だというのは?」 「もちろん嘘です。そうでも云わなければあなたはわたくしを門前払いしたことでしょうから」 「君が本物の悪魔だとしよう。だが、その悪魔がこの家に何の用があるのだ?」  書生がなかなか毅然とした態度に出た。客との応対において人嫌いの無愛想が役に立つこともあるのだ。  ところが悪魔は怯むどころか口の端を上げてますます愉快そうに笑って云った。 「なあに、それほど大したことをしに来たわけではありません。あなたに一つ予言を差し上げようと思いましてね」 「予言? 何のことだ?」  書生が意外そうな顔をして悪魔を見る。 「あなたは近いうちに、わたくしと自身の魂を引き換えにする契約を結ぶことになります」 「魂を引き換えにする契約だと?」  悪魔は頷く。 「どんな願い事も一つだけ叶えて差し上げる代わりに、あなたの死後にその魂を頂く取り決めです」 「馬鹿馬鹿しい!」  書生は虚勢を張ってわざと大声で嘲った。  当然のことながら悪魔はそれを見抜いていた。 「そんなにわたくしのことを信用頂けないなら、一つ我が魔力を披露させて頂きましょう」  云うが早いか悪魔は書生の左右の耳をその細く長い指で素早く掴み、ぐいと引っ張った。 「痛っ! いきなり何をする!」 「これであなたは人間以外の禽獣の言葉を理解できるようになりました。嘘だとお思いなら、さっそくひとつ試してみてはどうですか?」  悪魔は縁側の軒下に吊るされていた鳥籠を指さした。そこには書生の可愛がっている黄色い金糸雀(カナリア)が入れられている。書生の愛情が伝わっているのか、彼が近づくと金糸雀は常に麗しい声で囀った。  悪魔に云われるままに書生が金糸雀の下に歩み寄った。彼の姿を認めると金糸雀が澄んだ愛くるしい鳴き声を上げた。その途端、書生の目に涙が溢れた。 「本当だ! 聞こえる! 鳥の言葉がわかるぞ!」  書生は叫び出さんばかりに喜んだ。そして今度は床の間に置いてあった金魚鉢に駆け寄り、これまた彼の愛玩動物である水の中でゆらゆらと尾鰭を振って泳ぐ赤い琉金へと耳を傾けた。 「何てことだ! やっぱり聞こえる! 金魚が人語を喋っている!」  書生が歓喜の表情を吾輩へと向けた。その様子に気味の悪さを感じた吾輩は素早く立ち上がると座敷から退散した。そして去り際に書生へ向かって「そのペテン師には早々にお引き取り願え!」と叫んだ。 「云われなくてもそろそろお暇しますよ。それではまた近いうちに」  そう云って徐に立ち上がり、恭しく首を垂れると、悪魔はすうっと透明になって跡形もなく消えてしまった。
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