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 書生は世に云うベストセラー作家であった。  文豪とどう違うのか外来語にも世事にも疎い吾輩にはいまいち分からぬ。書生が編集者との遣り取りで頻繁に漏らす自虐的な表現によれば、所謂「流行作家」のことであるらしい。流行とはその名の通り、時代の波間に浮いた泡のようなもので、瞬く間に消えゆくさだめにある物書きという意味であろう。  文豪である吾輩には無縁のことであるが、ベストセラー作家は金銭的に豊かな生活と社会的知名度を維持するために「売れる本」を矢継ぎ早に書かなくてはならない。  当然のことながら一人の人間の頭の中で考え出せる物語の数など高が知れており、やがてどんなに脳味噌を絞りに絞って天を仰いでも、書生の筆に創作の甘露は一滴たりとも落ちては来なくなった。  見る間にノイローゼ気味となり、書けない書けないと呻きながら虚ろな目で書斎と居間を行き来し、ネタ切れだ、もう何も思い浮かばないと泣き叫びながら言葉の通じるようになった金糸雀や金魚といった愛玩動物にまで創作の着想を訊ねる始末。  ついには一握りの誇りすらも失って、創作の師である吾輩の所にまで夜毎押しかけて、吾輩の好物などを持ってきて頻りに勧め、何か良いアイデアがないものかと泣きついた。  自慢ではないが、吾輩には物語の着想が百貨店の商品棚に並べて売れるほどあった。あまりに書生が泣き喚くので不憫に思え、吾輩はその着想の中からそれほど愛着の無いものを二つ三つくれてやった。書生は泣いて礼を言い、吾輩の手の甲に口付けまでした。  かくして吾輩の着想に基づく書生の小説が完成し、それは瞬く間に重版のかかるベストセラーとなった。あくまで作品は書生が独力で書き上げたということになっていたから、口外はできなかったものの、吾輩は自らの着想が高い評価を得て密かに鼻が高かった。  だが、人間というものの欲望には際限がない。吾輩が情けで与えた着想を使い果たすと、書生は次第に自身の頭で考えることを放棄して、もっとアイデアをよこせと吾輩にせがむようになった。  そこで吾輩もついに堪忍袋の緒が切れ、一つ懲らしめてやろうと考えた。  その仕置きとはつまり、書生がどんなに新たな作品の着想を求めて吾輩に話しかけてきても、彼の言葉が一切理解できないように振る舞うことであった。  この制裁は効果覿面で、書生は泡を食って、金糸雀や金魚とは話せても肝心の吾輩と言葉を交わすことがまったくできなくなった、これではもはや新作の着想への教示を仰げないと絶望した。  そしてとうとう書生は最後の手段だとばかりに悪魔に泣きついて、死後に己の魂をくれてやる代わりにどんな願いでも一つだけ成就させるという契約を交わした。悪魔の予言が見事に的中したわけである。  書生のその願いとは、吾輩の言葉が再び理解できるようにしてくれというものかと思いきや、吾輩と彼の心を入れ替えて欲しいというものであった。  そういうわけで、世間一般ではベストセラー作家と呼ばれている書生の姿となった吾輩はその名を借りて文机の原稿用紙の上ではなく前に座り、不慣れな万年筆など手にして日がな一日、小説をしたためている。  かつての吾輩の姿と化した書生が座敷の座布団の上で丸くなり、心地よさげに惰眠を貪る姿を目の当たりにする度に、吾輩はその黒猫に対し何とも言えぬ羨望と憤怒の念を禁じ得ないのであるが。  ともかくもそうして書き上げたのがこの短編である。始めのうち題名を『吾輩は文豪である』としていたが、流石に不遜に過ぎると自戒し、あらゆる虚飾を排して簡潔に『作家の黒猫』とした次第である。
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