海に沈んだ時計

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 ある夏の夕暮れに、その女はやってきた。 「この時計を……修理していただきたいのです」  作業台兼カウンターにしている机の差し向かいの椅子に音もなく腰を下ろすと、その女はやはり手持ちのバッグから滑るようにその懐中時計を取り出して私の目の前にそっと置いた。夜の闇よりも濃い黒髪をおかっぱにして、どことなく古風な空色のワンピースを着た美しい女だった。  年の頃は二十代半ばといったところだろうか。黒目がちの大きな瞳をさらに大きく見張り、白い頬をわずかに上気させて、その女は私をじっと見つめて囁くように訊ねた。 「何とか、直していただくことは、できませんか?」  私はそろそろ店を閉めようと思っていたから、道具類はすべて机の上から片づけてしまっていた。日の沈みかけた夕暮れ時にこの海沿いのしなびた町の片隅にある小さな時計店へ客が訪れたことは滅多になかった。  女のどこか思いつめたような真剣な眼差しに促されるように私は懐中時計を手に取った。窓からわずかに差し込む淡いオレンジ色の残照を受けて、その銀の蓋に刻まれたメデューサの頭部のレリーフが鈍い光を放った。  見る者を石に変えてしまうというその神話上の怪物の両目にはサファイアが輝いている。妖女の頭から生え、蓋一面を覆うようにうねる何匹もの蛇の体には実に精巧かつ繊細な鱗の彫刻が施されていた。  私は机の引き出しからルーペを取り出すと、その超絶的ともいえる技巧にしばし時を忘れて見入った。時計を裏返すと、そのケースの中央には飾り文字で「Verweile doch, du bist so schoen」と刻まれていた。 「時よ止まれ、お前は美しい」という意味のドイツ語で、ゲーテの戯曲『ファウスト』で主人公ファウストが悪魔メフィストフェレスとの契約の終わりに、この世の最高の悦楽を知った瞬間に口にする言葉だった。  遠くの森から流れてくるヒグラシの鳴き声が止むと、静かな室内に時計内部の駆動音がやけに鮮やかに響いた。「時よ止まれ」という願いに反して、この時計は休むことなく静かに時を刻み続けているらしい。一体どこをどう修理しろというのか疑問に感じながら、私は時計の蓋を開けてみた。  まず目についたのは蓋の裏の隅に三つほどこびりついた小さなフジツボだった。 「……三年前の夏に海辺で拾いました。私、この近くの小学校で教師をしておりまして。その課外授業で生徒たちと潮だまりの生き物を観察していた際に見つけたのです」  私の表情を窺っていたのであろう女は、訊ねられもしないのにどこか言い訳するような口調で言った。この店から海岸までは徒歩で十分とかからなかった。 「ということは、この時計の持ち主はあなたではない?」  女は静かに頷いた。 「では、これは拾得物にあたるわけですから、うちのような時計店ではなくまず交番に届けるべきでは……?」  女は何かを懇願するように私の目を見つめながら何度か頷いた。 「ええ、私もまずそう思って、近所の交番に届けました。でも、翌朝になるとなぜかその時計は私の机の上に戻ってきてしまうのです。最初は生徒たちの悪戯かと思ったのですが……私が寝ている間に誰かが家に侵入した形跡もありませんでした」  女が何を言っているのか即座に理解できなかったので、私は思わずポカンとして、彼女の顔を十数秒ばかり見つめてしまった。
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