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春の話
火曜日の昼下がり、五月初旬の空は筆で塗りつぶしたように青が広がっていた。燦燦と降り注ぐ柔らかな陽射しにささやかな風が、バルコニーに干した洗濯物を翻していく。続くリビングには揺らめく影が落とされ、如何にも穏やかな春の陽気であった。
天を貫く晴れた空の下、鳥は囀りを残してあちらこちらに広がっていく。深まる緑を追うように咲き乱れる花々が、灰色にくすんだコンクリートの上を飾り立てていた。出掛けるに相応しいような、歩く人々をまるで歓迎するかのような陽気に、木造の一軒家は甘い香りを振り撒いていた。
二階の南側、開け放たれた窓からは緩やかに風が舞い込んで、薄いレースカーテンを静かに揺らす。リビングでは洗濯物の影が見事な舞を披露している中、キッチンではパーマのあてられた髪の毛をバレッタで簡単に纏めた萌が忙しなく動き回っていた。
四人で朝食を囲んでいるときには出掛けようかな、などと話していたのに、開けた冷蔵庫の先で見つけたものに心を奪われ、一瞬後には期待に輝く瞳を海青へと向けていた。
「いい香りだねぇ、何作ってるの?」
萌はオーブンに何かを入れ込んだあとタイマーをセットし、ひと段落がついたのか流しの前で小さな体をぐんと天井に向けて伸ばしていく。それをリビングのソファに緩く腰を掛け、見るともなしにザッピングを繰り返していた櫟は横目で確かめ、漂ってくる甘い香りに鼻を鳴らした。
「冷蔵庫に苺が入ってるの見つけちゃったんです。海青さんに聞いたら使っていいよって言ってもらえたので、久し振りにタルト作っちゃいました」
スポンジを手に取った萌はくるりと振り返り、その頬は多幸感に満ち溢れて淡く赤く染まっていた。結構大きかったんだよ、と親指と人差し指で丸を作り、興奮気味に説明をする萌の姿に、櫟は甘い香りの中に瑞々しく弾ける酸味が紛れていることにようやく気が付いた。彼の前に置かれていた淹れ立てのブラックコーヒーが香りを塞き止めていた風にも見えるが、気が付かなかったのは単純に櫟が料理に疎いからだろう。
四人が暮らしているこの一軒家では、休日の午後をお菓子作りにあてている萌と、今はネクタイを締めて仕事に追われているだろう海青が料理を担当していた。綺麗好きの深月は掃除や片付けに回ることが多いのだが、ソファに寛ぐ櫟は持ち前の不器用さが邪魔をして、一切の家事には触れていない。
最年長である櫟は家事を負担していないことが申し訳ないのだと、引っ越してからのひと月ほどはよく手伝いに名乗りを上げていた。それでも海青の反対と、任せてくださいと胸を張る萌の姿に、櫟は渋々コーヒー係のみを請け負っていた。実際に櫟が洗い物をしようものなら家にある食器全てがゴミになるほど不器用であるのだが、見たことのない萌にはいまいち実感がない。だけれど、毎日のように美味いコーヒーにありつけているのだから、誰も文句は言わなかった。
流しには計量に使ったボウルと、粘り気のあるクリーム色の生地が淵にへばりついたままのボウルが一つずつ置かれていた。水の貼られた洗面器には菜箸とヘラが無造作に入り、揺らめく水面を白く濁している。
日頃から料理を熟し、キッチンも使い慣れている萌は作りながら片付ける、という同時進行が出来ないわけではない。けれど、お菓子作りの最中は焼き上げている間など、手の空いた時間に片付けることが多かった。
握ったスポンジに洗剤を染みこませながら、萌はオーブンでじぐじぐと焼かれているだろうスライスした苺に思いを馳せる。高校を卒業してすぐに実家を出た萌は、一人暮らしの期間が誰よりも長い。料理や洗濯など毎日に熟していく家事の多さには辟易としてはいたが、やらなければいけないことだと割り切って考えていた。
だけれど、折角の休日を半分も潰してまでお菓子作りに励むようになったのは、この家に引っ越してきてからだった。それまでは精々バレンタインの時期に義務として作る程度だったのに、あの頃の自分からは考えられない。
食べてくれる人がいるかいないかでここまで変わってしまうものなのだと、驚きと呆れと、それ以上の嬉しさや楽しさを萌は感じていた。いつも自分の作るお菓子を楽しみに待っていてくれて、緩む口角を隠すことなく頬張ってくれる深月を思い出して、吐息に笑みがふわりと混じる。
ふ、と微かに漏れ出た声に気が付いたのか、それともザッピングを繰り返した末に面白い番組が見つからなかったのか、櫟が空になったマグカップを片手にキッチンへとやってきた。
「タルトなんて、お店で買うものだとばかり思ってたよ」
在宅の仕事である櫟は誰よりも萌のお菓子作りを近くで眺めているのに、タルトが余程珍しかったのか、百八十を超える細長い体を器用に折り畳んでオーブンを覗き込む。
タルト生地の上にはカスタードクリームと手作りの苺ジャムが二層に流し込まれ、その上を薄くスライスされた苺が覆い被さるよう、満遍なく敷き詰められていた。焼き上がったあとに生の苺を載せたら完成するのだ、と座り込む櫟に教えてあげると、一回り年上の、おじさんと呼ばれて然るべき域に達した彼はへにゃり、と力なく眉尻を下げて笑った。
普段は見えない旋毛を見つめ、萌は何が楽しいのか、にこにこと頬を緩めたままオーブンを眺める櫟との初対面を思い出していた。
深月の紹介で初めて顔を合わせ、挨拶を交わしたときはもっと落ち着いた、大人びた姿勢を崩さない真面目な人なのだと思っていた。柔和さが押し出された表情のままじっとこちらを見つめてくる瞳には隙が無く、それでいて冷淡さを覚えることはない。
萌の周りにはいないような男性だった。彼の隣で深月と気安げに話している海青も営業職というだけあって、爽やかで優しい雰囲気の好青年として萌の瞳には映ったが、櫟はどこか世間ズレした危うさと、伏し目がちに微笑む目元の柔らかさが印象的だった。
これが酸いも甘いも経験した大人の魅力なのかもしれない。勝手に抱いた感想を胸に何度か食事をし、同じ屋根の元で寝起きするようになってからは随分と感想は変わってしまった。
知っている誰よりも大人びて見えた櫟の実際は不器用で、お喋り好きで、ひとつのことにばかり集中する。他愛のない雑談にも最後まで付き合ってくれるところは優しいのだが、結局互いに話す言葉はくだらない。子どもらしさの見え隠れする櫟を可愛らしく感じることが増えて、萌はどこか微笑ましさでいっぱいだった。
「お休みの特権。あったかいうちに食べましょ」
ボウルも菜箸もヘラも洗い終わった萌は濡れた指先を軽く拭い、オーブンの前に座り込んだまま立ち上がろうとしない櫟の隣にしゃがみ込む。身長差のある二人はしゃがんだ状態でも頭一つ分ほど凹凸が出来てしまい、必然的に覗き込むような上目遣いになってしまう。
にっこりと、悪戯が成功した子どものように無邪気さを滲ませた笑みに、櫟はひとつ、睫毛を震わせることで器用にも答えて見せた。大人であって、子どもでもある。自分と同じ視点にいてくれる櫟に、こういう仕草だけは少しだけ、おじさんみたいだ、と萌は心の内だけで笑ってみせた。
都内の外れに建てられたこの一軒家には、男女合わせて四人が暮らしている。
書道家として活動している小鳥遊櫟は三十七歳になる最年長であったが、穏やかな雰囲気とは裏腹によく喋り、よく笑う。ころころと変わっていく表情は他人に警戒心を抱かせなかったが、その実、彼自身は他人に欠片も興味を示していない。節の目立たない指に握られた筆の進む先と、苦みと酸味の溢れる香ばしさだけが、彼の全てだとも言えた。
会社勤めをしている藤代海青と深澤深月は揃って三十一歳の同期で、大学からの腐れ縁でもあった。営業部で走り回る海青と企画部に在籍する深月は部署こそ違うものの、互いに出世頭で、どちらが先に部長職へと昇進するのか、注目を浴びている。
藤代海青は如何せん、見た目も人当りも良かった。言葉数は少ないまでも冗談が通らないわけではなく、上司にも同期にも慕われ、部下からは羨望の眼差しを送られる。それを理解した上で行動を起こし、けれど決して隙は見せない。彼女の座を狙っている女性社員は両手の指でも足りぬほどであったが、そんなものは関係ないとばかりに、海青は誰にも靡かなかった。
その逆で、深澤深月は高根の花として扱われることが常であった。本人はそんなつもりもないのだろうが、オンオフの切り替えがしっかりとしているせいで周りが勝手に近寄りがたいのだと勘違いをする。憧れている人間はきっと多いのだが、眺めているだけで充分なのだと、誰もが憂いの溜息を吐いた。
同じ会社で働く海青はそれを知って内心で笑っているのだが、深月も仕返しのように、大学時代とは違って真面目に働いている海青を微笑ましく思っているのだからお互い様である。
最年少の蕪木萌は、今年でようやく二十五歳になる。年の離れた三人と生活を共にするせいで若さが目立つようにも思えるが、彼女も仕事を熟す立派な大人だ。美容師を目指して専門学校で勉学に励み、社会に飛び出して五年目ともなればスタイリストとして一人前だと認められるようにもなった。彼女の懸命な姿勢は誰もが知っているもので、彼女もまた、自身を卑下する様子はない。
それぞれに自立した大人で、それぞれに歩む人生をひっそりと、時に堂々と胸を張って生きていた。海青と深月が大学からの腐れ縁で、会社ですれ違えば挨拶をする。その程度の往来で、特別な接点など何も無いはずであった。だけれど、四人は出逢い、一軒の家を借りる、という話にまで進んでいったのは単純に、共犯者にも成り得る関係だったからだ。
櫟は海青と付き合っていて、萌は深月と付き合っている。男性同士で、女性同士の恋人関係だ。どれだけマイノリティへの理解が募ろうと、決してマジョリティへと変化することはない。
自分とは違うのだと否定する不明瞭な線引きは、けれどしっかりと視覚化されたものだ。薄めることも、消し去ることも出来やしない。線の向こうにいる誰かは悪で、より人数の多い場所こそが正義だと、当たり前の如く横行している。
同性で付き合っているというだけで、部屋を借りることさえもままならない。海青は櫟に内緒で一度だけ、全国展開をしている不動産で同性との同居を相談したこともあるが、寄る瀬もなく断られてしまっていた。付き合っているとも何も言っていないはずなのに、カウンターを隔てた向こう側のサラリーマンは眉根を寄せ、嫌悪感に塗れた瞳を隠そうともしなかった。
二人きりで部屋を借りるのはどうにも偏見が多く、言い訳のしようもない。だけれど、ある程度大人になった男女四人での同居は、周りが勝手に勘違いをして、都合の良いように解釈を繰り広げて、大丈夫ですよ、と笑顔で案内をしてくれた。その手軽さを利用して、彼らはこの一軒家を契約することにしたのだ。
最初に同居とも、同棲とも判別のつかない提案をしたのは深月だった。恋人と暮らしたいけれど、理由を尋ねられるとどう説明すればいいのかが分からない。午後八時の大衆居酒屋は金曜日だということもあり、すぐ隣の会話も聞こえない程に混み合っている。疲れと焦燥を多分に含んで漏らした溜息は、彼女に真っ直ぐ目を向けた海青にしか気付けない。掴んだ電子煙草を吸うこともせずにじっと話を聞いていた海青の脳裏には、淋しそうに笑う櫟の姿が浮かんでいた。
だったら俺たちと一緒に暮らさないか。そう切り出した海青も、それに二つ返事で頷いた深月も、充分過ぎるほどに酔っていた。アルコールが細部にまで行き渡った頭では最良の選択としか思えなくて、夜を明かして冷静になった思考でも否定は出来なかった。他人と同じ空間であったとしても、地団駄を踏んできた未来が手に入るかもしれない。我慢をしなくても恋人の寝顔が見られるかもしれない可能性に、二人はすぐに恋人へと相談し、ひと月後にはこの木造物件が選ばれていた。
「恋人と一緒に暮らします」
契約時に告げた理由は、何ひとつ間違ってなどいない。四人ともきちんと事実を述べていて、嘘も間違いも含まれてはいない。それでも、紹介してくれた不動産の男性も、大家である年配のご夫婦も、正しくは受け取っていない。
さらりと流れていった言葉と、生温い視線に悔やむことも、残念に思うこともしない。それが真っ当な反応で、何も言わないことが正しい対処であるのだ。当たり前に目を背けることは、大人になるにつれて上手くなった。
そうして酔っぱらいの戯言から始まった奇妙な同居生活は、この春で丁度一年を迎えていた。
「余ったタルト生地でクッキー作ろうと思ってるんですけど、教室の子どもたちに配りますか?」
「いいの? きっと喜ぶよ」
じっと座り込んで足が痛くなったのか、膝を伸ばして立ち上がった萌がタイマーの残り時間を確認する。オーブンを開けるまではまだ三十分も残っていたが、片付けはもう済ませてしまった。中途半端に余らせてしまった生地がキッチン台の上で転がっている。萌は残された時間と材料を結び付け、思い浮かんだ提案をひとつ、櫟へと投げかけた。
書道家である櫟の活動は主に展覧会への出品や個展の開催ではあったが、近所の子どもたちを対象とした書道教室を開いていた。元々客間にしようと考えていた一階の和室を使って行われているそれは、火曜日と水曜日の二回に分けられている。
火曜日が勤め先の定休日である萌は気まぐれに顔を出し、小学生に混じって櫟に筆の扱い方を習っていた。素直で純粋な子どもたちは先生よりも随分と年下の萌が座っていても気にすることはなく、当たり前のように笑い掛けてくれることにひどく安心した。
懐いてくれる子どもたちの顔を思い出して、無垢な少年少女たちならきっと喜んでくれるだろう、とクッキー用の型抜きを探す。たまに余ったお菓子を櫟に預けてはいたが、反応を見たことはない。喜んでくれるといい、そう願いを込めて萌はビニール袋へと雑多に入れられた型抜きから、ハートや星の形を選んでいく。集め出したらキリがないと分かってはいるのに、新しいものを見つけるとついつい買ってしまうため、がちゃりと擦れて鳴る音は大きい。
座り込んだままの櫟は萌の提案に嬉しそうに頬を緩ませて、それからすぐに「あ」と目も口も真ん丸に開けて見せた。困ったように下げられた眉尻がなんとも情けなく、萌はぱちりと、睫毛を震わせた。
「でも、明日の子が嫉妬するかなぁ」
萌ちゃんのお菓子は人気だから。そう続けられた言葉に、萌は嬉しさばかりを詰め込んで頬を赤く染め上げた。仕事のある水曜日に通う子どもたちに会ったことはなかったが、彼らも存分に喜んでくれているのなら良かった。気紛れに作られる萌のおやつはいつだって人気なのだと、櫟からはよく褒められていた。
櫟の下がった眉尻に萌はにっこりと口角を上げて笑いかけるだけで、特に何か言葉を返すことはしなかった。雑談の一つでしかないことは二人とも分かっていて、櫟も本当に困っているわけではない。現に櫟の視線はすでにオーブンの中へと戻されていて、何が楽しいのか、ふつりと色を変えていく苺を見守っている。自分よりもお菓子の方が人気だと笑われたとして、子どもが食い気に走ることなんて、その過程を経て大人になった二人には分かりきっていることだった。
そう思って、萌はがちゃがちゃとビニール袋の中身を弄っている手を止め、最後のひとつ、と丸く尖った角へと指先を引っ掛ける。今日の萌に選ばれたのはハートと星と、ネコとチューリップだった。手のひらいっぱいに広がるそれらは大きくて、一番年下の小さな子でも持ちやすいように、と気にして選んだ結果だ。
キッチン台の上にラップを敷いて、その上に軽く薄力粉を振り散らす。下準備を整えてから丸めて包んであった生地を平らに伸ばしていき、月を眺めるように横顔を上向きにしたネコの型抜きを手に取った。
ざくりと、銀色に光る型抜きを薄く伸ばした生地に押し当てて、ラップに届いたのを確認してから左右に少しだけ揺すってやる。そうしてやらないと柔らかな生地は綺麗に切られてはくれなくて、折角のネコの形がでろりと縦に横に流れてしまう。
一つ、二つ、とネコの数を増やしていき、五つになったところで押し切れる場所がなくなった。穴だらけになった生地を丸めていく。今度はどの型抜きを使おうか、と迷っていると、リビングに備え付けらえたモニターからピンポーン、と間延びした音が鳴り響いてきた。
まだ太陽の位置も真上に近く、書道教室を開く時間には早い。遠慮を知らない子どもたちはチャイムを鳴らすようなことはしないし、回覧板を持ってきた近所の住民も直接二階に呼び掛けることが多い。わざわざ鳴らしてくるような業者の訪問も予定にはなくて、馴染みのない音は余韻を残して消えていく。
久しく聞いていなかった音に、萌と櫟は思わずと言った表情で顔を見合わせる。櫟の仕事相手だったのならば先に連絡が入っているはずで、その櫟がこの表情とは。訪問販売や宗教勧誘の可能性もあるだろう。キッチンからはモニターに誰が映っているのかまでは分からず、心当たりの無さに揃って首を傾げた。
櫟は面倒臭そうに眉根を寄せて、座り込んでいたオーブンの前からようやく腰を上げた。自分が出る、と片手を上げるだけで動こうとした萌を制してしまい、普段はゆったりと歩くくせに、急ぐように前へ前へと足を繰り出していく。
萌自身にも尋ねてくるような知り合いは思い当たらない。ここの住所を知っているのは職場の人間だけで、上司が碌にアポも取らずに押しかけてくるとは考えにくい。自分には関係無いだろうと櫟の制止に甘え、次はこれにしようと、チューリップの型抜きを手に取った。
「はい、どちら様でしょうか」
『突然すみません、蕪木と申します。ここに蕪木萌はいますでしょうか?』
ざくり、と押し当てたチューリップはぐにゃりと左に曲がってしまった。三本あった角は一本が消え、真ん中に生える一本も半分ほどが潰れてしまう。チューリップとも、ハートとも言えない歪な形に、萌は残念がる声を漏らすことはしなかった。
型抜きの淵にへばりついてしまった生地を丁寧に剥がし、歪んだチューリップはぐりぐりと指の腹で押して、どうにか形を整えようと躍起になる。無駄な足掻きなのだと分かっているのに、指先に籠る力は一層強くなるばかりだ。
「え、っと、」
「蕪木萌はいません」
穏やかだった風が強く吹いて、バルコニーでは洗濯物が苦しそうに甲高い悲鳴を上げる。レースカーテンが揺らめいて、遠くの方では救急車のサイレン音が幾層にも重なっていく。遠くに、近くに動いていく音が響いて、どうか間に合いますように、と、萌は運ばれているだろう他人の運命を祈った。
部屋にいる櫟にだけ聞こえるように溢された声は、萌の発したものなのかと迷ってしまうくらいに低く、硬く形を変えていた。歪んでいたチューリップはとうとう角を失くしてしまって、なのに諦めることも出来ずに指の腹で押し潰していく。
一回り年上の相手にも堂々とした姿勢を崩さない萌からは想像も出来ないほどの動揺を見せていて、モニターの前で戸惑いに焦る櫟の様子にも気が付いていなかった。
中途半端に萌の方へと振り向いた姿勢で、櫟はどうしたものか、と思案する。型を抜いているのか、生地を成形しているのか、俯いてしまっては緩く波打つ髪の毛が邪魔をして、櫟からは萌がどんな顔をしているのかが窺えない。
モニターに映る男女二人組は、一見すると海青や深月と同じ年頃のようだった。服装までは分からないが、平日の昼間に尋ねてくるとは、もしかしたら大学生くらいなのかもしれない。そうは思うものの、名乗った蕪木という苗字に嫌な予感が櫟の背中をゆっくりと伝っていく。
櫟本人も珍しい苗字ではあるが、萌のそれも自分と同じくらい珍しいものだ。たまたま同じ苗字であった、とは考えにくいし、何よりも彼らは萌の名前を示した。俯いた彼女の様子からして、知り合いであるのだろう。
ざくり、ざくり。ただ生地を押し切っている音は、碌に型抜きが出来ていない証拠でもあった。肩の辺りで跳ね返った髪の毛が揺れて、噛み締めた唇が赤く色を変えていく。前髪の隙間から僅かに覗いた目元には隠しきれない動揺と、誰に対してなのか、僅かばかりの嫌悪の念が浮かべられていた。
櫟はモニターに映る二人と、俯いたまま生地を押し潰していく萌を見比べて、少しお待ちください、と声を掛けてモニターを消してしまう。その瞳にはもう戸惑いも、迷いも見られない。階段を降りていく音を耳にしてやっと、萌は俯かせていた顔を上げた。
自分の所在を訊ねる声には、嫌というほどの聞き覚えがあった。わざわざモニターの映像を確認しなくても誰がやって来たのか分かってしまう。だけれど、ここで聞いてしまっていい声ではない。あの日、あの場所に置き去りにされて、もう二度と聞くことになるとは思ってもいなかった。
捨てたのは向こうで、萌は諦めるしかなかった。決別した感情は、掘り起こしたいものではない。
櫟のものではない足音が、階段を一歩、また一歩と上ぼってくる。萌や深月の女性二人よりもずっと線の細い櫟の足音は、生きているのかと心配になるほどに薄く、ささやかだ。海青は足が長く、一歩が大きいため音の感覚は広い。こんなにも自己主張が激しく、切羽詰まったような足音は、この家で暮らす誰にも当てはまらない。
「萌ちゃん」
気遣うような優しい声に、ぼんやりと宙をなぞらえていた視線が扉の方へと向かっていく。窺うような櫟の目は穏やかに細められていて、萌はまた強く唇を噛み締めた。何でもない風を装ってくれてはいるが、きっと心配を掛けてしまっている。そっと向けられる視線に上手い言い訳を返すことも、気にするなと笑みを浮かべることも出来なかった。
リビングへと三歩ほど進んだ櫟とは対称的に、今更入ってくることを躊躇っているのか、光の届かない廊下では海青や深月よりも少しだけ年下で、萌よりもいくつか年上の男女がぽつんと立ち尽くしていた。
安っぽいスーツをだらしなく着崩している男性と、若草色の薄いジャケットにプリーツ仕様のロングスカートを合わせている女性は表情の作りこそ違っているものの、纏っている雰囲気はどこか似通って見える。
「萌、お前、なんでこんな、」
「こんなって何? 文句言いに来たんだったら帰って」
戸惑いを込めて漏らされた男性の声に被さったのは、萌の閉ざされた声だった。絞り出された声色には言葉と同じような強さはなく、どこまでも硬く、なんの感情も宿されてはいない。淡々と告げられた声に違和感を覚えた櫟は眉根を寄せて、驚き戸惑った二人の訪問者は次の言葉を続けられなかった。
ざくり、とまたひとつ、歪に押し固められたチューリップが完成する。三本の角は全てが曲がり、それはあたかも萎れてしまったかのようにも見える。角とも言えない丸みを爪先で押し潰したが、今度は生地として丸め直す気にもならなかった。
萌はひたすらに自分の心が、感情が、思考が凍り付いていくのを実感していた。櫟の気遣わし気な視線に上手く笑って答えられるような状況にはなくて、じっとりと嫌な汗が滲んでくる。
背中を伝っていく冷たい汗が気持ち悪くて、今すぐにでもお風呂に駆け込みたい。さっきの救急車は間に合ったのだろうか。場違いにもそんなことばかりを考えて、散っていく思考を繋ぎ止めるためにひとつ、大きく息を吐き出した。
「お兄ちゃんも、お姉ちゃんも。なんでここが分かったの」
高校を卒業してすぐに実家を出た萌は、初めての住居こそ家族に知られてはいたものの、ここに引っ越してきたことは誰にも伝えていない。流石に職場には転居届を提出してはいたが、一人暮らしを始めてから一度も会っていない二人の兄姉には知られていないはずだ。それなのに、どうしてここが分かったのか。
胡乱な視線を真っ直ぐに向けられた二人は、それだけで萌の言わんとしていることを汲み取ったのか、静かに息を吐き出した。諦めたような呆れたような、複雑に絡み合った溜息はどこまでも重く伸びていき、風に攫われていったところですみません、と櫟に声を掛けた。
「前の家に行ってみたけどいなかったから、美容室に行って聞いたの」
姉と呼ばれた女性は身長が高く、櫟と並んでも頭半分ほどしか変わらない。すっと伸びた背筋と赤く彩られた口元は彼女の自信が表れているようで、萌よりも深月の方がタイプとしては似ているように見えた。上を向いた睫毛をぱちりと鳴らして、少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げているのが随分と様になっている。
兄だという男性も、萌とは少しも似ていない。櫟よりも身長の高い海青と変わらないのではないだろうか。高身長で、鍛えられた筋肉はジャケットを脱いだおかげでよく分かる。整えられた眉毛はそれでも太く凛々しくて、好青年の言葉を背負っているような男だった。
二人の異分子と、明らかに不機嫌を隠そうともしない萌と。そんな三人に囲まれるような場所に立っている櫟はふむ、と顎に手を当てて、少しの逡巡のあとに取り敢えずは、と二人にソファを勧めた。落ち着き払った櫟の声は張り詰めた空気の中を縫うように進んで、毒気を抜かれたのか、二人は戸惑いながらも大人しくソファへと足を向けた。
「櫟さん、ごめんなさい」
「ん? あぁ、大丈夫だよ」
キッチンに入った櫟は電子ケトルを手に、不安げな表情を浮かべる萌に向かって柔らかく微笑んでやる。お湯を沸かすやかんはシンクの下でフライパンや鍋と一緒に収められてはいたが、櫟は絶対にそれは使ってやるな、と海青から強く言い聞かされていた。代わりに与えられたのは電子ケトルで、家事の出来ない櫟は文句の言いようもない。
じゃばじゃばとケトルの底を勢いよく打ち付ける音に、萌はそっと吐き出した息を潜めていく。一回り上の櫟は萌にとって良き相談相手として頼れる存在ではあったが、家族の事情を開けっぴろげに打ち明けることは出来ない。
それに、櫟が興味を示すのは海青にだけだと知っている。内と外とがはっきりとしている櫟は、例え一緒に住んでいたとしても深月や萌を他人だと割り切っている。仕事の愚痴にはしっかりとアドバイスを添えてくれる優しさはあるが、だからと言って今回は違うだろう。
「コーヒー淹れるけど、あの二人はブラックでいいの?」
何気なく放たれた疑問に、萌は答える正解を持っていなかった。まだ互いに実家で暮らしているときはコーヒーを飲むような習慣がなく、二人が何を飲んでいたのか、それさえも記憶から消え去っている。
吐き出すはずだった息を詰まらせる萌に苦笑を漏らし、ペーパーの端を折り畳んでいた櫟はリビングへと足を向ける。その背中に突き刺さる萌の視線は櫟の薄っぺらい体を擦り抜けていくだけで、彼の足を止めることは出来なかった。
角の曲がったチューリップが三本咲いた生地は丸めて、キッチン台に敷いてあるラップに包んでしまう。櫟が何を思って二人を家に上げたのか、にこやかに二人と話す後ろ姿からは想像することも出来やしない。教えてもくれないだろう。兄姉を追い出すにしても、訪ねてきた理由を問いかけるにしても、クッキーを作りながらではきっと話せはしない。
タルトが焼き上がるまでには、まだニ十分以上を残していた。焼き上がるまでに話が終わってくれればいいが、そんなのは結局のところ希望的観測でしかない。身内に感じるにしては大きすぎる面倒臭さに、萌は綺麗に切り抜いて置いていたネコの一つに爪痕をつける。クリーム色のネコなんていないのに、プレーンのクッキーは当たり前に存在している。それがなんとも羨ましく感じられた。
「二人ともブラックでいいみたい。萌ちゃんは?」
「……、いつもと一緒で」
萌はブラックコーヒーが苦手だった。櫟の淹れてくれるコーヒーが美味しいものであるとは分かっているものの、どうしてもコーヒー独特の苦みも、舌を打つ酸味も、好きにはなれずにいた。毎朝のコーヒーには半分の割合で牛乳を足し続けていたのだが、わざわざ確認してきた櫟に苦笑が漏れる。そんなにも自分は酷い顔をしているのだろうかと頬を触って、ぬるつく指先に手を洗っていないことを思い出す。
美容師である萌の指先はいつだって荒れていて、ハンドクリームが手放せない。料理のときはいつもビニール手袋をはめていたが、お菓子作りのときだけは外していた。さっきまでバターの塗り込められた生地を触っていたというのに、忘れてしまっていたことに呆れてしまう。
突然の兄姉の襲来にどこまでも驚き、動揺している自分に、萌はまた一つ溜息を吐き出した。週に一度しかないせっかくの休みが、こんなことで潰されるとは思ってもいなかった。
「はい、出来たよ」
櫟が手早く淹れてくれたコーヒーは三つで、内二つは初めて見るカップに並々と注がれていた。揃いのソーサーは真新しくて、それだけこの家には誰もやって来ないことが窺える。四人で暮らすこの家を訪ねてくる人は、櫟の仕事に関するものだけだったのだ。
「櫟さんの、分は」
「俺は部外者だからね。一階にいるから、お代わりが必要だったら呼んで」
細められる瞳に、萌の胸には不安だけが広がっていく。櫟がこの場にいてくれると思ってはいなかったが、淡い期待は颯爽と消えていく。七年振りに会う家族とまともに話せる自信なんて欠片もなかった萌は、第三者に近くにいてほしかった。ダイニングでもキッチンでも、視線の交わる場所に櫟がいてくれたらどれだけ心強いだろうかと、向ける瞳には迷いが混じっていく。
だけれどやはりと言うべきか、櫟は萌の浮かべる逃げを許さず、お盆に乗せられたコーヒーをそっと渡される。萌にはそれを断るだけの理由はなく、留まってほしいと声に乗せることも許されない。
去っていく櫟の背中を見送って、タイマーがあと二十三分を残していることも確認して、ようやくリビングへと向かった。薄手のパーカーにはうっすらと汗が滲んでいて、やっぱり早くお風呂に入りたいと思った。
「櫟さんのコーヒー、美味しいから」
足の短いリビングのテーブルにはコーヒーが三つ置かれただけで、他には何も乗っていない。几帳面な深月が掃除の担当になってからはリモコンも全て定位置が決められて、テレビの横に立てられている。ソファの上に放置してしまうのは意外にも海青が一番多くて、よく深月の窘める声が橙色の照明の下を飛び回っている。
テレビはいつの間にか消されていた。気を遣った櫟が消していってくれたのだろうが、開け放った窓からは微かなエンジン音しか聞こえなくて、些か気まずさが勝ってしまう。テレビを点けるべきか、それともさっさと帰ってもらうために消したままにしておくべきか。一人用のソファに腰を落ち着けた萌は少しだけ迷って、結局点けることはしなかった。
「萌、あの人は?」
「櫟さんはただの同居人。私の恋人は深月ちゃんだから」
年齢の読めない風貌をしている櫟のことをどう思ったのか、兄は心配そうな表情を崩すこともなく聞いてくる。その視線が不躾であるとは微塵も思っていなくて、それが余計に萌の心に突き刺さった。
恋愛対象は同性にあるのだと、萌は高校を卒業したその日に伝えていた。だからこそ、実家を出てから一度も帰っていない。いや、帰れなくなったのだ。帰ってくるな、お前はもう蕪木の人間じゃない。厳格だけれど物静かで滅多に怒ることをしなかった父親の荒ぶった声は、今でも薄れることなく耳の奥底で眠っている。
兄姉は、萌が幸せならそれいいのだと、言ってくれていたはずだ。誰を好きになってもいい、萌自身の気持ちを優先したらいい。父親の言葉に泣き崩れ、部屋に閉じこもった萌の背中をさすってくれたのは姉で、柔らかく微笑んだ兄は温かく甘いココアを淹れてくれた。
それでも、実家を飛び出してからは疎遠になってしまった。居た堪れなさに連絡の取れない萌と、一切連絡を寄越してこなかった兄姉と。庇ってくれた優しい兄姉も、自分のことを間違っているのだと思っているのだろう。確証のない思いは想像の枠に収まっていたが、それでも萌のまだ幼い心を潰すには充分だった。
「みつき、ちゃん……」
呆然と繰り返される名前に、萌はそっと眉根を寄せた。同性なのだからちゃん付けで呼んでも不思議なことなんてないのに、深月の名前をただ舌の上で転がす姉の顔には戸惑いばかりが浮かんでいる。
思わず飛び出しかけた舌打ちを飲み込んで、二人は何をしに来たのだろうかと考える。電話やメールでもなく、わざわざ職場まで出向いて住居を訪ねてくるだけの理由なんて、もしかしたらどちらかが結婚でもするのだろうか。そんな考えに萌は一人で首を振って否定する。それこそ、電話で事足りるではないか。
「何の用?」
吐き出された声はやっぱり硬く、冷えた心はいつまで経っても解れることをしてくれない。ずっと忘れていられたのに、怒鳴る父親の声が、すすり泣く母親の声が、ふつりふつりと鼓膜を揺らしていく。風に煽られる洗濯物の音も、揺れるカーテンの衣擦れも、今の萌には届かなかった。
誰も言葉を続けようとしないのは久し振りの顔合わせに緊張しているのか、それとも次の言葉を探しているのか、ぎこちない空気だけが渦を巻く。落ち着かせるように櫟の淹れてくれたコーヒーに口を付けた兄は、驚いたように目を見張った後、零れるように美味しい、と櫟への賛辞を述べた。
「実家に、寄ってくれないか」
舌を濡らす独特の苦みに勢いがついたのか、兄はカップをテーブルに置いてから真っ直ぐに萌へと向き直った。姉の両手にはいつの間にかマグカップが握り締められていて、だけれど視線は遮られることもなく、一途なまでに向けられる。
低く、落ち着いた兄の言葉は最初、何を言っているのか理解が出来なかった。言語としては認識されているはずなのに、脳を揺らしているのは兄が喋っているという事実それだけで、内包される意味にまでは到達しない。それほどまでに、告げられるとは思っていなかった言葉だった。
「ちょ、っと、待って。冗談、じゃ、ないよね? 何言ってるの?」
一筋、背中を伝っていく汗が冷たいのか、それとも熱を帯びているのか、困惑に留まった萌には判別がつかなかった。流れ伝っていく感覚が気持ち悪くて、だけれど今はそれを気にしている余裕さえない。静かに渡された兄の言葉が、少しずつ萌の思考を埋め尽くしていく。
人は驚き過ぎると笑いを漏らしてしまうのだろうか。萌の引き攣った口角を確かめて、姉は指先が白くなるまで握り込んでいたカップをようやく机に戻す。萌の困惑と動揺を目にして二の句が続かないのか、固まってしまった兄の言葉を引き継いで、姉は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
「言葉の通り。お母さんの体調がずっと悪いの、顔だけでも見せてあげてほしい」
二人の兄姉は明るく、ふざけ合うこともよくあったが、こういった性質の悪い冗談はひとつも言わない人だった。エイプリルフールだって悲しい嘘は駄目だ、とまるで子どものような中身のないことばかりを言い合って、両親のことを冗談に引き出すようなことはしない。
だからこそ、告げられた言葉が冗談でも誇張でも何でもなく、本当のことなのだと分かってしまう。実家を出るときに見た母親の姿は、泣き過ぎて目元が真っ赤に腫れ上がっていた。いつも優しくて、笑ってばかりいた母親の泣いている姿を見たのは、あのときが初めてだった。
遠くで、救急車のサイレンが鳴り響いている。空気を切り裂いていくかのような高音は耳に痛く、乗っているのは知らない誰かだと分かっているのに、まるで母親が運ばれているかのような錯覚を起こしてしまう。
「イチイさん、だっけか。あの人とどういう関係なのか知らねぇけど、協力してもらってさ。母さんのこと安心させてあげろよ」
父親の怒鳴る声と、母親の泣き腫らした目元の赤と、救急車のサイレンと。混じり合っていく過去と現実に冷や汗は止まらない。じっとりと汗ばんだ手のひらを握り込んで、七年前に飛び出してきた実家を思う。もう二度と帰ることはないと思っていたのに、それがまさかこんなにも早く思い悩むことになるなんて。
濁っていく思考に割って入ってきたのは、あっけらかんとした兄の声だった。さっきまで押し込んだような静けさを湛えていたのに、何を吹っ切ってしまったのか、浮かべる表情さえすっきりとしている。
なんてことのないように吐き出された言葉に、萌はただ目も口もあんぐりと丸く開いていくしか出来ない。
「協力、って」
「あの人に彼氏の振りしてもらえってこと。ちょっと年は離れてるみたいだけど、愛想はいいみたいだし、親父も納得すんだろ」
彼氏の、振り。咀嚼するように口の中だけで繰り返して、喉を滑っていく言葉に何を言われたのか、ぐるりと回った脳内に目の前が赤く、白く染まっていく。唇はふるりと慄いているのに、そこから意味のある音が飛び出していくことはない。
萌ははっきりと付き合っている人がいると、櫟はただの同居人であるのだと、一番初めに伝えているはずだ。深月ちゃん、と姉の舌に転がされた名前は宙に浮かんで消えてしまったけれど、それでもきちんと届いているのだと思っていた。
それなのに、妹を追い出した両親を安心させるために深月を捨て、関係のない櫟に彼氏の振りをしてもらえ、と宣ったのだ。同性愛者は異端なのだと、認めようとしない自分たちの意見を押し通すために、会ったこともない深月を否定し、男性であるというだけで櫟を選べと、二人は言っているのだ。
「ふざけないで!誰がそんな、そんな……!」
自分の大切な恋人を、穏やかな毎日を共有している同居人を否定されて、萌の心はぐちゃぐちゃだった。確かに姉は自分の背中をさすってくれたのに、兄は温かなココアを溢さないよう大きな両手で包み込んで渡してくれたのに。あの小さく閉ざされた世界では味方だと思っていた二人も実は、両親と変わらず萌を異端者扱いする存在でしかなかった。
怒りと悲しみばかりが荒れ狂う心に従って、萌は立ち上がっていた。勢いをつけたせいでソファは後ろに押され、膝に届く程度の低い机はがたりと抗議の音を鳴らす。幸いにも櫟の淹れたコーヒーは零れることはなく、だけれど焦げ茶に沈んだ水面には波紋が広がっていく。
「帰って、早く、帰って!」
引き攣れた声はひび割れて、力尽きてしまったのか最後は薄く掠れていた。見上げてくる二対の瞳には萌を責め立てるような色さえ浮かんでいて、萌は二人を見返すことも出来なくなる。
「……また、連絡するね」
そっと掛けられた声には心配するような色が含められてはいたけれど、先の言葉を訂正するような気配はない。自分たちの発言がどれだけ失礼なものであるのかを理解していない二人に、萌が向ける言葉はもう何もなかった。
今日はどんなおやつを作るの、と。数時間前に見送った恋人の期待に染まった瞳を思い出して、萌の視線はどんどんと落ちていく。タルトがいいとリクエストを寄越したのは深月で、オーブンの中には深月に喜んでもらうために頑張って生地を、カスタードクリームを練ったタルトが焼かれている。
横をすり抜けていく兄姉は萌に別れの言葉を向けることも、謝ってくることもしない。窓から吹き込んでくる風に乗って、嗅ぎ慣れない香りがして、それが兄のつける香水なのだと気が付いたのは、玄関の閉まる音がリビングにまで届いてからだった。
高校を卒業して美容専門学校に進学した萌は、三月から既に一人暮らしを始めていた。母親と姉に付き添ってもらって決めたワンルームの部屋は高三の夏に契約していて、未成年の時分では名義を変えることさえ出来なかった。
二度と帰ってくるな、と実家を追い出された萌にはベッドとテレビしかないワンルームが唯一の帰る場所となっていて、だけれど自分が可笑しいのだと、間違っているのだと思うとそれも仕方が無いのだと諦められた。それでも、兄姉は味方になってくれる、自分のままでいいのだと肯定してくれる。鳴らないスマートフォンを握り締めて、たったそれだけを胸に頑張っていられた。
それなのに結局、兄姉は自分を追い出した父親と、普通に戻ってくれと泣き出した母親と変わらない。全くの同じであったのだ。微かに残っていた希望も、何もかもが絶望へと変わってしまう。ただ好きになった相手が同性であったというだけで、家族にも追い立てられてしまうのだ。
「ちゃんと、話は出来た?」
どれだけ突っ立っていたのだろうか。俯いて直角に曲げられた首も、固く握り締められた手のひらも、痛くていたくて、ひたすらに息が苦しかった。静かに向けられた櫟の声は平坦な色に染められていて、それが今の萌には心地良かった。
ぴぴ、と、場違いにも軽い音が鳴って、サイレンの甲高い声は響いてこない。深く、長い息を吐き出して、萌は俯かせていた頭を勢いよく起こした。
「タルト、焼けたみたいなんで。クッキー作りますね」
軽い調子で鳴り続ける電子音に向かって足を踏み出して、誰に見られているわけでもないのに萌は意識して口角を引き上げた。リビングへと続く扉の傍に立っていた櫟がどんな表情をしているのか、確かめる勇気はなかった。
*****
かちゃりと、フォークの掠れた音が虚しく響く。いつもは細切れに落とされる声も、往復する笑いも成りを潜め、誰も喋ろうとはしなかった。
テーブルの上には萌の作った夕食が並べられている。休日はどことなく手の込んだ料理になりがちではあったが、今日のそれはいつも以上に気合いが込められていた。
厚切りベーコンとアスパラガスのカルボナーラはベーコンが軽く燻され、ソースにもほんの少しだけ出汁が混ぜ込まれている。生クリームの甘さに潜む柔らかさが舌に触れ、噛み締めるたびに挽いた黒胡椒が刺激する。
サイドにはタコのカルパッチョと、野菜が蕩けるまで煮込まれたコンソメスープが置かれ、冷蔵庫には昼間に焼かれたタルトが艶々と赤い色味を輝かせ、今か今かと出番を待ちわびていた。
萌の得意料理は一人暮らし時代に培われてきた和食で、洋食を作るのは主に海青の仕事だった。普段とは様子の違う夕食にどういった気分の変化なのだと、深月の問おうとした声は萌の引き結ばれた眉根にぐっと飲み込まれていった。
「櫟さん、何かあった?」
薄目の味付けにされているスープは、だけれど一口大に切られたキャベツや玉葱の甘みが溶け出して十分な美味さを醸し出している。ずるりとスープと共に入り込んできたキャベツをしっかりと噛み締めてから、海青は目の前に座る櫟へと視線を向けた。
朝の風景はいつもと同じで、おかしなところはなかったと記憶している。折角の休日を楽しもうとする空気を萌は全身に背負っていて、いつも明るい萌の気分がたった一日で急降下することなんて早々起こることではない。それなのに、勤め人の二人が帰宅したときからずっと、俯き気味の頭が上がることはなかった。
「あー、うん。……、そうだね。萌ちゃんのご家族が訪ねてきた」
「櫟さん!」
ぐるぐるとパスタ麺をフォークに巻き付けるだけの動作を繰り返す萌を盗み見て、櫟は悟られないように薄く息を吐き出し、それから困ったように眉尻を下げた。
櫟は訪ねてきた蕪木の性を名乗る二人を迎え入れただけで、何を話していたのかは知らない。無理に笑みを浮かべようと気丈に振る舞う萌に何があったのかなんて聞けはしなかったし、他人の領分に土足で踏み入れる気にもならなかった。
だけれど、沈んだままの萌を可哀想だと思う気持ちはあった。櫟という他人の前でも取り繕えなかった家族への拒絶に、救い上げられるのは恋人である深月だけ。そう思って話し出そうとはしない萌に変わって告げた言葉に、矛先の張本人は裏返った声を吐き出した。
「深月ちゃんはさ、知っててもいいんじゃない?」
ベーコンとアスパラガスをフォークに差し込み、視線の高さまで持ち上げる。表面がこんがりと淡く焦げたベーコンからは燻されたいい香りが漂っていて、見えない煙がリビングを包み込んでいく。眉根を寄せた萌は傷付いたような、ともすれば怒り出してしまいそうな、そんな危うさに表情を歪めていた。
「萌、何があったの? ……、私は、そんなにも頼りない?」
フォークもスプーンもテーブルに置いてしまった深月は、正面に座る萌へと真っ直ぐに視線を向けていた。雑談のひとつとしても話そうとしなかった様子に、櫟がきっかけを与えなければきっと、深月が今日のことを知ることはなかっただろう。渋っている様子に心当たりがないわけでもなかったが、それでも深月の追及する声が止むことはない。
深月は、何も知らなかった。萌が実家に帰ろうとしない理由も、家族に向ける感情も、本人が欠片も漏らそうとはしなくて、だからこそ今までは尋ねることもしなかった。だけれど、今度こそは、と深月は背筋を正す。傷付けると理解していても、萌が眉根を寄せる理由を知りたいと思った。
譲ろうとはしない深月の様子に、萌はもごりと何も入っていない口を動かすだけで、言葉が続いていくことはない。弄るだけのパスタからは湯気が消え、既に固まり始めてしまっている。
「そういうわけじゃ、ないけど……」
ぐるぐると巻かれていくパスタ麺は途切れることなく、随分と大きく成長してしまった。多分に水分を吸った麺は重く、引っ掛かったベーコンがべちゃりと跳ねる。萌はそれをまた解いて、慰めのように巻き付けていく。今度は一口分ほどの大きさに巻かれ、だけれど食べられることはない。進まない食事風景に、唯一あと少しで食べ終わりそうな海青が首を傾げた。
「悩んでるなら一緒に考えりゃいいじゃん」
言うかどうかも含めて、深澤は他人じゃないだろう。
まるで当たり前のことのように、さらりと言葉に乗せられた音は随分と軽い。ふわりと鮮やかに宙を浮いた言葉に、萌は寄せていた眉根をもう一段階中央に寄せ、ぱちりと長い睫毛を震わせる。
何を言われてしまったのか、理解は出来る。恋人なのだから一緒に相談したらどうだ、と海青なりのアドバイスなのだろう。だけれど、胸に宿る葛藤もやるせなさも口惜しさも、吐き出してしまっていいものだとは思えない。
真っ直ぐに交わった海青と萌の視線はどこか、遠くに弾かれたかのように違った色を滲ませていた。戦慄く唇に、上げていた視線を覚束なく落としていく。何かあったときに、海青は櫟へと全て話してしまえるのだろう。櫟も打ち明けられた言葉を丁寧に拾って、そうして抱き締めてしまえる強さがある。
深月を信頼していないわけではなかったが、明け透けに話してしまっていいのだろうかと、不安ばかりが胸を突く。どうでもいい話はいくらでも出来てしまえるのに、肝心な言葉は自分の中で昇華されるだけだ。
「ここでくらい、抗うな」
はっきりと、まるで貫かれたのかと錯覚するくらいに鋭い言葉だった。痛みにフォークを握る指先が白く濁っていく。諦めたように深い、ふかい溜息を吐き出して、酸欠になるくらいまで絞り出して、萌はそっと深月へと視線を向ける。
「聞いてもらって、いいかな?」
「ばか、当たり前でしょ」
窺うような萌の瞳に、深月は清々しいまでの笑みを浮かべる。受け入れる態勢を整えきっている深月の様子に、萌は静かに覚悟を決めた。ぐるりと巻き付けたパスタ麺はようやく萌の口内へと消えていく。舌先を転がったのは、黒胡椒の刺激だった。
*****
片付けは任せてくれ、と背中を押してくれる海青に後のことは任せ、深月と萌は二人が寝室として使っている二階の一部屋へと移動する。バルコニーに面した二階にリビングとダイニングキッチンがある関係で、他には六畳の一部屋しかなかったが、そこは四人一致で深月と萌の寝室に決まっていた。
セミダブルのベッドは深月の希望で、今は淡いラベンダー色のシーツが敷かれていた。透けるように咲き乱れた小さな花が何をモチーフにしているのか、夜遅くまで話し込んだけれど特に詳しくない二人では答えは出せなかった。
綺麗に整えられたベッドに横並びに座って、互いの手のひらを重ねた。深月の爪先はきらきらと輝きに色付けられているが、萌の短く切り揃えられた爪は生えたままの状態が保たれている。一度だけ深月の好きな深い赤色を塗り付けたこともあったけれど、特殊な薬剤を扱う手ではすぐに剥がれ落ちてしまった。それ以来、悲しくなるから、と色が付けられることはない。
ぎゅっと痛いくらい込められた力に、萌は思いきりよく息を吐き出した。話す側である萌よりも、聞くだけと言える深月の方がずっと緊張している。不安そうに下げられた眉尻に萌はそっと笑みを浮かべて、観念したように言葉を溢れさせた。
「七年振りに、お兄ちゃんとお姉ちゃんに会ったの。今までなぁんにもやり取りしてないのに急だったから、……うん、びっくりしちゃった」
出来るだけなんてことのないように、と意識した声は、それでも硬く、掠れ切っていた。二人の吐き出す音にだけ支配された部屋は春だというのに、肩が震えそうなほどに冷えている。繋がれた手のひらだけが温かく、自嘲めいた声に、込められる力は一層強くなる。
何を喋るべきなのか、何を喋らないでおくべきなのか、味のしなくなった夕食を噛み砕いている最中もずっと考えていた。明け透けに曝け出すわけにはいかず、全てを隠し通すことも不可能だろう。兄姉が訪ねてきた事実だけに触れられたらどれだけいいだろうか。
だけれど、そんなわけにもいかない。兄姉との関係性も、両親から零れ落ちた声も、いっそこの際にぶちまけてしまいたくもなる。考えすぎた思考は糸が絡まって、解こうとしても碌に整えられていない指先では難しかった。
三つ年の離れた兄姉とは、仲が良い方だったとは思う。三人揃って人見知りをしなくて、喋りたがりで、好き勝手にやりたい放題やらかしていた。子どもらしい元気さに溢れていると言えば聞こえもいいだろうが、家庭を守る母親はきっと、大変な苦労を強いられていたはずだ。それでも母親は叱ることも宥めることもせず、悪いことでなければ随分と自由に育ててくれた。
勉強はしっかりしろ、といつだって厳しかった父親も、休みのたびに色んな場所へと連れて行ってくれた。水族館では端から端まで気ままに泳ぐ魚の名前を教えてくれて、キャンプでは徹夜をしてまでテントの張り方を覚えてくれた。叱られて、でもその後には必ず頭を撫でてくれる。萌は兄姉のことも、両親のことも大好きで、大切だった。
だけど、高校生になって自分が同性愛者だと自覚して、段々と後ろめたい感情ばかりを覚えるようになってしまった。初めて好きになったのは同じ中学から進学した女の子で、一番の親友だった。いつも薄い文庫本を持ち歩く彼女は何でも知っていて、まるで自分のことのように誇らしかった。ああこれは、誰にも明かしてはいけないものだ。秘めた感情は誰にも吐露することなく、心の底でいつだって輝いていた。
告白してくれた男の子となんとなく付き合って、だけれど友人以上の想いが浮かんでこないことに申し訳なさばかりが募って、耐えきれなくなった末に別れを切り出した。周りと同じように出来ない自分が情けなくて、誰とも違うことに心細くなって、そうしていつの日にか、疲れてしまった。
「言うつもりはなかったの。何となく言い訳でもして、逃げ切るつもりだった」
誰にも打ち明けるつもりなどなかった。今以上に同性愛者はマイノリティなのだと嘲笑われることが多く、イジメられてしまうこともあるのだと知ってからは余計に、これは生涯かけて守るべき秘密なのだと言い聞かせた。
マイノリティであることを一生隠して、死ぬまでマジョリティの真似事をして生きていくのだと決めていた。それでもまだ大人でも子どもでもない萌の心は擦り切れて、疲れ切って、とうとう打ち明けてしまった。
高校の卒業式が終わった、その日だった。お前ももう子どもじゃないんだな、なんて、厳格だった父親が目尻を下げてそんなことを宣うものだから、きっと油断してしまったのだ。大切なこの人たちだったら、血を分けたこの人たちだったら、もしかして受け入れてくれるんじゃないか。
なんて、そんなものは希望でしかなかったのに。まだ幼い萌にはそれが真実のように思えてしまった。
なるべくあっけらかんと、なんてことのないように。そう意識して自分の気持ちを吐き出して、笑って、ぐるりとみんなを見渡して。そうして、希望は叶わないからこそ輝いているのだと、知ってしまった。吐き出した息は喉の奥で逆流し、このまま死んでしまうのだと思った。
あの時の四対の視線は、きっと死んでからも忘れられない。嫌悪と、憎悪と、侮蔑と、怒りと、悲しみと。泣き崩れていく母親に、唾をまき散らして怒鳴りつけてくる父親。初めて見る二人の様子に、まるで出来損ないの三流映画を観ているようだった。
「なんで普通に出来ない、なんで当たり前に生きられない。お父さんに何度も怒鳴られて、お母さんにごめんなさいって泣かれて、もうねぇ、地獄だったなぁ」
見ないように蓋をした記憶は、昨日のことのように思い出せた。この部屋には深月と萌の二人だけしかいないのに、今、萌の目の前には憤る父親と、両手で顔を覆い隠した母親が存在していた。
七年前の出来事だ。次の日にはもう家を飛び出していて、一度も帰っていない。就職先もわざと遠い場所を選んで、家族には何ひとつ報告していない。
実家を出て行く間際、父親からは二度と帰ってくるなと言われていた。背中に投げつけられた声はしゃがれたおじいちゃんのように覇気がなく、枯れかけた花のように萎れていた。振り返ることは出来なかったおかげで、最後に会った父親が怒っていたのか悲しんでいたのか、色の失くした声からは何も伝わってこなかった。
「……、帰って来いってね、言われちゃった」
「それは……、萌を心配してるからじゃ、ないの?」
重ねられた手のひらを外し、萌は綺麗に彩られた爪先を弄る。春らしい桜のデザインは先週新しくされたもので、まだどこも欠けることなくその存在を主張している。淡く繊細で、麗らかな温かさに満ち溢れた色に、ささくれ立った心は不思議と凪いでいく。
「さぁ、どうなんだろ。違うんじゃない?」
櫟に彼氏の振りしてもらえって言われちゃった。舌先まで出かかった言葉を飲み込んで、視線も上げぬまま笑ってみせる。深月を傷付けるだけしかない言葉を、どうして吐き出せようか。無理矢理に上げた口角は引き攣って痛みを訴えたが、互いの視線が深月の爪先に向かっていることにそっと息を吐く。
たった一度だけ支えてくれた兄姉も、結局は萌を糾弾したかったのだ。間違っているのだと、当たり前の側に戻って来いと、そう言われているようで、全身が冷水を浴びて凍り付いていくような気がした。
弄っていた指先が絡め取られ、ぎゅうぎゅうと力任せに握られる。掬ったのは綺麗な爪先を持つ深月しかいないのだが、込められた力の強さに萌の手のひらは為す術もない。
「……帰ってあげてほしい」
優しい深月のことだから、まるで自分事のように捉えてしまわないだろうか。俯けられたせいで長い髪の毛が垂れ下がり、すぐ近くにいても深月がどんな表情をしているのかは窺えない。それでもきっと辛そうに、淋しそうに眉も唇も歪められているのだろう。他人事なのになぁ、と思わず漏れてしまった苦笑は、ぽつりと溢された声に行き場を失った。
「深月ちゃん……? 何言ってるの……?」
嫌に冷たい汗が、萌の背中を伝っていく。打ち明けたのは確かに、家族の間で生まれた軋轢だ。結局ほぼ全てを語り明かしてしまって、隠してしまいたかった情けなさも、口惜しさも、彼女は知ることとなってしまう。
優しく、涙脆い彼女を心配させてしまっただろうか、やるせなさを抱かせてしまっただろうか。渦巻くのは深月を思う不安ばかりであったのに、まさか兄姉に賛同されるとは露ほども思ってはいなかった。
硬く絞り出された声に、深月は俯かせていた頭をようやく上げる。ゆらり、と彷徨ってから真っ直ぐに向けられた瞳にはやはりと言うべきか、輝かしいまでの膜が分厚く張られていた。
「お母さんの体調が良くないんでしょう?」
「それは、そうみたいだけど……」
浮かぶのは最後に見た母親の姿だった。泣き腫らして真っ赤になった目元は痛々しくて、その原因は全て自分にある。その事実を受け入れたくはなくて、必死に目を逸らして飛び出してきた。
穏やかで、慈愛に満ちた母親のことが気にならないわけではない。いっそ自分のことなんて忘れ去ってほしかったが、それは叶わないことだろう。
七年間も連絡のなかった兄姉が訪ねてくるくらいなのだ、命に係わるほど大事になっていても何も不思議ではない。最悪の事態を想像して、繋いだ指先に力が入る。母親の無事を確かめたい気持ちはあったが、それ以上に泣き崩れる母親の姿も、醜く顔を歪めて怒鳴ってくる父親の声も、自分からは遠ざけておきたかった。
「帰ってくるなって言われてるの。だから、帰らない」
力を込める萌とは反対に、深月の指先は力を失くしてぶらりと揺れる。飾られた爪先を温めるように何度か擦って、自分はここにいるのだと訴える。この家には萌を感情のまま罵る人間も、まるで回生させようとしてくる人間もいない。
ぽろりと、表面張力に逆らった雫が零れ落ちる。丁寧にケアのされた深月の頬を伝って、二つの小さな手のひらが重なった肌色の上に波紋を浮かべた。冷たくて、でもどこか温かい、そんな涙だった。
ぱたぱたと、次から次へと溢れ落ちていく涙を合図に、深月は重なっていた手のひらを持ち上げる。急に温もりを失くした手のひらは心許なくて、ふらりと揺れ動く深月の指先を視線だけで追いかけた。
揺れて、持ち上がって、次第に視界から消えていく。追いかけられなかった手のひらの行く先は、考えるまでもなく温もりとして伝えられる。抱き締められたのだと自覚したのは、深月の熱いまでの涙が肩を濡らしてからだった。
「死んでからじゃ遅いの。生きている内に言わないと、後悔する」
籠った声は、鼻に引っ掛かって随分と掠れていた。悲痛さに濡れた感情に、萌は心臓を鷲掴みにされてしまったのかと思った。
深月は誰とも違って、打ち明けてからも母親との仲を保っている。それは母親の分け隔てない感性もあるのだろうが、一番は父親を亡くしているからじゃないか、といつだったか、ほろ酔い気分の深月が語ってくれた。母親は最愛の人間を亡くしているからこそ、喪失感を知っている。相手が生きているのなら、同性だとかそんなものは壁でもなんでもないのだ、と深月はからりと笑ってしまった。
深月は父親の顔も、声も、憶えていない。返事のない写真ばかりを眺めて、母親を一人きりにした恨み言もぶつけられなくて、口惜しくて悲しいのだ。
「お願い、一緒に行くから。だから、ね……?」
耳元でぐずぐずと鼻の啜る音が響いて、萌は名前のつけられない口惜しさに唇を噛み締める。お願いだ、と繰り返す掠れた声に、見開いた瞳は少しずつ痛みに歪んでいった。
家族との話を打ち明けて、帰ってくれとお願いされるなんて欠片ほども思っていなかったけれど、深月の境遇を思うと真っ直ぐすぎるほどの判断だと思った。同情されたかったわけでも、慰められたかったわけでもないが、ここまで切実に願われてしまえば、帰らざるを得ないと、痛みに滲む心はぐらりと揺らいでいく。
血の繋がった家族で、縁はまだ切れていない。いつまでも逃げられるとは思えないし、ここがいっそ、諦めのつけどころなのかもしれない。
「……、うん」
萌の瞳は渇いている。それなのに絞り出した声は掠れていて、痛みに溢れていた。滞った空気に溶けることもなく沈殿し、腐食を繰り返しては二人の心を切り裂く痛みに変わっていく。昨日まで愛を囁き合っていたこの部屋に、こんな色は場違いに似合わない。
背中にまわる深月の指先が服の上を滑り、肩甲骨に爪痕を残していく。甘さの含んでいない痛みは、萌の喉奥に悲鳴を浴びさせるだけだった。
*****
突然の訪問者を迎えた、その次の土曜日。美容師という職業柄、土日に萌の休みが置かれることはない。だけれど今回は緊急事態なのだ、と上司に頼み込んで休みをもらい、片道二時間ほどが掛かる実家へと赴いていた。隣には最近のお気に入りであるのだという膝丈のタイトスカートを履いた深月が眉尻を下げて、緊張に体を強張らせていた。
朝食は海青が作ってくれた。前日から仕込まれていたフレンチトーストは甘く柔らかで、萌の頑なに凍え固まった心をひっそりと解していった。櫟の淹れてくれたコーヒーはお洒落な喫茶店で出されるようなカフェラテの仕様になっていて、後からこっそりと、泡立てるのは何日も前から隠れて練習していたのだ、と教えてもらった。
今ここにはいない二人も、実家に赴くことを報告したときからずっと心配して、励まそうとしてくれていた。他人だとはっきり線引きをしていたくせに、甘やかしてくる二人はどこまでも優しい。
そっと隣で肩を強張らせる深月を盗み見て、それから、目の前に聳え立つ一軒家へと視線を移す。二階建ての真っ白い家は大きくて、見るものに威圧感さえ与えるほどだ。父親の厳格さをそのまま形にしたような建物は、兄姉が産まれた年に建てられたものであるはずなのに、汚れのひとつも見当たらない。
萌ちゃんのおうちは仲良しね。
いつだって綺麗で真っ白ね。
幼い頃から褒められて、羨ましがられて、両親が懸命に築いた家族像は何処に出しても恥ずかしくない。萌が壊してしまうまではきっと、家族の誰もが自慢にして、大切に思っていたものだ。
「行ってくるね」
付いてくると言って聞かない深月には、しょうがないから、と近くの喫茶店で待っていてもらう予定であった。にっこりと意識して口角を上げると、深月は分かりやすく泣きそうに表情を歪ませた。ふわりと吹き込む風が深月の長い髪の毛を巻き上げて、半歩分空いた二人の距離を縮める。萌の頬をくすぐってから落ちていった茶色い毛先は、まるで深月の心を表しているようだ。
「……うん、待ってるね」
ぎゅっと詰められた眉根は今にも頽れてしまいそうなのに、深月の瞳は見事に渇いていた。泣くまいと耐えている愛おしい存在に、萌は両手を伸ばして抱き締めてしまいたい衝動に駆られてしまう。手のひらを握り締めることで耐え、一層にっこりと口角を持ち上げた。
去っていく後ろ姿を見送って、固く作っていた拳を開く。深く吸い込んだ空気は春の霞に匂いを預け、沈んでいきそうになる心をほんの少しだけ軽くした。
ひとつ気合いを入れ直して、ようやく玄関へと手を伸ばす。今日は両親に加え、都内に住んでいるらしい兄姉も来ているはずだ。櫟に恋人の振りをしてもらえ、と軽々しく音にした二人は、たった一人で帰ってきた妹に何を思うだろうか。
鍵を回さなくても簡単に押されていく扉に、萌は知らず詰めていた息を吐き出した。重く濁って、ぽとりと落ちそうになったところを巻き上がる風に攫われる。
七年振りに帰ってきた娘に、両親は何と言葉にするだろう。帰ってくることはないと思っていた実家は、飛び出したあの日から何も変わっていない。綺麗に揃えられた父親の革靴も、母親の履物が一つも出ていないことも、埃ひとつ落ちていない廊下も、奥深くに仕舞い込んでいた記憶と寸分も違わず、平然と広がっていた。
「ただいま」
無駄に長い廊下を感情さえ押し殺して進み、開けた先にはすでに両親と兄姉が座っていた。三人掛けのソファと、一人用のソファが二つ。ゆったりと足を広げられる一人用のソファに父親と兄が座っているのも、実家で暮らしていたあの頃から変わっていない。
真っ直ぐに父親から向けられた視線には、侮蔑と嫌悪がたっぷりと塗られている。胃の底に沈殿しているフレンチトーストに沁み込んで、ぐるりと渦を巻く。込み上げてきた吐き気をどうにか胃の中へと戻し、立ち竦んでいた足をひとつ、ふたつと動かした。
「何しに来た」
「……お母さんの体調が悪いって聞いて。……大丈夫?」
父親の隣で、三人掛けのソファに縮こまって座っている母親は随分と痩せたように見える。元々線の細い人ではあったけれど、不健康をそのまま形にしたような母親の姿は記憶のどこにも存在しない。
リビングに身を滑らせてから未だ、母親と視線が交わることはない。何かを恐れるように俯いたままの母親は、首の骨がくっきりと浮き出ている。寒くも、温かくもないよう調整されたリビングは長袖のTシャツ一枚でも十分に過ごせそうなのに、細い体は厚手のカーディガンに包まれていて、余計にその体を細く、儚く見せていた。
「母さんがこんなになったのはお前のせいだ」
痛々しい母親の姿に、記憶の中にいる穏やかで、優しく微笑みを浮かべている母親がズレを生み出していく。こんな姿は知らないと脳が目の前の光景を拒否していくのが分かり、硬くひび割れた声が何と言っているのか、すぐには理解出来なかった。
恐る恐る映した父親は、侮蔑も嫌悪も超えて、いっそ何も浮かべていなかった。二人の間に遮るものは何も存在しないのに、父親の瞳に萌は映っていない。まるで透明人間にでもなったかのような錯覚を覚えて、くらり、視界が暴れていく。
「こんな、って……。そんな言い方しなくてもいいじゃん」
「嘘は言っていない。お前が道を踏み外した真似事をするから、こいつはこうなった」
目の前が赤くなって、白くなって、それから、真っ黒に塗り潰される。萌の感情を真っ正面から否定して、同時に隣にいることを許したはずの母親を蔑む声に、同じ場所で暮らしてきた事実が信じられなくなる。
七年前、萌はただ同性愛者だと打ち明けただけだ。誰かに迷惑を掛けたわけでも、陥れたわけでもない。傷付けてもいなければ、警察にお世話されるようなことも何も、していない。
確かに、マイノリティではあるのかもしれない。誰かと同じであることを安心材料にすることも出来ず、自分がおかしいのかと自問自答に明け暮れた。散々悩んで、不安になって、自分自身のことを受け入れるまで高校の三年間を費やした。
だけれど、ただ少しだけ当たり前が違っていただけのこと。他人の当たり前と、自分の当たり前が少しだけ、違っていただけだ。進学先を選ぶときに別れてしまった友人と同じ、進んでいく先が違っていただけなのだ。
受け入れてほしかったわけではないと思う。厳格な父親には叱られるだろうと予想して、母親は悲しそうに笑うのだろうと想像して、それでも伝えることを選んだ。どんな言葉を掛けてほしかったわけでもないが、道を踏み外したなんて、そんなこと言われる筋合いは少しもない。
罪人であるかのような言われ方にも、覚悟を決めて打ち明けたことに対して真似事だと片付けられたことにも、萌の心は怒りと羞恥に震えていく。自分がこんな人の血を引いているだなんて、思いたくはなかった。
「お母さんが痩せたのは、お父さんがそうやって責めたからでしょ」
「……開き直ったか」
「きっと、お父さんがお母さんに育て方を間違えた、ちゃんと育てなかったからだ、とかなんとか、ずーっと責めてきたんでしょ。そんなの私のせいじゃない、お父さんのせいじゃない」
兄姉は何も言わない。一度だけ萌の後ろに誰もいないことを認めて、それからずっと、まるで自分たちは関係ないと言わんばかりに目を背けている。萌にも、両親にも視線を合わせず、他人である振りを続けている。あの日、落ち着くまでずっと傍にいてくれた二人は幻覚だったのだ、と沸騰した思考の端が凍っていく。今この部屋にいる四人が本当で、萌が息を吐き出せるような場所は、この真っ白い家のどこにもない。
握り締めた指先の感覚が失くなっている。手のひらにはきっと爪痕がくっきりと残っているだろう。それでも力を抜くことは出来なくて、鈍くなった指先にぐっと力を込める。
「女の人と付き合ってる。何て言われようが別れるつもりはないから」
四人の前には母親が淹れたのであろうコーヒーが、ふわりと温かな湯気を作っている。初めて見るカップはシックなデザインで、可愛らしいものが好きだった母親の趣味ではない。誰が買ってきたのだろうか、と場違いなことを考えて、揃いのソーサーも添えられたパウンドケーキも、四つしか用意されていない事実に打ちのめされる。時間は兄姉から聞いていただろうに、温かいコーヒーさえ萌は用意してもらえないのだ。
「男と暮らしてるんだろう。さっさと真似事は止めて身を固めろ」
「櫟さんはそんなんじゃない! 私の恋人は、」
「女が女を好きになるなんて、そんな生産性のない真似事は止めろ、と言ってるんだ」
凪いだ水面に波紋が広がって、透き通った青は灰色に濁っていく。溺れていったのは果たして、萌の感情全てだった。大量に吸い込んでしまった水は萌の体を重たく沈め、食われるしか出来ない深海へと落ちていく。
遮ってまで告げられたのは、どこまでも落ち着き払った、少しだけ酒に焼けて掠れた父親の声だった。感情の削られた声は生気に欠けているのに、声を上げて罵られることよりもずっと、萌の心に傷を残していく。
これ以上も、これ以下も。何を言っても無駄なのだと思い知った。例え櫟に恋人の振りをしてもらったとしても、父親が萌を許すことはなかっただろう。真似事だとはっきりと拒絶して、萌の姿を捉えようともしない心には、きっと何を言っても届かない。
俯いたままの母親は頭を上げることも、視線を向けてくることもしない。交わらない視線と、聞こえてこない声にそっと瞼を伏せて、籠った溜息を盛大に吐き出してから踵を返す。滞った空気の蔓延とするこの場所に、一秒でもいたくはなかった。
「ここには帰ってこないし、連絡もしない。さようなら」
お元気で。加えようとした言葉は、喉に引っ掛かって出てこなかった。
投げ捨てられた声には、誰の声も返ってこない。扉を閉めたあとにようやく、誰かが息を吐き出す間抜けた音が聞こえてきたが、それには萌を心配するような色は込められていない。
怒りと、軽蔑と、ほんの少しの淋しさと。悪かった、と父親が頭を下げるとも、母親が温かく包み込んでくれるとも思ってはいなかったけれど、ここまで自分の娘に対して無感情を貫こうとしてくるとは考えてもいなかった。どうせなら、足を踏み入れた瞬間に感じた侮蔑をぶつけられる方がいくらもマシだ。
色落ちしたデニムパンツが肌を滑り、履き慣れたキャンバス地のスニーカーは冷えた足先を温めてくれる。早く深月に会いたいと逸る気持ちと、こんな最悪な気分で会いたくないと駄々を捏ねる気持ちがせめぎ合って、深く息を吐き出した。抱き締めてくれた深月の温かさはこんなにもすぐに思い出せるのに、そこに縋ることは出来ないと思った。
扉を開けて一歩外に飛び出せば、濁った空気は緩やかな風に流されていく。深く息を吸って、肺が空っぽになるまで吐き出して。三回ほど繰り返して、痛みに震える心は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「深月ちゃん……」
擦り抜けた玄関先で、深月はぼんやりと空を眺めていた。喫茶店に向かう背中を見送ったはずなのに、深月の鼻先は薄っすらと赤く色付いている。春らしい陽気に恵まれているとはいえ、ずっと外に立っていれば羽織のない深月は冷えてしまうだろう。
がちゃりと、意固地なまでに白く保たれた実家と、二人の立つこちら側とを分断する音が辺りに響く。土曜日であってもこの周辺は静かで、人通りも少ない。だからこそ深月はここで萌の帰りを待っていたのだろうが、萌は素直にお礼を告げることも、彼女の真っ赤になった鼻先を心配することも出来なかった。
「萌、大丈夫だった?」
鼻頭を赤くした深月の髪の毛は巻き起こる風で少し乱れている。身だしなみには誰よりも気を配っている深月なのに、頓着していない様子は萌の心に杭を打ち付ける。握り過ぎて感覚のなくなった指先を持ち上げようとして、結局腕には何ひとつ力が籠らない。
「……今日のご飯、何にしようかなぁ。深月ちゃんは何が食べたい?」
笑って、ただ笑って。蔓延るいくつもの感情をひた隠しにして、萌はただただ、笑う。なんてことない様子を取り繕うしか出来なかったけれど、萌が見せようとしない感情の色は深月に正しく拾われていく。大丈夫だったか、と尋ねる声に返される場違いな明るい言葉に、深月はぐっと息を詰め、なんてことのない風を懸命にかき集めた。
「……そうだなぁ、肉じゃがが、いいかな」
「そんなのいつでも作れるじゃん」
互いに流れ出る気まずさには、どちらも気付かなかった振りをする。隣り合って歩く二人の距離は一歩分が離されて、違和感の残る隙間を温かな風が吹き抜けていった。
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