9月 コルチカム

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アスファルトに革靴が当たって、硬質な音が鳴る。小気味良いその音に、いつもの単純な俺ならほんのちょっと気分を上げていたかもしれないが、残念ながら今はそんなもので上がりはしない。 「依夜」 背後からかけられた声に即座に振り返る。俺の後ろには黒い車。さっきまで乗っていたそれの、助手席に座っていたニィさんが窓を開けて、俺を呼んだのだ。体を屈め、ニィさんと運転席に座っている八剣の顔を覗き込む。瞳に心配の色を浮かべている2人へと軽く笑いかけたものの、やっぱり気分は落ち込んだままだ。 「ニィさん、秀にぃさん…もっかい元気注入して」 「降りる前にしたのにか?」 「満タンまで入れたと思ったんだがな?」 「今の俺は燃費が悪いんですぅ〜」 窓枠に手を置きながら唇を軽く突き出して拗ねていると、ニィさんの顔がそっと近づいてきて、そのまま俺の唇に自身の唇を重ねた。重なったと思ったそれは一瞬離され、また重なる。今度はもっと、深く深く、舌を絡ませる甘美な交わりだ。 「ん、…」 身を乗り出してニィさんの舌に追い縋る。ちゅうぅっと一際強く舌先を吸われて、背中に甘い痺れが走った。 「っ、はぁ…」 「退けニルス、シートを下げろ」 「もうこれ以上下がらん。すまないな、足が長くて」 「くそ、邪魔すぎる…」 唇が離され、たまらず甘い息が漏れる。深い口付けの余韻を楽しみながら、ニィさんと秀にぃさんの軽口の叩き合いに耳を傾けた。相変わらず仲良しな2人に笑みを溢していると、シートベルトを外した秀にぃさんが俺の顎を掬い上げて、自身の唇を重ねてきた。 窓に上半身を突っ込んで、ニィさんの太ももへと手を置き体を支えながら、深い口付けを堪能する。舌先で上顎の辺りを撫でられるたびに、思考が溶けてぼやけていく。 「ぁふ、んむっ…」 真横から不機嫌そうな視線をひしひしと感じるものの、秀にぃさんは俺の舌を絡めとるのをやめはしない。 早々に痺れを切らしたニィさんは、俺にちょっかいをかけることにしたようで、やんわりと耳たぶを食んだり、舐めたり、息を吹きかけたりと横槍を入れる。 「ニルス!邪魔をするな」 「人の前でやる方が悪い」 「仕方がないだろう?こうでもしないと、依夜とキスはできない。お前が邪魔すぎるせいでな」 「ストップストップ。喧嘩は終わりにして〜」 唇を離した瞬間、秀にぃさんはニィさんを睨みつけて文句をつけ始めた。俺は1人ではふはふと昂りを抑えながら、2人のやりとりを制止する。 ちゅっと音が鳴るように、2人の唇に軽く口付けて屈んでいた体を元の体制に戻す。 「ニィさんごめんね?これで許して?」 「構わん。そこまで邪魔だとも思っていなかったからな」 「なら何故邪魔したんだ…」 仲良しなやり取りに笑いが溢れる。元気をちゅうで注入したので気分が上がったのだ!ちゅうだけに。大爆笑ギャグだぞ。笑えよ。ガハハ 「ほら、そろそろ行きなさい。寮が施錠される時間だろう?」 「もうそんな時間!?行かなきゃ…ん゛ぬ゛ぁ゛〜〜〜……」 人ならざるものの声を出しながら、全身で行きたくないアピールをするものの、微笑ましいものを見る目で見守られるだけで、逃げる事を許してはくれない。 ニィさんも秀にぃさんも、基本的には俺の望む事をしてくれるけれど、成し遂げれば成長できる物事に関しては逃げるのを許してはくれない。俺がいくら駄々を捏ねた所で宥められるだけで、やらなくて良いとは絶対に言ってくれないし、気持ちを煽ったり、言いくるめたりしてくるので、結局駄々を捏ねるだけ無駄なのだ。 ニィさんも秀にぃさんも、俺にとっては絶対的な味方だ。絶対に俺を守ってくれるし、俺に寄り添ってくれる。だからこそ、なんで嫌な事するの?守ってくれるんじゃなかったの?って最初の方はちょっとがっかりしちゃったけど、後の結果として俺は大きく成長できたし、2人に促されて成し遂げた物事は全て俺にとって良い方向に転がった。 だから今回も、俺がどれだけ嫌でも、絶対友達に会ってこいって事なんだろう。 「大丈夫だ、依夜」 「今まで俺達が、依夜に間違いを教えた事はないだろう?」 2人の言葉に首肯してから、1度大きく深呼吸。 大丈夫と言われたのだから大丈夫なのだ。俺達の関係を彼らは否定しない。 自己暗示をかけるように心の中で唱えてから、2人ににっこり笑顔を向ける。 「よーし、それじゃあもう行くね!気をつけて帰ってね」 「あぁ、依夜も。躓かないように気をつけなさい」 「風邪をひかないように、暖かくするんだぞ」 最後まで俺を気遣う2人を笑顔で見送る。夜の闇に溶けて見えなくなるまで、俺はずっと手を振っていた。 閑散としたエントランスは薄暗く、昼間の喧騒は見る影もない。普段は人で賑わっている食堂は重厚な作りの扉がどっしりと構えて、入り口を塞いでいる。横目でそれらを見ながらエレベーターホールへと歩みを進める。暖色のライトが付いているにも関わらず、どうしてかここは無機質で冷たい雰囲気を纏わせていた。上矢印のボタンを押してすぐに、鉄の扉がゆっくりと開く。開き切る前に乗り込んで、閉めるボタンを長押し。 長く押したからって特に意味があるわけではないけど、なんとなく早く閉まるかも…と思って押したくなっちゃうんだよな。 押しボタン式の横断歩道とかも、無意味に連打しちゃう。あれってなんでなんだろ? とかどうでもいい事に思考を割いて、明日への不安をごちゃまぜにしていく。多分今日は、どう頑張っても眠れない。人肌があれば眠れるかもしれないけれど、俺が眠るためだけにアルを呼びつけるなんて流石に忍びない。ベルナールからこっそり強めの薬を貰っておいて正解だったなぁ 足元を照らすライトとその光を反射する革靴。ぼんやりとそれらを見つめながら、ひたすら真っ直ぐ歩みを進める。視界に映る茶髪と、黒縁メガネのフレームは、いつのまにか見慣れたものになっていた。それが不思議でたまらない。どうして人間というのは、こんなにもすぐに慣れる生き物なんだろう。 軽く頭を横に振る。折角元気を貰ったのに、もう既に俺の心は萎び始めた。なんてざまだ!流石に風船だってもうちょっと持つだろ。俺のメンタル、風船以下?針で刺したら割れちゃう風船以下? 「いやいや、俺のメンタルは強いんだぞぅ…」 「……………何言ってンだ…?」 ドッ、ドドドドドッ、ドッキーーーーンッ!!!!!びっくりびっくりBINBIN!!!!???? 「不思議な力がわいたらどーすんの!?!?」 「……………はぁ?」 「OK!おジャ魔女は伝わんないことが分かった。ヨユーヨユー。全然あーしはヨユー」 混乱大パニックマンをかましてしまった。大変申し訳ない。凍てつくような眼差しと氷点下の声音ではぁ?とか言われたら流石の俺も急速冷凍されちゃう。 「ごめん、びっくりしてつい…」 へらりと笑いながら早くなった鼓動を無理矢理押さえつける。本当にびっくりした。こんな時間に人なんていないと思っていたし、ましてや千秋が、俺の部屋の目の前にいるだなんて誰が想像できようか。 「えっ、と……」 ほんと、マジで予想がつかない。来るとしても明日の朝とかだと思ってた。なのに彼は今目の前にいるし、そうなると、必然的に俺も腹を括るしかなくなる。溢れてきた唾をぐっと飲み干してから、いつものように笑顔を作る。それから息をふっと吐いて、肩の力を抜いて、言葉を紡ぐ。 「……とりあえず、ただいま?」 でもやっぱ、ちょっと、ここで聞くのは違うかなって! 何か言いたげに、こっちを見つめる千秋の視線から、逃げるように瞳を逸らす。このまま話を切り出されたら俺としてはたまったもんじゃないので、とりあえず部屋の中に押し込む。まぁ当然びくともしないので「聞きたい事なら部屋の中で答えるから」と言って入って貰ったわけなのだが… 「はい、じゃあ手洗いうがいをしましょうね〜」 でもその前に手洗いうがいだ。大事だよ!菌って怖いし! 2人で靴を脱ぎ捨てて、千秋の背中をぐいぐい押して洗面所まで辿り着く。背中に隠れたまま千秋の服の袖を捲り、今度はハンドソープに手を伸ばす。 「…めんどくせェ」 小声で呟いた千秋は、そう言うなり俺の体を背中から引き剥がし、自分の懐にすっぽりと収めた。なんだなんだ?いつもはくっついたりとかしないのに、急にこんなことしちゃって…一体どうしたっていうんだろう? 「…邪魔くせェんだよ。いい加減外せ」 「どわぁっ」 眉間に皺を寄せた千秋は俺の茶髪をむしり取り、メガネも取り去った。寮の入り口が閉まるギリギリを狙ってきたのだから、誰もいないだろうとたかを括っていた為ノーメイク。なので今の俺はその2つを外すだけで元通りになってしまうのだ。 「………テメェは、もっと警戒心を持て」 苦い顔をしながら呟いた千秋に思わず目を丸くする。警告?忠告?よくわかんないけど、ニュアンスからして俺の身を案じてる気がする。 思わず、口角が緩む。 「はぁい」 甘っちょろい声で肯定しながら、ふんふんと鼻歌でも歌っちゃおうかと思う位気分が上がった。 俺の身を案じているらしい千秋が可愛くて仕方ない。期限付きの関係だ、仕方がなく一緒にいるんだって言い聞かせてたくせに、その実無意識に離れる選択肢を消してしまっている千秋が、可愛くて、いじらしくて、とっても嬉しくなってしまう。 蛇口のレバーをあげ水を出す。千秋の大きな手をむんずと掴んで一度水洗いをしてから、ハンドソープを2回ほどプッシュ。泡を掌で弄んでから、俺と千秋の手をまとめて洗った。 「はい、できた!」 水滴のついた手を備え付けの乾いたタオルで綺麗に拭き取っていく。うんうん、完璧です!じゃあ次はうがいを… 「おい」 低音が俺の耳を貫く。さっきまでの柔らかさはなく、まるでヤスリにかけられたみたいにざらついた声音。恐る恐る鏡を見れば、いつも刻まれている眉間の皺が、より深く刻まれている。 「テメェ、」 二の句を紡ごうとしている千秋の唇をじっと見つめる。時間が引き延ばされていくような感覚の中で、唯一動かせる脳みそを高速で回転させる。 そうだ。俺が勝手に気分をよくしていただけで、まだ聞きたいことを聞かれていない。 つまり、状況は何も好転していない。 も〜〜!!なに!?3秒したら忘れんの!?魚かよ!!俺の脳みそ、ちゃんとして!! と、とりあえず、逃げる…のは無理。なぜなら腹に手を回されて逃げられないようにされているから!誤魔化す?のは嫌…ちゃんと答えるって言っちゃってるし…腹を…腹を括ります… 「……薬、飲まされたンだろ」 「…………………え?」 思わず振り返って千秋の顔を覗き込む。いや、え?聞きたいのって、それ?なぁんだ、拍子抜け! …………と、思ったのだけど… 千秋の瞳の色が、いつもよりも濃く暗く濁っていて、顔の色も…若干悪い。なんとなく、翳りが見える。俺の変装が千秋にバレた時も似たような表情をしていたが、その時よりも、もっとずっと… 「!?」 じっと千秋を見つめていると、より一層眉間に皺を寄せて、俺の頬を片手で掴み顔を正面に向けた。な、なに?なにしてんの?? 「んグッ!?!?」 突然どうしたのかと問おうとした瞬間だった。 もう片方の手が俺の唇を押し開き、口内へと侵入してきたのは。 「ッ、ぇ゛、ん゛ッ」 指が喉の奥に進んでいく。迷う事なく進むそれに、抗うように舌で押し返そうとするものの、彼は容赦なく舌を押さえつけて喉奥へと指を差し入れた。 競り上がってくる嘔吐感に目が潤む。やめてと訴えようにも、俺の舌を躾けるように押さえ込んでいる指が邪魔で、ただただ喘ぐような声しか出てこない。 「ゃえ゛ッ、ッ、やぇえ゛っ、…」 口内に入れられている指を噛めば、普通なら痛みに反応して手を引くだろうが、千秋は痛みに鈍いから噛まれたとしてもそのままだろう。まぁ、例え痛みがわかっても、傷つけたくはないから噛まないけどさ。 口の端をポタポタと唾液が滴り落ちる。俺は千秋の手首を掴んでもがきながら、競り上がってくる胃液をギリギリで押し留めた。ギブ!本当にギブ!本当にギブだって!! どうにか退けてくれないかと、彼の手をぺちぺちと叩きながら千秋の顔色を伺う。やっぱり翳りは消えておらず、先程から変わっていない。 とっても、酷い顔。喉奥に指を突っ込まれて嘔吐反射を起こしている俺よりも、辛そうな、苦しそうな、悲しそうな顔で、遠いどこかを見つめている。 反射的にえずきながらも、千秋の手の甲をそっと撫でる。慰めるように、労わるように、愛でるように。 「ッ…ひ、ぁひ…らぃひょー、う……ら、ッい、ひょーぅ…」 大丈夫、と拙いながらに告げれば、彼はゆっくりと指を口内から引き抜いた。瞬間、堰を切ったように出てきた咳と、競り上がってきた胃液に、洗面台の廻り縁を掴みながら体を屈める。饐えた匂いと口の中に広がる刺すような酸味に眉を顰めながら、うがいの為に取り出しておいたコップに並々と水を注いで、勢いよくそれを流し込んだ。複数回そうやって、口の中を洗い流しさっぱりしてから、俺の背後にいる彼へと振り向く。 彼は呆然として、俺を見つめている。眉間に刻まれた皺は消え去ったものの、その表情は焦りと困惑とでぐちゃぐちゃだ。珍しく視線も泳いでいるし、呼吸も浅い。混乱状態にいる千秋の眼を覚ますために、とりあえずそっと彼の手を取る。俺の唾液が纏わり付いている千秋の手に、自分の手を重ねて柔らかく微笑んだ。 「手、汚れちゃったね。もっかい洗おうね」 指を絡めて重ね合わせた、汚れた掌。 俺が汚させた千秋の掌は、冷たいのに暖かい。汚れた部分だけが、生暖かいのだ。 それがなんとも覚えのある感触で、目を閉じれば錯覚さえ起こしてしまいそう。 夜の深海みたいな瞳が、不安で僅かに揺れ動く。それに優しく笑いかけながら、掌を強く握った。 大丈夫。 水は、どんな汚れでも、どんな罪でも、全部洗い流(ゆる)してくれるから。それでも怯えてしまうなら、何度だって一緒に汚れてあげるから。 レバーをあげて水を流す。流れていく水の中に、千秋と俺の手を一緒にさし入れて、掌を擦り合わせた。すぐに水を止めてから、先程と同様にハンドソープをツープッシュ。 手のひらを擦り合わせてから、千秋の手の甲に掌を重ねる。千秋の、無骨で硬い指と指。その間に自身の指を滑らせて、伸ばすように洗う。両手の指を組んで、恋人繋ぎ。強弱をつけながら握りしめてから、指の一本一本を包み込んであげる。それが終わったら手首に指を滑らせて、輪の形にしてから上下に動かす。千秋の手首は俺よりずっと太いから、手首全体は包めないけど、捻るように手首を動かせば全体を綺麗に洗える。最後に爪の間を擦って、水で流せば元通り。 「はい、出来ました」 振り返って笑いかければ、彼はじっとこちらを見つめていた。濁っていた青色はどこにもなく、今は綺麗な、光にゆらめく深海の色。哀しみに溢れた表情も綺麗さっぱり洗い流されている。 千秋がなぜあんなにも苦しそうで辛そうで、悲しそうな表情をしたのかは正直とっても気になっている。けれど今は、少しだけ不安定になりつつある彼に寄り添う事が1番大事な気がするから、聞かないでおく事にする。自分から話してくれた方が嬉しいしね! 「千秋、お腹空いてない?俺はぺこぺこ!夜食、しちゃおーぜ」 乾いた手をギュッと握りしめて笑いかければ、彼は辿々しくも、首を縦に振った。 「あ!その前にうがい!コップはい!」 「………」 「ガラガラ〜ペッ!ってするんだよ?ぐちゅぐちゅペッ!でもいいけど」 「………(何が違ェんだ…?)」 「あー!何が違うんだって思ったでしょ?違うからね〜?ぐちゅぐちゅペッ!は口の中を濯ぐ感じで、ガラガラ〜ペッ!は上向いて喉奥に届くようにするんだから!」 「………そうかよ」 「すっごいどうでも良さそうでウケる。早くうがいして夜食たべよ〜?インスタント麺あったはず!塩ラーメンで良い?」 「………」 「冷蔵庫にカニカマあった気がする!生ハムも!卵も買っておいたのあるし、ゆで卵にしよ!ベーコンもあるし、炒めて入れても美味しそう…んふふ、欲張りセットにしよーぜ!」
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