9月 コルチカム

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くぐもった振動が部屋中に響く。その都度体が強張って、背筋には冷たいものが伝う。伏せているスマホの画面には、きっと夥しい数のメッセージが映し出されているのだろう。 真っ暗な部屋の中、何もかもを遮断するように布団を頭から被って丸くなった。さっきからずっと、不安と焦燥に煽られている。それもこれも、鳴り止まない通知のせいだ。 どうして、どうしてこんな事になってしまったんだ? 僕が彼らに辱められてから、数ヶ月は過ぎた。忘れたくとも忘れられない感覚に、心は悲鳴をあげてばかりだ。 まず食欲がなくなった。何を食べても味がせず、泥を食んでいるみたいだ。それでも無理矢理口に入れるが、胃は拒絶して吐き戻してしまう。吐き戻すのも体力がいるのに、眠ることすらままならない。必ずと言っていいほどあの時の夢を見るせいで、眠ることもできないのだ。例え一時眠ることができても、体を弄られる夢を見てしまい、恥部を撫でられる恐怖と興奮、そして快感によって目が覚めてしまう。 体力も気力も限界に達しているのに、体は疼く。 下半身に手が伸ばし泣きながら自慰に耽るものの、全く物足りない。強烈な快楽を叩きつけられたせいで、僕の体はこの程度では満足できなくなってしまった。 涙はとうに枯れ、ただぼんやりと過ごすことしかできない。忘れられない記憶に苛まれ続け疲弊した僕は、もう死んでしまいたいと、そう考え始めた。 そんな時だ。彼から頼み事をされたのは。 とても簡単な頼み事だった。友人は何人いるかだとか、テストの点数は何点だったかだとか、すぐに答えられるような簡単な頼み事…いや、頼み事とさえ言えないかもしれない。あれはただの質問で、けれど質問であっても、ちゃんとした頼み事だったのだ。この事に気がついたのは最近だ。SNSで知り合った友人に相談していなければ、きっと気がつけなかっただろう。 でももう遅い。僕はそれに抵抗もなく答えてしまったのだから。 だって抗うことなんて出来っこない。その時の僕は抜け殻のような状態だったし、動画や写真をばら撒かれるのが怖かったから。 それが間違いだったんだ。あの時質問に答えていなければ…いやでも、だって僕は脅されていて、彼の問いかけを跳ね除けていたら…だから仕方なくって、でもあの時答えなければ、こんな事にはなっていないはずで、でも、僕に選択肢なんてないし、だから僕は、仕方なくて、仕方なく答えて、それで、だから、ぼくは、 くぐもった音がやけに大きく部屋に響いた。無意識に呼吸を詰めて、伏せているスマホを見つめる。数十秒毎に無機質に振動していたそれは、今や完全に沈黙を保っていた。恐る恐る伏せていた画面を見れば、大量のメッセージが画面に連なっている。 『罪を償え』 『目を背けるな』 『贖え』 一つ二つであれば、迷惑メールだと思って目にとめることすらせずに消すだろう。けれどこれは違うのだ。何通も、何十通も、何百通も送られてくる。そのどれもが、罪や償いなどと言う抽象的な言葉ばかり。アドレスがそれぞれ違うものであるのも、より一層恐怖を駆り立てる。このうちの一つをミュートにしたところで、また新しいアドレスからメールが届く。その繰り返しが延々と続くため、意味がないのだ。 罪、償い、贖い。 どれも覚えがある。 彼が、彼がこれを僕に送っているのだろうか?でも僕は…僕はちゃんと償うって言ったんだ。彼の言う通りにすれば、彼は許してくれるって言ってもいた。彼は酷い人だけど、言ったことはきちんと守るし根は優しい人なんだ。だからきっと、そんなわけない。そんなわけがない、はずだ。 心の中で何度も何度もそう唱えながら、震える指先で画面をスクロールしていく。たくさんの通知の中で一つだけ違ったアイコンのものがある。あるSNSのダイレクトメッセージだ。 これもまた迷惑メールと同じなのでは?と疑心暗鬼になりながらも、一縷の望みをかけて画面をタップし目を逸らすようにアプリを起動する。 メッセージは僕と仲の良い友人からのもので、無意識に詰めていた息をゆっくりと吐き出した。ぐるぐると巡っていた思考が解けていくのを感じながら、先ほどよりも落ち着いた気持ちでメッセージを確認する。 届いていたのは動画だった。前後にそれ以外の文章はなく、動画だけが、送られてきている。 不思議に思いながらも巫山戯ているだけだろうと笑みをこぼしながら、動画を再生した。 簡素な部屋に人がいる。カーテンが締め切られた薄暗い部屋だ。周りには物が散乱していて、とてもじゃないが綺麗とはいえない。そんな空間に人がぽつんと立っている。その人物が男なのか、女のかは後ろ姿からは特定できない。とても中性的だ。 これは、なんの動画だ?首を傾げながら画面を見続けていると、その人物は唐突に振り返った。所々不自然に赤褐色に染まった服のまま、机のそばにあった椅子を引きずってカメラの前に腰掛ける。 それは少年だった。 とても、見覚えのある、少年だった。 「なっ…んで、」 咄嗟にスマホから手を離し後退る。背中を壁につけながら、声を出さないよう口元を覆う。歯の根が合わずカチカチと音が鳴る中で、ベッドの上に落ちたスマホからは、彼の声が聞こえ始めた。 『生きるのに疲れました』 掠れた、抑揚のない声が響く。そんな語り口から始まった告白を、呆然としながら聞き入った。 『父を殺しました。酒瓶で殴ってから、刺したんです。包丁で。 殴った時の、刺した時の…肉の感触が消えないんです。何度洗っても血が取れない。 ……全部あいつのせいだ。あいつのせいなんです。 あいつが、あいつがいたから僕は… …僕は、強姦されました。複数の男性に抑え付けられ、無理矢理体を暴かれました。抵抗すれば殴られ蹴られ、尊厳を奪われました。 それもこれも、あいつのせいです。あいつが手引きをしたんです。 ……あいつがした事を許せない。あいつを、殺してやりたい。あいつがいなければぼくは、父さんは、』 『僕は今から死にます。あいつを殺すために。僕が死んで、呪い殺してやるんだ』 『聞いてるか?お前だよ、お前。お前はこれを見ているはずだよな。だってこの動画は僕が死んだ後、お前に送られているはずだもんな。 僕はお前に、お前らに殺されたんだ。僕がどれだけ苦しんだかわかるか?体を弄られて鳥肌が止まらなくて、抵抗すれば殴られ蹴られ……僕はお前に、お前らに、人としての尊厳をぶっ壊された。 挙句の果てにはお前のとこの親が僕の父さんの会社を潰して、今度は父さんが僕を殴り始めたんだ。…殴る以上のことも… 楽しかったか?笑ってたもんな。笑ってたもんな!僕を見ながら!笑って!笑っていたもんな!ははっ、ははは! ………全部全部、お前のせいだ。あれもこれも、全部!』 『人殺し』 『人殺し』 『人殺し』 『人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し』 『人殺し』 『絶対にお前を許さない』 その言葉を最後に、沈黙が訪れる。 心臓の音だけが鳴り響く部屋の中で、僕は必死に、息をした。溺れているような感覚のなかで、もがくように呼吸をした。首元を掻きむしりながら、無我夢中で酸素を求める。 乱れた呼吸が整い始めたタイミングで、ガラリと何かが開くような音と喧騒が、スマホから溢れ出た。終わったと思っていた動画は、どうやら続いていたようだ。 車の音や鳥の鳴き声、電車の音が空間を覆い尽くす中で、鈍い音が微かに響く。 トマトくらい柔らかくて、けれど机よりも重そうなものが、地面に勢いよく叩きつけられて潰れた…そんな音がした。 少しして女性の悲鳴が聞こえ始めた。喧騒がさらに増していく。男性の焦った声、遠くから聞こえるサイレンの音、どよめいた音たちが、大きな怪物となって迫り来る。 「ぁ、あ、」 それだけでわかってしまった。あの音は、あの音は、きっと、 「あ、あ、ぁ、あ、」 9月だって言うのに太陽はまだ高い。日暮れはまだまだ先のようだ。人通りの少ない校舎裏へ向かいながら、掌を扇子代わりに顔を仰ぐ。ウィッグをしてるからかいつもより暑い気がする。もうすぐ秋だって言うのにこんなに暑くて大丈夫なのか? 「ぃ、いよくんっ…!」 「うわっ、と…」 空を見上げていたせいか、前方から急接近してきた彼に気がつくことができなかった。後ろへと倒れ込みそうになる寸前に体に力を入れて、縋るように抱きついてきた彼の体を支える。 「ごめ、ごめんなさい!ごめんなさい、ごめんなさい!僕が、僕が全部悪いんです、ぼくが、ぼく、ぼくが!ごめん、なさ…っごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ…許して、許してください、ごめんなさい、ごめんなさい、…ぃや、いやだ…いやです、しにたく、ッしにたくないッ!ぼく、ぼく、しにたくないよぉ…」 ひ、ひ、と声を上擦らせながら髪を振り乱している彼は、誰が見ても正気とは思えないだろう。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も譫言のように繰り返す様はまるで、悪霊に取り憑かれているみたいだ。 俺の服を掴んでいる手は震えが止まらないようで、徐々に力が抜けていく。崩れ落ちそうになった体を支えながら、ゆっくりと地面に膝をついた。 「大丈夫、大丈夫。落ち着いて?ゆっくり呼吸をしよう。俺の声に合わせて、ね?」 胸に頭を預け啜り泣いている彼の顔を持ち上げて視線を合わせる。酷くやつれた顔だ。泣き腫らした瞳に目の下にくっきりとついた隈。肌はボロボロだし、乾燥した唇には血が滲んでいる。 ゆっくりと背中を撫でながら、呼吸を促す。耳元で柔らかく誉めそやし宥めていくうちに、荒かった息は整い、涙も止まり始めた。 「落ち着いた?」 「ぅ、ん…」 問い掛けに頷いてはいるが、どこかぼんやりとした様子だ。どうしてそんなに取り乱していたのかを聞けば、沢山のメールが届いたことやメッセージで送られてきた動画のことを、辿々しくも答え始めた。 「怖かったね。苦しかったね」 話し終えた彼の唇を親指でそうっとなぞり、目尻に浮いた水滴を拭う。頬を両手で包み込んで慈しむように視線を交わす。 「頑張ったね。よく耐えたね。 ありがとう。君が頑張ってくれたおかげだよ。えらいね、すごいね」 額と額をくっつけながら、慈しみを滲ませ赤子を愛でるように甘い声を出せば、昏く沈んでいた瞳がたちまち潤み始める。 「君を許すよ。君がしてきたことは全部俺が許してあげるから、もう大丈夫。怖いことは何にもないから。…ありがとう、頑張ってくれて。ありがとう」 俺の言葉を皮切りにボロボロと泣き始めた彼をそっと抱きしめる。泣き止むまで待ってから、スマホの画面を彼に見せた。 「君は自分の罪と向き合って許されたんだから、もう罰したりはしない。写真も動画も、全部消したよ。メールもメッセージも届かない。俺がなんとかするから。だから、安心してね。 けど、これに懲りたらもう二度と、こんなことをやってはいけないからね?」 目を細めながら微笑んで言い聞かせる。何度も首を縦に振る彼の頬をスルリと撫でてから、そっと立ち上がらせた。 「…さ、もう行きなさい。疲れたでしょう?ゆっくり休んで。何か怖いことがあったら、いつでも相談に乗るからね」 安心させるように抱き締めてから促せば彼は涙を溢れさせながら、俺とは逆方向に歩き始めた。後ろ姿を見つめいていると、自然に口角が上がる。 ちょ、ちょろい…ちょろすぎる…!! ちょろすぎてちょっと心配だ…悪いやつにすーぐ騙されちゃいそう!まぁもうすぐ、その予定なんですけど。 彼が教えてくれたメールや動画については、事前に予定していたものだ。Σに頼んでメールでの攻撃をしてもらい精神を削った。仲の良かった友人からの裏切りと、死人からのメッセージ、そしてどこの誰とも知らない人間からの心無い言葉。これらを耐えられほど彼は強くないからね。 そうやって追い詰めた所で手を差し伸べる。盛大なマッチポンプ! 今後彼にメールが届く事はないし、俺のおかげで救われたと言う誤った成功体験を刷り込むことも出来ちゃうってワケ。これからは喜んで頼み事を聞いてくれるだろう。 それと、ここへくる道中で宮田先輩を呼び出しておいた。もう少しすれば、泣きながら歩いている彼とばったり会う事になるだろう。宮田先輩は彼を哀れんで慰め、彼は先輩に怯えつつも優しさに触れ絆されて…晴れてお付き合いを開始する。はずだ。もしダメなら俺がお手伝いすればどうにでもなる。 宮田先輩はなんでも言いなりになる恋人(オナペット)を手に入れられて?彼は目一杯愛されて?まさにwin-winな関係だ!長続きしないだろうけどね!でも恋ってそんなもんじゃん? 先輩が彼に飽きて捨てた時はボーナスタイムだ!俺が慰めてあげれば、成功体験をさらに重ねる事ができますからね! 「それにしてもΣ、あれも送ったのかぁ…」 スマホのカメラロールを遡って、御目当ての動画を再生する。遠藤ハルカくんの遺言動画…という程で撮った動画だ。 主演、遠藤ハルカくん。監督、俺。脚本と編集、Σ。スペシャルサンクスがニィさんと近隣住民の皆様。夏に撮った傑作ホラー動画!全米が涙した感動作です!うそぴょん 彼には死んだと伝えている遠藤ハルカくんだが、全然普通にめちゃくちゃ生きてる。父親も。 経営していた会社は潰れてしまったものの、ハルカくんのパパはめげなかった。奥さんが亡くなったショックを受けながらも、どうにか息子を養うために就職活動に励んでいたのだ。その就職活動の真っ只中で、ニィさんから声をかけられたらしい。 そんな偶然ある?って感じ。ニィさんはニヒルに笑いながら「勘だ」とか言っていたけれど、もしかしたら元々目をつけていたのかもしれない。ハルカくんのパパの企業は医療機器を開発していたって言うしね。底知れない人だから、ありうるのが本当に怖いな… ハルカくんは心の傷が未だ癒えないものの、通信制の高校に通いながらなんとか生活している。たまに話したりもする仲なのだ。今回の動画は夏休み中に撮ったもので、本人に会いたくはないけれど復讐はしたいと言うハルカくんの意思を継いで、今回実行させてもらった。本当はもっと後にする予定だったんだけど、機転を効かせてΣが送ってくれたみたいだ。すごい!つかいつからSNSで接触してたの?怖い! さてはて、これで復讐は達成なんだろうか? ハルカくんはこれだけで満足って言ってたけど、本当に、これだけでいいのだろうか。 だって彼は、最後まで自分のことしか考えていなかった。自分が死にたくなかったから、自分が許されたかったから謝罪を口にしたんだ。彼は一度も、遠藤ハルカという人間が負った傷を鑑みることはなかった。本当に自分の過ちを悔いているのなら、罰を受け入れて一生背負っていくべきではないのだろうか?許しなんて、乞うべきではないのではないか? それもこれも、決めるのは部外者である俺ではなくハルカくんなんだから、考えるだけ無駄なんだけどさ。 考え事をしながら歩いてる時って、ワープした気分になるなぁ。寂れたプレハブ倉庫の前でぼんやりと思う。入り口にはつっかえ棒のようなものが立てかけられており、これを外さない限り引き戸の扉は開くことはないだろう。…このつっかえ棒どこから持ってきたんだ? 難なく外したそれを適当に放り投げ、勢いよく扉を開けて中に入る。ぐるりと周りを見渡せば、視界の端に柔らかそうな黒髪が見えた。すぐさま地面に膝をついて、壁にもたれかかって蹲っている彼に声をかける。 「椎名先輩!椎名先輩!」 俺の声がけに彼は勢いよく顔を上げて、大きな瞳を見開いた。ほんの少し顔色が悪い。プレハブの中は熱と湿気がこもって酷く蒸し暑い。この暑さは耐え難いだろう。 「怪我とかしてませんか?とりあえず外に出ましょう。熱中症になっちゃう」 肩を貸すと声をかけると、椎名先輩はぐっと眉間に皺を寄せた。 ────────────── 「絶対にお前を許さない」 「…はい、カット〜!いやぁ、良い演技だねハルカくん!」 「ほ、ほんと?結構楽しいね、これ…ちょっと恥ずかしいけど…」 「じ、じ、じょう、ず…!す、すごく、良い…!」 「でもさぁΣ。やっぱ人殺しのとこ数回でよくない?」 「そ、そんな、事ない…な、なな、何度も、言われるの…こ、こわい…」 「確かに…扉をノックする音がどんどん激しくなってくと怖いですよね」 「うーん、それもそっか!んじゃ、あとはいい感じのSEつけたりとか、よろしくねΣ!」 「ぅん!」 「協力してくれたおばさま達に挨拶しなくちゃですね」 「そうだね!お菓子持ってこうか…八剣!お菓子買いに行く!ハルカくんも行こ?」 「…うん、うん!」 紫色の瞳を細めながら可愛らしい微笑みを浮かべた美しい少年を、ハルカは目を細めながら見つめる。 彼が全てを変えてくれた。落ちていくだけだった自分と父に手を差し伸べてくれたのは、彼と、彼の兄である男性だけだった。警察も弁護士も、ろくな働きをしてくれなかったのに、彼らだけは手を差し伸べ、引き上げてくれたのだ。 彼らは善人ではないだろう。「復讐したくないの?」と問いかけてきた少年の顔は、悪そのものでいて蠱惑的であったのだから。 「おいたがすぎるからお仕置きしちゃった」と笑う少年は、美しくも残酷で、邪悪そのものだったのだから。 けれどそれがなんだと言うのだろう。彼らがどれだけ非道であっても、遠藤ハルカと言う個人を尊重し、礼儀を持っている。それだけで十分ではないのだろうか。実際に掬い上げてくれたのは彼らなのだから。 彼らのおかげで今があるのだと、ハルカは思う。その顔には、晴天のように晴れた笑みが浮かんでいた。
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