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prologue
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《昨日の夜、営業部の部長から見積り作成をまとまった数で依頼されました。申し訳ないけど花江さん、今日中に処理をお願いできますか?僕はちょっと立て込んでいて…》
「……クソかよ」
早朝の眩い光が、エレベーターの扉が開いた瞬間に煌めきと共に差し込む。でも爽やかな陽気に包まれながら漏れ出た自分の言葉は、あまりにも汚い。
うちの母親が聞いていたら間違いなく無言で頭を叩かれていた。
社用スマホに表示されたメッセージに舌打ちを落とし、荒々しくバッグにそれを放り投げて足を踏み出すと、ヒールがタイルにかつんと音を立てた。
重くなった足取りを感じて、憂鬱さが増幅している。"営業部の部長"、わざわざそう書き記すところにより一層苛立つ。末端の人間は、引き受けない以外の選択肢が無いのだと強引に認めさせるような、そういう役職の振りかざし方に嫌気も指す。
押し付けるのが得意な人間は、いつもギリギリを攻めてくる。そして押し付ける事柄を小出しにして、あたかも分散して仕事の割り振りが出来ていると錯覚を起こさせるような、悪どい手法を取るのだ。
誤魔化されるかばーか。
「…はげろ」
嗚呼、ピアス付けるの忘れた。汚い言葉を更に吐き出して朝の空気を汚しながら、耳朶に触れる。いつもそこにある筈のものが無い物足りなさに、また舌打ちを落とす。
"あれ"が、無いと。
「――朝から物騒な言葉1人で呟くのやめろ」
逡巡した後、再び来た道を戻ろうとした瞬間に横から届いた低い声に、足が止まる。
顔を上げると、朝の澄んだ空間に溶け込まない、もはや溶け込もうともしない男が、いつも常駐している部屋の扉を開けて立っていた。小窓には"管理人室"と、看板が立て掛けられている。
「今日えらく早いじゃん、仕事忙しいの」
「……」
「おい、無視ってどういうことだよ」
「無視じゃない。話す必要性を感じなかった」
「真顔でなんてこと言うんだお前」
こんな朝っぱらから、低血圧の私に愛想を求めているのが間違っている。
はあ、と溜息を漏らして腕を組む男を目線だけ移して盗み見た。ボートネックの黒のカットソーに黒のスキニーを合わせた無駄のない服装のその男は、大変麗しい見目を持ち合わせる。
彫りの深いパーツが整然と並ぶ面立ちを、惜しげもなく全て曝け出すスキンヘッドは威圧感しかないけど。淡褐色に近い色素の薄い瞳と相まって日本人離れして見えるのは、ずっと昔からだ。
一般的な成人男性はあまり選ばない気がするヘアスタイルの理由を知っている人間は、このマンションの中には殆ど居ない。
「……莉々」
呼びかけられて、ふと我に帰った私は視線を逸らしたまま「なに」と短く告げる。
嗚呼、本当に頭が割れるように痛い。
絶対さっきのクソみたいなメールの所為で悪化したと息を吐き出しながら、鈍痛を真顔のまま耐えていれば視界が一気に暗くなった。
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