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家の外から物音が聞こえたのは真夜中のことでした。寝台に寝転んでうとうととしていたサリアは慌てて飛び起きて、慌てて外に出ました。
父がいました。けれど父は一人ではありませんでした。
父を地面へと抑え込んだお役人が数人いました。
「日曜日に労働をした罰を受けさせる」
お役人の中にいた長が父を見下ろしながら言います。
「日曜日は太陽の神の日、太陽と共に時を過ごす日。太陽以外のものと戯れてはならぬ日」
「金だって太陽のしるしだ!」
父が叫びました。父の叫びは普段の穏やかな声とは違って、サリアを怯えさせました。
父が叫ぶのを、サリアは初めて聞きました。
「金があれば生活が良くなる! この国みたいな資源のない国はいつか滅びるんだ! それに、俺達は元々神を必要としていない! 神なんかいなくても生きていける民だ!」
「あまつさえ神を愚弄するか!」
「あんたらにとっての神は本当の意味での神じゃない! 俺達は俺達だ、俺達で考えて俺達で決める、そういう民族だ! 神の言う通りにはしないが神に責任を押し付けたりもしない! 神への信仰を理由に人を売るようなことは俺はしない!」
父が叫んでいます。涙をこぼしています。水が父から溢れ出しては、地面の上へ落ちて、染み込んで、消えていきます。
「信仰が悪いわけじゃない、神という存在を否定するつもりもない。けど信仰のせいで皆が変わってしまった、そう思ったって仕方ないだろう!」
「偉そうなことを言って!」
父に怒鳴り返したのはそばにいた女性でした。隣の家の奥さんです。サリアの父が日曜日に金を採りに行ったのを、知った上で黙っていてくれたはずの人です。
「世話になった人に金を分けてもやらない奴が何言ってんだい! あんたが神様ではなく自分の考えで動くってなら、そのご自慢の判断とやらであたしにも金を分けてくれたって良かったじゃないか!」
「金はなかった! 採れなかったんだ!」
「嘘おっしゃい! あたしは見たんだ、あたしが声をかけた瞬間あんたが何かを隠したのを見たんだ! あたしは神様への信仰心も他人への礼儀もない奴を神様に裁いてもらおうとしているだけさ! 何も悪くない、あたしは何も悪くない!」
旦那さんは隣で居心地が悪そうに黙っていました。奥さんを止めるそぶりもサリアの父を庇う素振りもありません。奥さんの声は父の声よりも掠れていて歪で、サリアの胸に気持ち悪いものを這い上らせました。昼間話した時はこんな気持ちにならなかったのに、こんなに怖いと思わなかったのに。
「……っ」
今目の前で何が起こっているのでしょう。今自分は何を見ているのでしょう。何が正しくて、誰が間違っているのでしょう。こんな時自分はどうしたら良いのでしょう。
サリアの手は知らないうちに胸元の首飾りを触っていました。滑らかな手触りの、青い石を触っていました。
――サリア、お歌を歌いましょうね。
遥か昔、この石を胸に下げた人の腕の中で、誰かの歌を聞いていたのを思い出しました。
――良い気分になったら歌いましょう。嫌な気分になったら歌いましょう。歌は気持ちを支えてくれるおまじないよ。あなたに安らぎを与えてくれるおまじない、皆を癒してくれるおまじない。さあ、お眠り。今から母さんがお歌を歌ってあげるから。
「……おまじない」
気持ちを支えてくれる、癒してくれる、おまじない。
それは本当でしょうか。
――自分の信じたいことを信じろ、俺達は元々そうして生きてきた民族なんだ。
もはや自分には父と母の言葉を信じるしかありません。他の何を信じれば良いのかわかりません。けれどこんなことを思い出したところで、サリアは歌を何一つ覚えていないのです。父は歌が下手で、耳に届くのは太陽神をたたえる知らない言葉の歌ばかりで、子守歌の一つも知らないのです。
あの時母が歌ってくれた歌は、どんな歌だったか。
何も、覚えていなくて。
だから。
「……金の輝きはおひさまの色」
思いつく限りの言葉を、何となくの旋律に乗せて、サリアは歌います。
「空の色、空の輝き、花の色。眩しくて美しい、水が輝く時の色。誰もが目を奪われて、私も心を奪われる」
心から、思いつく限りを。
「けれどあなたの微笑みは金よりも、多く早く確実に、私の全てを奪っていく。私に残ったのは心だけ、誰よりもあなたを思う心だけ」
助けて、と願いながら。
「どうか私の全てを抱いたまま、微笑みを忘れないでください。どうか私の全てを抱いたまま、金に勝る微笑みを、金のような微笑みを」
どうか癒しを、この事態に平穏を、と祈りながら。
「あなたの微笑みは金になり、水になり、花になり、空になり、太陽となって私達を照らすでしょう。どうか微笑みを、どうか安らぎを、優しさを」
誰から聞いたわけでもない歌。あらかじめ用意していたわけでもない歌。綺麗とはお世辞でも言えない少年らしい声は聞き心地が悪くて、旋律も曖昧で、そんな、とんちんかんであべこべな即興の歌をサリアは歌いました。
胸の石を両手で握り締めて。
乞うように、願うように。
「あなたがあなたであるために、私が私であるために、歌を、歌を歌いましょう。私が、あなたが、皆が、微笑みを絶やさずにいられるよう輝ける祈りの歌を歌いましょう。この歌は花を咲かせる。この歌は雨を降らせる。この歌は虹を架ける。この歌は金のように私達を喜ばせ、楽しませ、幸せにしてくれる」
叶いますように、と。
「皆が皆を慈しみ、手を差し伸べ、微笑みを交わし、日が昇るように花々が咲きますように」
夢を、望みを、歌にして。
サリアの目の前へ、父を覆い守るように影が伸びました。それはサリアの影でした。背後から差した朝日の光がサリアを照らし影を伸ばしたのでした。
目の前にいる皆の見開かれた目が、陽光を受けて輝いています。
きらきらと皆の目が輝いています。
その光景は、まさに。
「……美しい」
誰かが呟きます。
「美しい、光だ」
サリアの心の中の声と共に誰かが呟きます。サリアの背後から昇る朝日へ、その金色へ、サリアを縁取る金の輝きへ、感嘆を溢します。
沈黙は続きました。サリアの歌だけが朝日と共に街へ差し込み広がっていきます。まるで旋律が朝日の光となって目に映るようになったかのように、誰もがサリアとサリアを包む金の光を見つめました。
先程までの喧騒は地面に沈んだ涙のようにどこにも見当たりません。
これが、母の言ったおまじないの効果なのでしょう。
サリアは自分が微笑んでいることに気が付いていました。それは父と御伽噺を語る時のものではなく、物をもらったときに向けるものでもない、柔らかな日差しのような心地でした。
「……朝日に照りし夜の闇」
サリアは片手を胸元の石から離して、前へと差し伸べます。指先に朝日が朝露のように乗ります。
そっと静かに、歌い始めます。
「そのきらめきがとこしえに続き、そのきらめきを見つめる人の眼の輝きもまたとこしえに続き、夜と朝の狭間にて、皆太陽の到来を歓喜せり。光は来たれり! 今この地にとこしえの歓声を!」
いつの間にかサリアの周囲には人が集まっていました。誰もが――父やお役人や夫婦や長を含めて誰もが、夜の騒々しさを忘れたかのように聞き入っていました。
***
サリアの歌を聞いた国の長はサリアの歌声と即興の歌、それに込められた願いを汲み、サリアの父の罪を不問としました。その代わりサリアやサリアの父、サリアの父を裏切った夫婦から公平に話を聞きました。
皆の話を聞いた長は新たな雇用として人を集め金採掘を試みました。その人脈を使って東の国の金についても調べ、自国で金が採れる場所を探しました。未踏の山を探索し、そして未踏の池を見つけました。
その後、西方の砂漠の国は他のどこにもない石油産出国となり、優れた長の下「太陽のともしびの絶えない国」として栄えたとのことです。
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