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分岐点
※物語の中に偏った思想や表現がでてきますが、あくまでフィクションであり、筆者個人の考えや意見とは関係ありません。
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石蕗診療所では麗が流星に処置を施していた。
と言っても、できることはもうほとんど無い。流星は日を追うごとに弱ってゆき、血圧は限界まで低下し、脈拍も弱っている。典型的な衰弱死の兆候を見せていた。
東雲六道の要望できる限りの延命措置をしているが、思うような成果は上がっておらず、《アニムス抑制剤》の効きも悪い。もともと流星はある事情から《アニムス抑制剤》が効きにくい体質をしていた。おそらくこれ以上、薬を投与しても回復は見込めないだろう。
(まったく……《死刑執行人》だの何だのと調子に乗るからだ。アニムスは魔法じゃない。常に危険を伴うし、寿命を削ることも珍しくない。だからさんざん忠告したのに……本当にお前は大馬鹿者だ)
流星に好感を抱いているわけではないが、嫌っているわけでもない。ただ、麗はある目的を果たすために《監獄都市》にいる。その目的が流星たち《死刑執行人》の目的とは相容れない部分があるのは事実だ。
過去に一度、流星から警告を受けたことがある。『あまり妙な動きをすると、こちらも容赦はしない』と。どちらかと言うと脅迫に近い言葉に、さすがに麗も冷やりとした。
東雲探偵事務所は麗の素性をどこまで知っているのだろう。詳細な情報を掴んでいる可能性がある一方で、何か怪しいと睨んでいるだけかもしれない。だが、麗に秘密があると勘づいているにもかかわらず、東雲探偵事務所は以前と変わらない付き合いを続けていた。
深雪をはじめとしたオリヴィエや神狼といった《死刑執行人》たちは、麗を警戒する素振りすらない。彼らにとって麗はあくまで『ゴースト治療専門の医師』であるようだ。
何故、彼らは麗に『寛容』なのだろう。彼らが《リスト執行》する際の苛烈さを知っているだけに、なおさら不自然に思えてしまう。どんな策略や陰謀もはね除ける自信があるのか、それとも麗を泳がせて情報を引き出そうという魂胆なのか。
(……おそらくその両方だな。《監獄都市》にはまともな医療施設が少ない。中でもゴースト治療に長けた医療従事者は貴重だ。それも影響しているのだろうが……)
石蕗診療所ではCT、MRI、レントゲンをはじめとして胃カメラや腸カメラ心電図や血液検査といった精密検査が概ね可能となっている。中古の医療機器が多いとはいえ、《監獄都市》でもこれほどの設備を揃えている診療所は数えるほどしかない。東雲探偵事務所にしてみれば、怪しい部分に目を瞑ってでも麗と付き合うメリットはあるのだろう。
もちろん東雲探偵事務所と付き合うことは麗にとってもリスクがある。麗の目的や組織の動向を考えると、いずれ彼らと対立する可能性が高いからだ。それでも麗には流星の治療を放棄するという選択肢は無かった。
私情はどうであれ、麗は医師だ。患者を治療し、回復させ、できる限り健康な状態に近づける。相手が誰であろうと関係がない。失われた命は二度と戻ってこないのだから。
その麗の信念や熱意をもってしても、流星を救えそうにはないのだった。
流星はまだ若い。命の価値は年齢で決まるわけではないが、彼が二十代半ば―――今の麗の外見と同じ年齢だと考えても命を散らすには早すぎる。
それに流星はこの診療所を守るため尽力してくれた。石蕗診療所はゴースト治療を専門にしているため、アニムスを持たない地元住人から反感を買いやすく、《アラハバキ》の構成員にタダで治療しろと恫喝されたことも一度や二度ではない。診療所でトラブルが起きるたびに流星は駆けつけ、問題を解決してくれた。それが六道の意向に過ぎなかったとしても―――それでも助けられたのは事実だ。
麗も、できることならこの若者を助けたかったのだが。
ひっそりと溜め息をついていると、唐突に背後で声がする。
「……彼は確か《中立地帯の死神》が擁する《死刑執行人》の一人だったね」
この病室の扉は一度も開いていないし、窓ももちろん開いていない。それなのに、その初老の白人男性はどこからともなく麗の背後に現れた。
いつものこととはいえ、まったく心臓に悪い―――麗は内心でつぶやきつつ声をかける。
「ジョシュア……こちらに来ていたのですか?」
「ああ。東雲探偵事務所は機能不全で《東京中華街》も大混乱に陥っている。ちょうど良い機会なのでね、様子を見に来たんだよ。そろそろ事を起こす準備に取り掛からねばならないからね」
ジョシュア=シェパードはその澄んだ水色の瞳に、秘密の計画を明かす少年のような悪戯っぽい光を湛えてウインクをした。
その長身痩躯に黒いスーツと黒いタートルネックを着こなし、金髪だった髪は白髪へと近づきつつある。その風貌から研究者や学者のようにも見えるが、その自信に溢れた言動は成功した起業家や経営者のようにも見える。
容姿や立ち振る舞いは老成しているものの、彼の瞳の輝きはあまりにも純粋無垢で、その対比がアンバランスにすら感じられる。けれど、そのアンバランスさがジョシュアに俗世を超越した神秘性や絶対性、圧倒的な存在感を与えていた。
ジョシュア=シェパードに出会った者はみなこう思うだろう。「この世に神は存在する」と。麗もそう感じた一人だ。だからこそ、彼を恐ろしいと感じることもある。
ジョシュアの子供のような天真爛漫な瞳を目にし、麗は表情を曇らせた。
「事を起こす準備……例の計画ですか」
「ああ、そうさ」
ジョシュアは冷酷無比沈鬱そうな麗には構わず、ベッドに身を横たえる流星を見下ろしておもむろに尋ねた。
「……ところで彼は赤神流星といったね。病状は?」
「アニムスの酷使による《臨界危険領域者》化を起こしています。このままいけば衰弱死は間違いないでしょう」
「《臨界危険領域者》? あれはもっと激しい症状が出るだろう。赤神流星ほどの高アニムス値のゴーストであれば、それこそ街ひとつ吹き飛ばすほどの『未曾有の大災害』となってもおかしくはない。それなのに彼はいやに静かだが?」
「分かりやすく言えば燃料切れです。暴走するだけの体力やアニムスが残っていないと、稀に衰弱してゆくことがあります。ただでさえ赤神流星はアニムスを酷使しすぎる傾向があったので……」
「なるほど……要するに過労か。日本人の国民病だね」
「それに彼のアペイロン型は希少種で、もともと《アニムス抑制剤》が効きにくい体質でもありました。そのため回復は難しいかと」
「……なるほど。これも運命ということかな」
そう言ってジョシュアは肩を竦める。どうやら流星の生死にあまり関心が無いらしい。
いや、流星だけではない。ジョシュアは人間そのものに興味がない。人類という大きな単位には価値を見出すが、一人一人の人間の命には関心を抱かないのだ。『神』にとっての人間の命など、人間にとっての蟻一匹ほどの重みしかないのだろう。
もっともジョシュアは決して冷酷無比というわけではない。彼には醜い私心などないし、常に人類の存続を最優先に考えている―――そういう風に『できている』。
ジョシュアの性質をよく知るからこそ、麗は余計に気が重たいのだった。
「……それよりジョシュア。その……本当に東京を『核』の力で焼き払うつもりですか?」
その計画はずいぶん前にジョシュアから明かされていた。麗が《監獄都市》に潜伏しているのもその計画をサポートするためだが、いくらジョシュアの命令とはいえ、必ずしも賛同できるものではない。
麗がおそるおそる尋ねると、ジョシュアは瞳を生き生きと輝かせて頷く。
「もちろんだよ。我が偉大なるアメリカは核による洗礼と浄化をその身に受け、大きく生まれ変わった! 東京もより高次の存在へと生まれ変わるのだ。これは崇高なる実験であり、全人類にとって価値ある大革命なのだよ‼」
「革命……ですか」
「そうさ。核兵器の戦略的重要性は低下しつつあるものの、核は依然として畏怖と憧憬を浴びる存在でもある。条件さえ揃えば核武装を望む国々は多くあるだろう。そんな中、核爆発を起こせばどうなるか。物理的な損害はもちろん、それ以上に人類の精神面に大きな打撃を与えるだろう。既存のシステムは大きく揺らぎ、そこにつけ込んで体制を変えようとする勢力も現れる……つまり核は社会を変革するための着火剤になり得るんだ。それがまさに我々の狙いなのだよ!」
「し、しかし……!」
「怖いのか、夏紀? 何をそんなに恐れている? これは人類史にとって偉大なる前進だ。我々はまさに歴史の分岐点……シンギュラリティ・ポイントに立っているのだよ!!」
「……そうかもしれません。ただ……」
「分かっているよ、夏紀。君は《女教皇》である前に一人の科学者であり、医者だ。核を使えばすさまじい数の犠牲者が生み出されることを案じているのだろう? だが、多大な犠牲を乗り越えた先には輝かしい未来が待っているんだ」
「……アメリカを見なさい。多くの破壊と犠牲を経て国家という古い枠組みは廃れ、今や最も自由で先進性のある地域となった。これからの宇宙開発時代をリードする理想的なモデルだ。このアメリカモデルはいずれスタンダードモデルとなり、世界各国へと広がっていく。アメリカの成功が人類史の成功となって永遠に歴史に刻まれるんだ。東京もその仲間入りをするだけの話だよ。それは大変、光栄なことではないかな?」
「……」
麗には分からない。どれだけ学問を習得し、どんなに高度な医療技術を身に着けても、それでもジョシュアの思考をすべて理解するのは難しい。彼の判断は常に的確で、怖ろしいほどぴたりと未来を言い当てる。まるで神話に出てくる予言者のように。
だが、彼が行っているのは予言ではなく、正確に言えば『創造』だ。ジョシュアは『人類にとってあるべき未来』を思索し、数限りなくある可能性の中から最適解を算出し、その導き出された最適解を確実に実行することで世界を創造している。
ジョシュアは未来を言い当てているのではない。ジョシュアの設計した通りに世界が動かされているのだ。
ジョシュアは人類に『審判』を下していると言っても過言ではない。それがどれほど残酷な選択であったとしても受け入れなければ。そう―――すべては人類の未来のために。
「それにしても……このタイミングで赤神流星が死亡するとは朗報だ。彼は東雲探偵事務所の主力であり、他の《死刑執行人》をまとめる司令塔の役割を負っていたからね。赤神流星が欠けたらおのずと《中立地帯の死神》の戦力も低下し、我々にとっては計画が進めやすくなる。だから彼には、このまま大人しく退場願うこととしよう」
上機嫌なジョシュアとは対照的に、麗はどうしても彼の考えに首肯することができない。『計画』のことも、流星のことも、彼のように割り切ることなどできない。それに気づいたのだろう。ジョシュアが麗の顔を覗き込んでくる。
「どうしたんだい、夏紀? 浮かない表情をしているね」
「いえ……」
「分かるよ。君は医者だ。どのような立場の人間であれ、患者の死には良い思いを抱かないのだろう。だが、我々の目的のためには必要なことなんだ」
「分かっています、ジョシュア。私たち《アイン=ソフ》は人類をあるべき未来へと導かなければならないのですから……そうですよね?」
そもそも麗にはジョシュアの計画を阻む力などないし、彼の意向に逆らうこともできない。最初から麗には選択肢など無いのだから。逆らえば最後、《アイン=ソフ》に存在を抹殺されるだけだ。
ジョシュアは麗の答えに満足したのか、嬉しそうに微笑んで彼女の肩を叩く。実に信頼のこもった温かい仕草で。
「ああそうだ。その通りだよ、夏紀。……さて、僕はもうそろそろ行かなければ。君はこの街で引き続き情報収集を続けてくれ。この街を焼き払う前に例のアニムス……《レナトゥス》だけは回収しておきたいからね」
「分かりました」
そう言ってジョシュアは鷹揚に頷くと後ろ手を組み、その瞳に赤い光を灯らせる。次の瞬間、ジョシュアは何の前触れもなく、まるで幻のように掻き消えてしまった。アニムスを発動させ、空間を転移したのだろう。
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