分岐点

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 ジョシュアが立ち去った病室で麗は小さく溜め息をついた。彼がどこへ向かったのか分からない。ジョシュアは《関東大外殻》を越えて《壁》の中と外を自由に行き来できるし、瞬きほどの刹那(せつな)で地球上のありとあらゆる場所に移動できるのだ。  いかなる国家や諜報機関であろうともジョシュアの位置を特定し、把握することはできない。しかも彼の凄まじさはそれだけではない。  ジョシュアは神出鬼没(しんしゅつきぼつ)だ。事前に連絡が来ることは滅多にない。ジョシュアが麗の前に現れるのは、決まって彼女が一人きりの時だ。おそらくジョシュアは麗の行動をすべて把握しているのだろう。  なにせジョシュアは全世界に存在する人類を二十四時間、三百六十五日、監視することも可能なのだから。  その中には《監獄都市》で生きる人々―――《収管庁》や《レッド=ドラゴン》、《アラハバキ》、そして東雲探偵事務所の《死刑執行人(リーパー)》も含まれる。それらはジョシュア=シェパードの持つ『力』のごく片鱗に過ぎないのだ。  どれだけ科学が発展しようとも、人は『神』には逆らえない。概念上の『神』は克服(こくふく)できたとしても、『神』の如きシステムからは逃れられないのだ。  科学の発展が、そして人類の宇宙進出が、世界に新たな『神』を降臨(こうりん)させてしまった。もう誰もその流れには逆らえない。  麗は眠り続ける流星を見下ろしながら内心でひっそりとつぶやく。 (私はジョシュアの命令には逆らえない。……悪く思うな、赤神流星。ジョシュアも言っていた通り、これも運命なんだろう……)  すると病室に再び忽然(こつぜん)と人影が現れた。麗はぎょっとして視線を転ずる。  そこに立っていたのは一人の少年だった。先ほど立ち去ったジョシュア=シェパードと同じ瞳の色に、黒いスーツに黒いタートルネックという同じ服装。肌の色や顔の造形も瓜二つで、まさに複製体(クローン)のようだ。  違いがあるとすれば年齢が若いことだろうか。いや、幼いと言ってもいい。瞳はぱっちりと大きく、鼻や唇は小ぶりで顔立ちも丸みを帯びている。背丈も麗の胸までしかなく、一見すると良家の子息のようだ。  その瞳は澄み切っているものの、子どもとは思えないほどの老練(ろうれん)した光を宿している。そのアンバランスさが神秘性やカリスマ性を感じさせるところも、先ほどのジョシュアと共通していた。 「《知恵(コクマー)》のジョシュア……! どうしたのですか、このようなところに……!」  麗が驚いて尋ねると少年―――ジョシュア=シェパードは口を開いた。声変わりする前の、少女のような透明なハイトーンボイス。けれど、その口調は落ち着きと思慮深さを兼ね備えており、どこか浮世離れしていた。 「つい先ほどまで《王国(マルクト)》のジョシュアが来ていたようだね?」 「え……ええ、今しがたお戻りになりました」 「彼は何と?」  麗は老齢のジョシュア=シェパード―――《王国(マルクト)》のジョシュアと流星の処遇(しょぐう)について話したことを正直に明かす。それから老齢のジョシュアがいよいよ『計画』を実行に移すつもりであることも。  目の前の幼いジョシュア=シェパード―――《知恵(コクマー)》のジョシュアは黙ってそれに耳を傾けたあと、眠る流星を見下ろして言った。 「……そうか。彼は例の計画のためには、この若者に死んでもらった方が都合が良いと、そう言ったんだね?」 「ええ、確かにそのように仰いました」 「ふむ……それなら僕は逆に彼を生かすこととしよう」 「よろしいのですか?」  それは老齢のジョシュアが下した『審判』に逆らうことではないか。そんな真似をすれば、いくら《シェパード=シリーズ》の一柱とはいえ、この幼いジョシュアもただでは済まない。  麗の頬を一筋の汗が伝い落ちる。けれど幼いジョシュアは柔らかく微笑むのだった。 「《王国(マルクト)》の力は絶大だ。我ら《アイン=ソフ》の中でも群を抜いて、もはや超越的だと言っていい。彼に対抗するためには……《王国(マルクト)》の計画を(くじ)くためには、どんな些細な抵抗も試みなければ」 「たとえ赤神流星が生き延びたとしても、必ずしもあなたの―――いえ、私たちの望む通りに動くとは限りません」 「それでも試してみる価値はある。《王国(マルクト)》のジョシュア……彼の計画を阻止できるのは人の持つ無限の可能性だけだ。死すべきと判断された者を生かす……それはたとえ小さな一石に過ぎなくても、波紋となって広がり、世界に大きな影響を与える可能性を秘めている。だから僕は十分意味があると思っているよ。他の《ジョシュア=シェパード》がどう判断するかは分からないけれど、少なくとも『彼』―――《知識(ダアト)》はきっと僕の考えを理解してくれるだろう」 「だとしても、まだ問題があります。赤神流星のアペイロン型は……」 「それも分かっている。君にこれを渡しておこう」  そう言って幼いジョシュアの瞳が赤く光ったかと思うと、彼の右の手の平に突然、小さな医療用キットが現れた。《知恵(コクマー)》のジョシュアが手渡してきたキットを、麗は戸惑いつつ受け取る。 「これは……?」 「ワシントンD.C.で開発され、今年、認可が下りたばかりの最新型の《アニムス抑制剤》だ。現段階で確認されている全てのアペイロン型に対応している。もちろん、そこで眠っている彼にも効くだろう」 「……」  つまり、この最新型の《アニムス抑制剤》を使えば流星は助かるのだろう。だが、麗は純粋に喜ぶ気にはなれなかった。何故なら老齢のジョシュアは流星の生存を望んでいないからだ。彼の意に反する行動を取れば、あとあと厄介なことになるのではないか。  麗の葛藤(かっとう)を見透かしたように、幼いジョシュアは鋭く問うた。 「……迷っているのかい、夏紀?」 「いえ……」 「それをどうするか君自身が決めるといい……この若者を死なせるのか、それとも新型の《アニムス抑制剤》を使って生かすか。すなわち《王国(マルクト)》の手を取るか、《知恵(コクマー)》であるこの僕の手を取るか」  幼いジョシュアの静かで透明な眼差しが、じっと麗に注がれる。どこか人形めいた無機質な瞳。そこに彼の感情や思惑が無いからこそ、麗の姿が鏡のように映し出される。  この選択は幼いジョシュアに強制されるものではない。あくまで麗が選び取るものなのだと。  麗はごくりと喉を鳴らした。この《アニムス抑制剤》をどうするか。その選択次第で麗の運命が決定づけられる。それは赤神流星のみならず、《監獄都市》の未来をも左右することになるかもしれない。  どちらかを選んでしまったら、残る片方を選ぶことは二度とできない。この選択が重要な分岐点になるのだと考えると、やはり緊張を禁じえなかった。  ところが突如、腕輪型端末がピロンと音をたてる。静まり返った部屋にのん気な電子音が鳴り響き、びくりとした麗は反射的にジョシュアのほうを見る。 「どうぞ、僕のことは気にしなくていい」 「すみません」  ジョシュアに断って端末を操作すると、ドアホンからの知らせだった。診療所の玄関を誰かが訪問しているらしい。  この街は非常に物騒で夜間は危険なため、常に玄関に鍵をかけるようにしている。麗が端末を操作しなければ、開錠できない仕組みになっているのだ。  麗は腕輪型端末を操作すると、ドアホンのカメラ機能を立ち上げる。そこに映っていたのは東雲探偵事務所の《死刑執行人(リーパー)》、深雪とシロだった。 「お前たち、こんな遅い時間にどうしたんだ?」  応答すると、深雪がカメラに向かって口を開く。 「すみません、石蕗先生。俺たち流星の付き添いに来たんです。入ってもいいですか?」  東雲探偵事務所には流星は今夜が山だと伝えてある。それを聞いて居ても立ってもいられず駆けつけたのだろう。麗がちらりと視線を送ると、ジョシュアは頷きを返した。彼らをこの病室に通しても構わないというサインだ。それを確認してから麗は深雪に告げる。 「待っていろ。今、鍵を開ける」 「ありがとうございます」  麗が玄関を開錠し、マイクをオフにするのを待っていたかのように、ジョシュアが口を開いた。  あれほど無機質だった瞳が、深雪の姿を目にするなり生き生きと輝きを放ちはじめる。その好奇心に溢れた表情を見ると、やはり彼も老齢のジョシュアマルクトと同じ、《シェパード=シリーズ》の一柱なのだと実感してしまう。 「彼が例の少年……雨宮深雪だね?」 「ええ」 「《レナトゥス》の使い手である彼もまた大いなる可能性の一つだ。その可能性は未知であり、我々にとっては危険な存在でもある。彼は我々の敵になるのか。今後、慎重に見極めていく必要があるだろう。『彼』も……《知識(ダアト)》もまた《レナトゥス》の保持者である少年と話をしたがっている」   麗は思わず息を呑む。 「……! 『彼』が深雪に興味を……?」 「もちろんだ。《レナトゥス》はある意味で『彼』の存在意義をひどく脅かすものだからね」 「……」  《王国(マルクト)》に《知恵(コクマー)》―――《雨宮=シリーズ》にいくつもの複製(クローン)が存在するように、《シェパード=シリーズ》にも多くの柱が存在する。中でも《知識(ダアト)》と呼ばれるジョシュア=シェパードは謎が多く、麗も人づてに名を聞いたことはあるが、その姿を目にしたことはない。  《シェパード=シリーズ》で圧倒的な権力を持つのが《王国(マルクト)》のジョシュアだとすれば、《知識(ダアト)》は《シェパード=シリーズ》最大のブラックボックスだと言える。 (その《知識(ダアト)》が深雪を……)  麗は《知識(ダアト)》のジョシュアがどのような性格か知らない。どのような考え方をし、何を目的に動き、どんな未来を描いているかも分からない。だから《知識(ダアト)》が深雪に抱いている好奇心が良いものか悪いものかも判別がつかないのだった。 「……さて、僕はそろそろ行くことにするよ。二人がもうすぐここへやって来る。今はまだ僕たちの存在を知られるわけにはいかないからね」 「分かりました。どうかお気をつけて」  麗が答えると、幼いジョシュアは念を押すようにつけ加える。 「……いいかい、夏紀(なつき)。君は君の望む選択をしてもいいんだ。君が《女教皇(ギーメル)》になったのは何も《ジョシュア=シェパード》の傀儡(かいらい)になるためではないだろう? 《女教皇(ギーメル)》としての使命が全てではない。君には君の未来があるのだから」 「ジョシュア……」  ジョシュアは静かに微笑んだ。決して無理強いするわけでもなく、冷酷に突き放すわけでもない。彼は彼なりに理想や目的を抱いているが、《王国(マルクト)》のように「世界の全てを支配してでも理想を実現すべき」とは考えていないのだろう。  柔軟であり、寛容であるが、それ故に脆弱性(ぜいじゃくせい)(はら)んでいる。それが《知恵(コクマー)》のジョシュアなのだ。  それからジョシュアは瞳を赤く光らせると、たちまち姿を掻き消した。麗はただ黙ってそれを見つめていた。 (私の未来か……)  先のことなど考えたことも無かった。麗の動機は、いつだって過去にあったから。  過去を憎み、過去を清算し、過去から逃れたくて麗は《女教皇(ギーメル)》となった。《アイン=ソフ》に接触した際も、斑鳩夏紀(いかるがなつき)という名を喜んで捨てたくらいだ。赤神流星を見捨てられないのは、彼の過去に捕らわれた生き方が、どこか麗自身と重なるからかもしれない。  皮肉なことに、未来など一度も望んだことのない麗の手に、今ひとつの未来が託されている。《知恵(コクマー)》から手渡された最新型の《アニムス抑制剤》という形をして。
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