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不意に手の中に転がり込んできたそれを、麗はどうすべきか判断を下すことができない。困惑したまま考えあぐねていると、そこへ深雪とシロが駆けこんでくる。
「すみません、石蕗先生! 夜分遅くに……!」
「先生、流星が死んじゃうかもしれないって本当⁉」
二人揃って今にも泣きだしそうな顔で麗に詰め寄った。流星を心から慕っていたのだ。二人がなんとか回復して欲しいと願うのは当然のことだろう。
まだ決断を下す勇気がない麗は二人の目を直視するのが心苦しくて、思わず視線を逸らしてしまう。
「あ……ああ。衰弱が激しくて、かなり厳しい状態が続いている」
そう答えると深雪とシロは表情を強張らせ、肩を落とした。
「……!! そうですか……」
「流星……!」
二人はどちらからともなく眠り続ける流星に寄り添うと、力なく横たわった手を握りしめながら涙をこぼす。
彼らは《死刑執行人》であり、深雪にいたっては監視対象の一人だが、この時に限っては泣きじゃくるただの子どもに過ぎなかった。そんな二人の姿に心が痛まないほど、麗も無情ではない。
(しかし……《王国》のジョシュアに逆らうわけには……!)
麗とて、できるなら流星を助けてやりたい。その方法はこの手の中にあるのだ。流星にはそれなりに恩もあるし、深雪やシロに辛い思いをさせるのは可哀想だと思う。
だが、麗にはどうしても―――何があっても果たさなければならない目的があるのだ。《アイン=ソフ》と接触し、《女教皇》となるのがいかに大変だったか。《王国》のジョシュアがいかに恐ろしい存在であるか。それを考えても迂闊に踏み切る気にはなれない。
仕方がない。人は全てを望み通りにすることはできない。何かを選べば必然的に何かを切り捨てることになる。
そう自分に言い聞かせると、麗は最新型の《アニムス抑制剤》を白衣のポケットにそっとしまい込み、深雪とシロを残して病室をあとにしよう扉に手をかける。だが、その背中に悲痛なまでの二人の嗚咽が追い縋る。
「流星、死んじゃヤダ! お願い、いかないで……!!」
「ごめん、流星……俺のせいで……!!」
その悔恨のこもった言葉に、麗ははっと目を見開いた。
『お祖父ちゃん、ごめん……! 私のせいで……ごめんね……!!』
麗の脳裏に蘇ったのは、もう四十年近くも昔の記憶。麗の祖父である斑鳩夏人が他界した時のことだ。
斑鳩夏人は当時、まだ珍しかったゴースト研究に携わっていたことが原因で帰らぬ人となった。世間一般では自殺か事故死ということにされているが、麗は祖父が何者かに殺害されたのだと知っている。
何故なら―――祖父の暗殺を裏で仕組んだ黒幕こそが《アイン=ソフ》だからだ。
あれから四十年の歳月が過ぎた。当時の《アイン=ソフ》の誰が祖父の暗殺を指示し、実行したのか。《アイン=ソフ》の一員―――《女教皇》となっても真実は闇の中だ。
誰が祖父を殺したのか。それを突き止めるためだけに麗は生きていると言っても過言ではない。己のすべてを投げうってでも真実を解き明かす。何故なら祖父が殺された一因は、麗自身にもあるからだ。
斑鳩夏人がゴースト研究に乗り出したのは、今後、増えるであろうと予想されるゴーストの治療法を探り、確立させるためだが、もう一つ別の理由があった。
祖父の夏人はアメリカ留学中にゴーストとなってしまった孫の斑鳩夏紀――『石蕗麗』を治療したかったのだ。
自分がゴーストとなってしまったばかりに祖父はゴースト研究に乗り出し、結果として殺されたのではないか。そう思い詰め、ずっと後悔し、罪悪感を背負いながら麗は生きてきた。
涙を流して流星に詫びる深雪の姿が、祖父を亡くした自分の姿と重なる。
(私は……!)
この瞬間、麗の決意は固まった。病室の扉の前で踵を返すと、最新型の《アニムス抑制剤》のキットを握りしめながら、わざと明るい声を出して流星のベッドに歩み寄る。
「ほらほら、なにを辛気臭い顔をしているんだ、二人とも。確かに赤神の病状は深刻だが、何も手立てがないわけじゃない」
そう言って二人の目の前でキットを開封する。その箱には《A.S.A.》というアメリカ東海岸に本社を置く巨大企業のロゴが刻まれている。
中に入っていたのは厳重に密封された一本の注射器だ。そのシリンダーには透明な青い液体―――《アニムス抑制剤》が満たしてある。深雪は泣き腫らした顔を上げると目を瞬いた。
「その青い液体は……《アニムス抑制剤》ですか?」
「アメリカから取り寄せた最新型の《アニムス抑制剤》だ。現時点で最も効くと言われているから、赤神にも効果はあるだろう」
麗が注射器を取り出しながら答えると、シロと深雪は揃って顔を輝かせた。
「本当? 流星、助かるの!?」
「絶対と約束することはできんが、可能性は高いな」
「良かった……!!」
深雪とシロは肩を寄せ合い、互いに励ますようにして手を握りしめる。心から喜び合っているのだろう。まるで息を吹き返したかのように二人とも頬が紅潮し、潤んだ瞳は生気に満ちている。
深雪はふと麗へ視線を向ける。
「でも先生。そんなにすごい薬なら、かなり値段も張るんじゃ……?」
「お前たちは気にしなくていい。治療にかかった費用はすべて事務所に請求することになっているからな」
そう言って麗がウインクをすると深雪とシロは少しだけ笑った。流星が助かるかもしれないと分かって元気が出たのだろう。冗談にも笑う余裕がでてきたのだ。
麗はさっそく流星に最新型の《アニムス抑制剤》を投与する。作業はあっという間に終わった。注射を一本打つだけなのだ。この最新型の《アニムス抑制剤》を流星に投与するかどうか、あれほど悩んだことを考えると、あまりにも呆気なさすぎて拍子抜けしてしまう。
「さあ、これで少し様子を見よう」
「流星、頑張れ!!」
「大丈夫だよ、きっと。流星は強いから回復するって信じよう」
「うん! シロも信じる!」
最新型の《アニムス抑制剤》がどれほどの効果を発揮するのか。麗自身、目にするのは初めてだったが、《アニムス抑制剤》を投与してからわずか一時間後、流星が目を覚ましたのだった。
(どの《アニムス抑制剤》も効果が見られず、いつ息を引き取ってもおかしくなかったのに……この最新型は凄まじい効き目だな……)
麗は息を呑む。同時にこの最新型の《アニムス抑制剤》を開発した巨大企業、《A.S.A.》の科学技術力の高さに敬服せずにはいられない。
彼らは高い技術力や開発力を有するのみならず、政治や軍事、国際情勢においても影響力を発揮しており、今や国家をしのぐほどの力を持っている。企業そのものが独立した国家であり、いわば完全独立主権型の企業国家。
その《A.S.A.》社という新たな『国家』を統べるのが《アイン=ソフ》なのだ。その《A.S.A.》社すらも《アイン=ソフ》の操る駒のひとつに過ぎない。
《アイン=ソフ》は世界を統べる『王』であり、『法』であり、『神』である。彼らの力は圧倒的で、もはやあらゆる国や機関の追随も許さない。世界を網羅したネットワークと飛び抜けた科学技術力が、彼らを『神』たらしめているのだ。
一方、流星はうっすらと見開いた目を彷徨わせ、掠れた声でつぶやいた。
「……。ここは……?」
「流星、気がついた!?」
「シロのこと分かる!? ユキも一緒だよ!!」
流星が目を覚ますや否や、シロは顔を覗きこんだ。頭上の獣耳が、これ以上ないほど嬉しそうにはねている。深雪も嬉しさあまって身を乗り出した。
「本当に良かった……! もう二度と目を覚ますことはないかと……!! ありがとうございます、先生!!」
「先生、ありがとう!!」
「気にするな、私は医者として当然のことをしたまでだ」
シロと深雪は互いに手を取りあい、飛び上がらんばかりにはしゃいでいる。流星も状況は掴めていないものの、意識は完全に取り戻している。
そんな中、麗はただ黙って三人の姿を見つめていた。
(科学の力はまさに無限だな。無限の可能性……《アペイロン》か。同じ『可能性』であるはずなのに、片や希望を生み、片や絶望を生む。実に皮肉なものだな)
その落差は宇宙進出時代の到来によってさらに広がった。宇宙からもたらされる宇宙鉱物は科学技術の進歩や文明の発展速度をこれまで以上に押し上げ、より多くの弊害も生み出すようになってしまった。
その最たるものがゴースト出現による世界情勢の不安定化と混迷化だろう。
その流れからは何人たりとも無縁ではいられない。たとえば流星は科学技術の粋を集めて生み出された《進化兵》によって生死の境をさ迷ったが、科学技術が生み出した最新型の《アニムス抑制剤》によって一命を取り留めた。
(いや……希望と絶望はコインのように表裏一体で、ただ捉え方によって異なって見えるだけなのかもしれない。ヒトのもつ善性と悪性が、すべての事象にそのような二面性を生み出してしまうのか……いずれにせよ、私たち人類が『彼』と出会ってしまった瞬間、この未来は決定づけられていたのかもしれないな……)
そして麗の未来も、この瞬間に決定づけられたのかもしれない。
麗は最新型の《アニムス抑制剤》を投与し、流星を救うことを選んだ。《王国》のジョシュアではなく、《知恵》のジョシュアの手を取るほうを選んだのだ。
未来がどうなるのか麗にも分からないが、この先何が待っていようとも今日この時の決断を後悔するつもりはない。
実のところ、麗は《知恵》を選んだわけでもなければ、赤神流星を助けたかったわけでもない。
『ごめん、流星……俺のせいで……!!』―――深雪の放ったその言葉こそが麗に決断へと踏み切らせた。
麗はただ自分と同じ苦しみを―――自分のせいで大切な人を死なせてしまったという悔恨を背負って生きる者を生み出したくなかったのだ。
本当にただそれだけだった。
《第11章 終わり》
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