【黒蛇水サイド】 万武の末路

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【黒蛇水サイド】 万武の末路

 深雪たちが紅龍芸術劇院から脱出を図っていた頃、炎を噴き上げる劇場から逃げようと足掻(あが)く者がもう一人。  万武(ワン・ウー)は第三ホールから命からがら逃げ出したあと、さんざん劇場内をさ迷ったあげく、深雪たちとは真逆の方向―――西側非常口に到達していた。  ただでさえ《血の誓約(ブラッディ=プレッジ)》によるダメージも抜けきっていないのに、アニムスを失った反動が加わり、万武は弱りきった体を引きずるようにして暗がりの中を進んでゆく。  炎に包まれた劇場を()()うの(てい)で逃げだしたものの、酸欠と脱水に見舞われて倒れそうになる己を叱咤(しった)しながら、誘導灯(ゆうどうとう)を頼りにどうにか出口までたどり着いたのだ。  非常口を示す誘導灯(ゆうどうとう)は薄暗く煙が充満する中でも光を放っており、万武にとってまさに一筋の光明(こうみょう)だ。 「へ……へへへ、これでようやく劇場から逃げられる! まったく……ひどい目に遭ったぜ。せっかくのし上がるチャンスだったのに、どいつもこいつも役立たずで、俺の足を引っ張りやがって! こんなクソみてえな街はもうこりごりだ!!」  《東京中華街》を離れても生きて行くことはできる。実際、《東京中華街》に馴染めなかった華僑系ゴーストの中には外国人街や中野区、もしくは足立区・葛飾区・墨田区で暮らしている者もいる。  ただし、《レッド=ドラゴン》の後ろ盾もなく、日本人のコミュニティに混じって暮らすため、生活レベルが格段に落ちることは否めないが。 「こうなりゃ《東京中華街》の外のほうが気楽でいいかもな。絶対に生き延びて、この街とオサラバしてやるぜ!!」  そう吐き捨てながら、万武は煙に包まれつつある薄暗い廊下を壁伝いに進んでゆく。あともう少しで劇場の外だ。  ようやく非常扉が見えてきたというその時、闇から浮かび上がるようにして人影が現れた。全身を黒い服で覆った男―――黒家の諜報部隊、《月牙(ユエヤー)》の頭領(とうりょう)である老人、鼯鼠(ウシュ)だ。  鼯鼠(ウシュ)万武(ワン・ウー)の行く手を(さえぎ)るかのように立ちはだかると、低い声で告げるのだった。 「……そうはさせんぞ」  万武は(ヘイ)家に出入りしていたため鼯鼠(ウシュ)の存在も知っている。だが何故、この老人が脱出の邪魔をするのか。万武は苛立って声を荒げる。 「何だあ、てめえは!? そこをどけ! 俺が外に出られねえだろ!!」 「悪いが退くつもりはない。お前にはここで死んでもらうのだからな」 「なに言ってやがる!? てめえは(ヘイ)家の手先だろ!? まあ紅神獄(ホン・シェンユイ)の暗殺にはちっとばかり失敗しちまったが……それでも俺たちは仲間だろうが!」  すると、それまで淡々としていた鼯鼠(ウシュ)の声ににわかに侮蔑(ぶべつ)の色が混じった。 「儂と貴様は仲間という対等な立場ではないのだが……まあいい。せっかくだから冥土(めいど)の土産に教えてやろう。すべては黒蛇水(ヘイ・シャスイ)さまと黒彩水(ヘイ・ツァイスイ)さまの計画なのだ。お前が紅神獄(ホン・シェンユイ)の息の根を止めること。暗殺が成功するか否かに関わらず、お前を殺すこと……これは最初から決まっていたのだ」 「下らねえことを……蛇水さまがこの俺を見捨てるわけがねえだろ! 蛇水さまはな、俺を英雄にしてくれると仰ったんだ!! そして力を与えてくれた!! 黄鋼炎(ホワン・ガイエン)ですら歯が立たねえほどの力をな!!」  鼯鼠(ウシュ)は「その通りだ」と言って頷いたあと、冷徹に指摘する。 「だが貴様は蛇水さまの期待を裏切った……違うか?」 「……!!」  ようやく事態を呑み込んだのだろう。万武はバツの悪そうな顔をして視線を()らすものの、鼯鼠(ウシュ)詰問(きつもん)は止まらない。 「お前は黄鋼炎(ホワン・ガイエン)を殺したか? 紅神獄(ホン・シェンユイ)にとどめを刺したか? そのどちらも中途半端(ちゅうとはんぱ)に終わり、何も成し遂げておらん。あれほど目をかけてやったのに、すべてを無駄にしたお前を蛇水さまがお許しになるとでも?」  返答に(きゅう)した万武は、己の失態(しったい)を誤魔化すようにへらっと笑う。 「ま……待ってくれよ! 確かに俺は紅神獄の暗殺に失敗したが、失点は必ず取り戻す! もう一度だけチャンスをくれ!!」 「馬鹿な奴め……お前は紅神獄を排除するための駒に過ぎん。余計な情報を漏らさないよう口を封じるためにも、ここで死んでもらう。お前の運命は最初から決まっていたのだ」  鼯鼠(ウシュ)の返事は冷ややかで、文字通り、取りつく島もない。万武はようやく悟る。目の前の老人が口にしたことは事実であり、用済みとなった自分は切り捨てられようとしているのだと。 「な……何だよ、そりゃ! あり得ねえだろ、そんな話‼ てめえが俺の運命を勝手に決めてんじゃねーよ!!」  あまりの理不尽に耐えかねて万武は怒号を上げるものの、それを聞いても鼯鼠(ウシュ)は顔色ひとつ変わらない。 「自分の頭で考えず、相手の腹の内も読めず、さりとて従順さや忠誠心があるわけでもない。楽して自らを利することしか頭にない愚か者は、都合よく操られるしかないのだ。恨むなら己の無能を恨むがいい」 「ぐ……くっそおおおお!!」  歯ぎしりしながら叫んだ万武は、ふと紅神獄の口にしていた忠告の数々を思い出した。 『黒蛇水(ヘイ・シャスイ)黒彩水(ヘイ・ツァイスイ)も冷徹で残忍、目的のためには手段を選ばぬ者たちです。私を殺したあなたを……私の殺害計画を知っているあなたを彼らが生かしておくはずがありません! よく考えなさい! なぜあの二人が自ら手を汚すことを選ばず、あなたに私の殺害を命じたのかを!!』 『……事が終われば、あなたは口封じのために殺される! あなたはただ黒家の野望のために利用されているのです!!』   『黒家が忌避(きひ)されてきたのは偶然でもなければ嫌がらせでもありません! すべては彼らがしてきた悪行の数々と残虐性ゆえのことです!! 他家に警戒されるだけのことを、さんざん行ってきたからです!!』  あの時、万武(ワン・ウー)は何を馬鹿げたことを言っているのかと神獄を嘲笑(あざわら)った。この女はこの期に及んで何とくだらない妄言(もうげん)を吐くのかと。そうまでして我が身が可愛いのかと。  しかし、それは誤りだった。彼女は何ひとつ嘘は口にしていなかったのだ。 「そうか……紅神獄(ホン・シェンユイ)の言っていたことは正しかったのか! 馬鹿なババアだと思っていたが、馬鹿は俺の方だったのか……!」  茫然(ぼうぜん)とつぶやく万武を鼯鼠(ウシュ)は鼻先で笑い飛ばす。 「やれやれ……今ごろ気づいたか。お前のような踊らされるだけの、救いようのない愚か者が六華主人になるだと? 片腹痛いわ!」 「ぐぬぅ……うるさい! うるさい!! 黙れ!!」  負け犬のごとく歯をむき出して吠える万武を、鼯鼠(ウシュ)(あわ)れみのこもった眼差しで見下す。 「それにしても……哀れなものよ。あの女といい黄鋼炎といい、お前のようなゴロつきのせいで命を落とすとは。二人とも、あの世でさぞや悔しい思いをしていることだろう」  すると紅神獄(ホン・シェンユイ)黄鋼炎(ホワン・ガイエン)は死んだのか。そういえば黄鋼炎は途中から何か様子がおかしかった。あの時は気づかなかったが、ひょっとすると鼯鼠(ウシュ)が毒でも仕込んだのかもしれない。  万武は憤りをこもった目で鼯鼠(ウシュ)を睨みつける。 「てめえ……俺を騙して利用したあげく何てことを言いやがる! 街をしっちゃかめっちゃかにした張本人(ちょうほんにん)のくせに良心が痛まねえのか!? この悪党が!!」 「その悪党の甘言(かんげん)(そそのか)され、街を破壊する計画に加担したのはどこのどいつだ? 自分には非が無いとでも? まったく……どの面下げて(ヘイ)家を批難しておるのだ?」  鼯鼠(ウシュ)は心底、あきれ果てたように息を吐くが、すぐに冷徹な暗殺者の顔を取り戻す。 「……まあいい。お前にはここで死んでもらわねばならん。幸い、劇場は火に包まれている。この炎がお前もろとも焼きつくしてくれるだろう」  それを聞いた万武(ワン・ウー)は一変して顔を青ざめさせる。劇場の外に出るには鼯鼠(ウシュ)を倒さねばならないのに、アニムスを失ったあげく、これといった武器も持たない万武には何ひとつ対抗手段が無いのだ。 「ふざけんな! そこを退け、ジジイ!! 俺は絶対、外に出る! こんなところで死んでたまるか!!」  万武はそう叫ぶと鼯鼠(ウシュ)に突っ込んでいった。相手は所詮(しょせん)、足腰の弱った老人。どんなアニムスを持っていようとも力づくで倒せない敵ではない―――その(おご)りと油断が万武に一連の行動を取らせたのだ。  だが、老いてもなお現役の暗殺者である鼯鼠(ウシュ)が、万武の攻撃を避けられぬはずがない。万武の体当たりをひらりとかわし、難なく背後へ回ると《チャンネル(アニムス)》を発動させた。万武の背中にある経穴(けいけつ)を三つ、軽やかな手つきで突く。  その刹那、万武は膝から崩れ落ち、へたり込んでしまった。慌てて立ち上がろうと試みるも、足にまったく力が入らない。腕もだらりとぶら下がるばかりで持ち上がらない。まるで自分の身体ではないかのように言うことを聞いてくれないのだ。 「な……何だ!? 足に力が入らねえ……? くそくそっ! どうなってやがる!?」 「お前の経絡(けいらく)の流れを断ったのだ。儂が経穴(けいけつ)を突くまで、お前の足が動くことはない」 「何しやがんだ、ジジイ! これじゃ本当に焼け死んじまうじゃねーか!!」  鼯鼠(ウシュ)はくるりと(きびす)を返すと、冷ややかな声で吐き捨てる。 「馬鹿は死んでも治らないというが……まことに真実よの。万武よ、生きながらにして焼かれるがいい。儂は退避させてもらう。巻きぞえはご免なのでな」  万武の背後では赤々とした火炎が龍のようにとぐろを巻き、すべてを呑み込まんとばかりに迫っている。逃げ出すことも、身動ぎすらできず、この場に残されたらどうなるのか。万武の顔から音を立てて血の気が引いてゆく。 「待ってくれ! 俺を置いて行かないでくれ!! 何でもする! 何でも言うことを聞く!! 分不相応(ぶんふそうおう)な野望を抱くなと言うなら従う!! だから俺も連れて行ってくれ!! せめてこの拘束を解いてくれ!!」  泣き叫ぶ万武(ワン・ウー)をもはや一顧(いっこ)だにすることもなく、鼯鼠(ウシュ)は巨大な炎の塊と化しつつある紅龍芸術劇院を立ち去るのだった。  劇場の西側非常口に残されたのは、万武ただ一人。  じりじりと火の手が迫り、やがて西側非常口もあっという間に荒れ狂う炎の渦へと呑み込まれてゆく。建物が燃え崩れる凄まじい音、全身の皮膚を炙られるような灼熱の炎。息を吸おうとするたびに、凄まじい痛みとともに肺が焼かれる。  それでも頑として動こうとしない四肢に万武は半狂乱に陥った。 「た、助けてくれ! 死にたくねえ!! 頼む、誰か助けてくれええぇぇぇぇぇぇ!!」  万武は底なしの絶望に突き落とされる。このまま生きながらにして身を焼かれるくらいなら、いっそのこと一息(ひといき)に殺されていたほうがマシだ。剛炎がいよいよ万武を引きずり込もうと、その魔手を伸ばしてくる。  助けてくれ―――誰か俺を地獄から救い出してくれ。  だが、万武に手を差し伸べる者はいない。何故なら万武が自ら投げ捨ててしまったからだ。  力を貸してくれる仲間も、親切な者の冷静な忠告も。万武は不必要なものとしてぞんざいに扱い、利用するだけ利用して打ち棄ててしまった。一度、失ってしまったものは二度と元には戻らない。 「うわああぁぁぁぁぁぁぁ!!」  絶望に打ちひしがれて泣き叫ぶ万武の上に、炎とともに瓦礫が降り注ぐ。  その直後、巨大な爆発が巻き起こり、紅龍芸術劇院のすべてを吹き飛ばしてしまった。東側非常口にいる深雪たちが脱出しようと起こしたバックドラフト現象―――その大爆発が万武のいる西側非常口にも及んだのだ。  すさまじい爆炎が万武もろともに一部始終を―――紅龍芸術劇院で起きたことすべてを有無を言わさず呑み込んでいく。  もっとも万武にとってはその方が幸せだったかもしれない。これ以上、正気を失うほどの灼熱地獄にさらされずに済んだのだから。
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