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【深雪サイド】 真の黒幕
騒ぎが大きくなる前にこの場を離れなければ。雨宮や碓氷に続いて歩きはじめた深雪は、ある事に気づいて立ち止まる。
みなが移動する中、ただ一人、オリヴィエだけがついて来ないのだ。どうしたのだろう。歩けないほど衰弱しているのかと深雪が心配して振り返ると、オリヴィエは足を止め、《東京中華街》の中心部をじっと見つめていた。確か黄龍太楼のある方角だ。
先を歩いていた奈落も足を止めて声をかける。
「おい、どうした?」
するとオリヴィエは何かに憑りつかれたかのような熱のこもった口調でつぶやく。
「私が行かなければ……! 彼が……悪魔があの先にいる!!」
心ここに在らずといった様子で、スカイブルーの瞳には狂気とも言える光が爛々と宿っていた。その異様な雰囲気に深雪はぎょっとしてしまう。いつも優しくて穏やかなオリヴィエがどうしてしまったのだろう。
奈落はというと、動じることなく冷ややかにオリヴィエへ告げた。
「あきらめろ。俺もお前もそんな余力はどこにも残っていない。今回は時間切れだ」
「それは分かっています! けれど、あなたもあの男の恐ろしさは知っているでしょう!? あの悪魔を野放しにしていいはずがない! 悪魔が実権を握ってしまったら、《東京中華街》の人々は永遠に地獄のような苦しみを味わうことになるのですよ!?」
「それがどうした? 俺たちには関係ないし、どうすることもできない。それに悪魔とて無敵じゃない。この街の問題はこの街の人間で片づけるしかないんだ」
「なんて非情な……私にはそんな風に切り捨てることなどできません! 奴の《血の誓約》に多くの人々が苦しめられ、尊厳を傷つけられ、命をも奪われました! あの男は何があっても放置しておけないのです! 悪魔を止められるのはこの私だけ……だからこそ私が行かねばならないのです!!」
身を乗り出して熱弁を振るうオリヴィエを、奈落は一蹴するのだった。
「寝言ほざいてんじゃねえ。お前、自分がどういう状態か分かってるのか? 貧血に脱水、酸欠で倒れる寸前で、どうやって悪魔と戦うつもりだ? そんな状態で奴と再会したところで体(器)を奪われて終わりだろうが」
「し……しかし!」
奈落の指摘が図星だったのだろう、オリヴィエは不満をあらわにしつつも反論の言葉を呑み込んだ。二人のやり取りを聞いていた深雪は慌てて口を挟む。
「ちょっと待ってくれ! 悪魔とか《血の誓約》とか……どういうことなんだ!?」
悪魔や《血の誓約といった単語が何を指すか、もちろん深雪も知っている。数か月前に《中立地帯》で《ストリート=ダスト》を狙った人身売買事件が起こり、それを裏で主導していたのが悪魔だったのだ。
悪魔は体内に《血の誓約を仕込むことで他者を思いのままに操っていた。だが、《東京中華街》と死んだはずの悪魔に何の関係があるのだろう。
奈落は言う。
「《レッド=ドラゴン》の中に《血の誓約が仕込まれている者がいる。おそらく、かなりの数の人間が餌食となっているはずだ。連中は上から暴動を起こせと命じられて、逆らったら血管腫を破裂させられて殺されると言っていた。実際、俺たちの目の前で死んだ奴もいる。デモ隊が死に物狂いで騒ぎを起こしていたのは、それも原因だろう」
「それじゃ、この混乱の背後にいるのは……!?」
「……ええ、悪魔が裏で暗躍していると見て間違いありません」
悪魔はかつてオリヴィエから分離した『もう一人のオリヴィエ』―――オリヴィエの別人格だ。悪魔の気配に敏感なオリヴィエが断言するなら、かなり確実性の高い話なのだろう。
深雪は後頭部を殴られたような衝撃に襲われる。そして思わず《東京中華街》の中心部を勢いよく振り返った。
「そうか……そうだったのか!!」
深雪はずっと不思議だった。《東京中華街》の人々はなんて自分勝手なんだろうと。どうして相手のことも考えず、自分の感情のままに振舞うのか分からなかった。みながみなバラバラの方を向いて、互いに文句を言ったり罵り合ってばかりで、正直うんざりしたし、失望もした。
(でも……本当は違ったんだ! 《血の誓約》を仕込まれて逆らえなかったんだ!!)
奈落やオリヴィエによれば、《血の誓約》による犠牲者は大勢いると言う。二人が目にしたケースだけではなく、深雪たちの知らないところで多くの犠牲者が出ているのかもしれない。
悪魔の命令に逆らえば過酷な制裁が待っている。血管腫が破裂すれば即死―――その恐怖に勝てる者はそうはいないだろう。命を奪われるくらいなら、不本意な命令であっても諾々と従うほうがマシだと考えただけなのだ。
(《東京中華街》の人々が分裂し、争っていたのは決して自らの意志じゃない! 心から互いに憎み合っているわけじゃないんだ!! ただ憎み合うよう仕向けられていただけ……悪魔によって!!)
《血の誓約》がどれほど残虐非道なアニムスか。一度仕込まれたら、その魔手から逃れるのがいかに難しいか。人身売買組織の犯行に巻き込まれた人々の悲惨な結末を思い出すと、深雪は今でも胸が痛む。
《東京中華街》の人々は同じ悲劇に見舞われていたのだ。
深雪は唇を噛んで後悔した。悪魔が《東京中華街》の混乱に関与しているという情報をもっと早くに知っていれば、他にも選択肢があったかもしれない。これほど大規模な暴動になる前に阻止できたかもしれない。
(黄家や紅家、藍家の人たち……いや、そもそも《レッド=ドラゴン》の人々は《血の誓約》に気づいているのか? いや、たぶん気づいていない。このままだとオリヴィエの言う通り、悪魔のやりたい放題になってしまう……!!)
そう考えると、オリヴィエが必死になって食い下がる気持ちも分かる。《血の誓約》を解除できるのは《スティグマ》のみ―――つまり、この世でオリヴィエだけが悪魔の血管腫を取り除けるのだ。
オリヴィエはなおも熱心に訴える。
「悪魔を追うべきです。そして今度こそ奴を仕留めなければ! これ以上の悲劇を生み出さないためにも……私一人でも悪魔の元へ向かいます!!」
だが、奈落は問答無用とばかりに切り捨てる。
「駄目なものは駄目だ。勝手な行動は許さない。俺が何のために存在しているか……それを忘れるな」
「……!!」
奈落の眼光は鋭く、実力行使も辞さないほどの強硬な構えだ。その容赦ない威圧感にオリヴィエも息を呑み、やがて悔しそうにうつむいた。《スティグマ》が刻まれた両手の拳は小刻みに震えている。
オリヴィエも頭では奈落の判断が『正しい』のだと理解している。それでも、どうしても諦めがつかないのだろう。
なかなかその場を動こうとしないオリヴィエを見て奈落は溜め息をついた。そして面倒くさそうに頭を掻きむしると、近くにあった自動販売機を蹴り飛ばす。そのはずみで飛び出してきた水のペットボトルを取り出し、オリヴィエに放り投げた。慌ててそれをキャッチするオリヴィエに、奈落は人差し指を突きつける。
「いいか、お前は貧血やら脱水やらで判断力が鈍ってるんだ。水でも飲んで、のぼせ上った頭をしっかりと冷やせ」
「……。それでは私がこの水を飲み終えたら、悪魔の討伐に行くことを認めてくれますか?」
「アホか、何故そうなる!? 俺に今までの会話をもう一度繰り返せってのか? こっちも疲れてんだ。無駄な体力使わせんじゃねえ!」
奈落は半眼で突っ込んだあと、ふと真顔になる。
「……焦るな。今は退却し、態勢を整え、万全の用意をするんだ。どのみちそれくらいはしないと勝てない相手だ。《監獄都市》にいる以上、必ずチャンスは来る。だから……今は大人しく退け」
深雪もオリヴィエを説得しようと口を開いた。
「俺も……《東京中華街》の人たちが心配だけど、今は火矛威や火澄ちゃんもいる。みんな疲れ切っていて限界だ。俺も《レナトゥス》を使ってしまって悪魔と戦うような余力は残っていない。だから一度、事務所に戻ろう……オリヴィエ」
東雲探偵事務所の《死刑執行人》だけでは悪魔と戦えない。雨宮や碓氷はまだ余力があるものの、彼らの『職務内容』を考えると、これ以上巻き込むわけにもいかない。彼らは平然としているように見えても疲労は溜まっているだろうし、《中立地帯》に戻るまで何も起きないとも言い切れない。
「……。分かりました……」
オリヴィエは渋々ながらもようやく頷いた。深雪も悪魔の危険性や残虐性は理解しているから、危機感を抱くオリヴィエの気持ちも分かるものの、今回ばかりはどうしようもない。
深雪はふと燃え盛る《東京中華街》の摩天楼を見上げた。
(紅神獄と黄鋼炎……《東京中華街》を支えていた二人はもういない。それだけでも痛手なのに、悪魔が裏で糸を引いているなんて……これから《東京中華街》はどうなってしまうんだ……?)
《東京中華街》を守っていた二つの『盾』は失われてしまった。悪魔は今まで以上に街を侵略し、支配してゆくだろう。そして奴を阻止できる手段は今のところ無いに等しいのだ。
(俺たちに余力があれば……流星や神狼が健在で、マリアが十分に力を発揮できれば。奈落がアニムスを使えたら……俺たちは悪魔にたどり着けただろうか? 暴動の原因を解き明かし、悪魔を追い詰められただろうか……)
ただ一つ言えるのは、《東京中華街》は長くて暗い冬の時代を迎えることになるだろう。今なおゴウゴウと火柱を立てている紅龍芸術劇院は、まるで《東京中華街》の未来を暗示するかのように禍々しく、不吉に感じられてならなかった。
(玉宝……ごめん、約束は果たせなかった……!)
自分たちだって大変な目に遭いながらも、深雪を匿ってくれた玉宝や白家の人々。彼らの誠意に応えたかったが、深雪には《東京中華街》の崩壊を止めることはできなかった。それが最大の心残りだ。
これから彼らに降りかかるであろう苦難の数々を思うと、どうにもやりきれない。
深雪は痛感せざるを得なかった。どれほどこちらが傷つき弱っていても、敵は手加減などしてくれない。どれだけ悩み、迷い、後悔しても、それでも迫りくる『脅威』に備え、前を向いて進んでいくしかないのだと。
今回は明らかに深雪たちの用意不足、戦力不足だった。だが、いつでも十分な準備ができるわけではないし、思い通りの戦力を確保できるわけでもない。
それでも己の未熟さや弱さ、準備不足を認め、少しずつ問題点を修正していき、現状を乗り越えていかなければ―――ままならない現実から目を逸らしても結局は自分に跳ね返ってくるだけだ。
深雪は後ろ髪を引かれるような思いを振り切って踵を返すと、最後尾を足早に歩きはじめるのだった。
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