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【黄雷龍サイド】 苦渋の決断
深雪たちが雨宮と合流した頃、同じく紅龍芸術劇院から黄雷龍と黄影剣が脱出を果たしていた。深雪たちが向かった東側非常口とは反対側にある、西側非常口だ。
ちなみに万武も西側非常口を目指していたが、彼は劇場の構造に詳しくなかったため、迷ったあげく脱出が大幅に遅れてしまった。そのため最後まで両者が鉢合わせることはなかった。
雷龍と影剣は《死刑執行人》にくらべてダメージこそ少ないものの、炎が燃え盛る中で全力を振り絞って戦ったためだろう。やはり疲労は隠せないらしく、影剣は呼吸を整えつつ雷龍に声をかける。
「雷さま、お怪我はありませんか!?」
すると雷龍は悔しげに舌打ちをしつつ、顔にこびりついた黒い煤を手の甲で乱暴に拭う。
「ああ……それより東雲の《死刑執行人》を仕留められなかったのは痛いな。あともう少しだったのに……!!」
「仕方ありません。まさか援軍まで来るとは……! ただ、連中の狙いは紅神獄の隠し子……彼女を取り戻したのであれば用は済んだはず。これ以上、手を出しては来ないでしょう。今はこれからのことを考えましょう」
「そうだな、伯父貴と合流したいところだが……伯父貴はどこにいるんだ? 劇場のどこかにいるのは間違いないんだが……」
そう言って周囲を見回す雷龍だが、ふと妙なことに気づく。思い返してみれば、劇場で鋼炎や神獄の姿を一度も目にしていない。紅龍芸術劇院は巨大な施設だから出会えなくても不思議ではないが、劇場が火の手に包まれたからには鋼炎や神獄も避難しているはずだ。それなのに、いつまで待っても二人が劇場から出てくる気配がない。
(おかしい……伯父貴は何をしている? ぐずぐずしていたら紅龍芸術劇院もろとも焼かれてしまうぞ!)
あの伯父が肝心なところで判断を誤るとも思えない。まさか何かあったのだろうか。
雷龍が嫌な胸騒ぎを覚えはじめた頃。背後にある街路樹が突如、風も無いのにざわっと大きく揺れた。その枝葉の間から黒い人影が飛び出してくると、雷龍の前に音もなく舞い降りる。
―――何事か。雷龍は身構え、担いだ青龍刀の柄を握る手に力を込める。その黒い人影は黒家の諜報部隊、《月牙》に属する鼯鼠だった。
「何者だ、貴様!」
影剣は直刀を抜き、雷龍をかばうように前に出る。しかし鼯鼠は動じることなく、覆面の下から低い声音で告げた。
「黄雷龍さま、我が主が面会をお望みです」
「我が主……? ひょっとして黒蛇水のことか」
「左様にございます」
「面会は後にしろ。今はそれどころじゃない! まずは伯父貴を探さねえと……!!」
苛立ちをあらわに怒鳴りつける雷龍だが、鼯鼠は微動だにせず佇んでいる。そして思いも寄らぬ言葉を口にするのだった。
「黄鋼炎さまは亡くなられました……紅神獄と共に」
「何!?」
「あのお二人は燃え盛る劇場の中におられるのです」
「貴様……! 何の証拠があって、よくもそのような戯言を口にできるものだな!!」
カッとなった雷龍は怒りにまかせて青龍刀を抜き放ち、その切っ先を鼯鼠の首元に突きつける。
「戯言ではございません……証拠ならここに」
そう言って懐から取り出したのは、黄と紅の鮮やかなチャイナボタン。黄のボタンは黄金でできており、紅のボタンには深紅のルビーが嵌め込まれている。意匠も凝っていて、それそのものが一つの宝石のようだ。
これほど豪華なボタンをつけられる者は、この街でも限られている。それを目にした雷龍は激震に見舞われた。
(まさかこれは……!? そんな……そんな馬鹿な!!)
第三ホールでの激しい戦闘の最中で、黄鋼炎と紅神獄の胸元についていたチャイナボタンは衣服から千切れ、はじけ飛んでしまった。鼯鼠はステージの隅に転がっていたボタンを、本人たちに気取られぬようこっそり回収していたのだ。
こうして雷龍に突きつけ、鋼炎の死を証明して見せるために。
雷龍は震える腕を伸ばし、金色のチャイナボタンを手に取った。直径わずか三センチにも満たない黄金のボタン。そこに精緻に彫り込まれているのは絡みあう二頭の龍だ。
正統なる黄家の文様の入ったボタンを身に着けることが許されているのはただ一人、当主である黄鋼炎だけだ。そんな唯一無二のボタンを何故、この老人が持っているのか。
分からない。何も分からない。分かりたくもない。頭の中が真っ白になり、思考が凍りついたかのように働かない。ただただ二つのボタンの存在が―――目の前の現実が信じられない。
そんな経験は初めてだった。手の中にある見慣れたはずの金色のボタンがやけにずしりとして、何倍もの重さにも感じられる。
「こ……これは確かに伯父貴と神獄さまの……!!」
愕然として立ち尽くす雷龍。その手にある金色のボタンを目にした影剣も蒼白になった。雷龍と同様にしばらく息を呑んだまま固まっていたが、やがて声を震わせ、喉の奥から絞り出すようにつぶやく。
「それでは……お二人が亡くなられたのは本当の事なのでしょうか……!?」
その言葉に雷龍の身体はびくりとはねた。伯父の黄鋼炎が死んだ。いつも雷龍を守り支え、導いてくれた伯父が。しかし、どうしてもその事実を受け入れることができない。どこか遠い世界の出来事を聞かされているかのようだ。
雷龍はカッと目を見開き、全身を硬直させたまま激しく取り乱していた。いついかなる時も、どんな強敵が相手でも、雷龍が己の動揺を周囲に悟らせたことはない。
当り前だ。雷龍は次期六華主人となり、《東京中華街》を率いていくべき立場なのだから。船頭が取り乱せば、船はあっという間に座礁してしまう。
無様に取り乱すような真似は、たとえ影剣の前でも見せたことはなかった。それが今や我を失うほど取り乱し、狼狽している。
雷龍が叫び声を上げなかったのは、かろうじて冷静さを保っていたからではなく、そんな余裕すら無かったからに過ぎない。
鼯鼠はそんな雷龍を無機質な目でじっと見上げ、囁いた。
「雷龍さま、これよりあなた様が黄家の当主です。よくお考え下さい。黄家の存続と利益のために誰と手を組むべきかを」
「……っ!!」
その一言で雷龍はようやく我に返った。そうだ、肝心なのはこれからだ。子どものように無情な現実に叩きのめされ、茫然としている場合ではない。雷龍は黄家を背負っていかねばならない立場なのだから。
雷龍はどうにか理性を取り戻すと、冷静に思索を巡らせた。まず、紅家と協力関係を続けるわけにはいかない。紅神獄は疑惑をひとつも晴らすことなくこの世を去った。雷龍たち残された者にとっては無責任もいいところだ。誠意の欠片も感じられない。
街の人々から石を投げられ、唾を吐き捨てられ、それでも歯を食いしばって耐え忍び、神獄を信じようとしたのに。何度も―――そう、何度も。
それなのに彼女は最後まで雷龍と向き合おうとしなかった。いったい何故、これほど残酷な仕打ちができるのだろう。
できれば彼女に真相を問い質し、その口から真実を説明してもらい、然るべき責任を取ったうえで六華主人の座を明け渡してもらうのが最も確実な解決方法だ。だが、紅家の当主をあらわす深紅のチャイナボタンがここにあるということは、彼女もすでにこの世にはいないのだろう。
もう紅神獄を糾弾することはおろか、真実を追求することもできない。納得していようといまいと、その事実を認めたうえで今後の行動を考えなければ。
これから紅家は厳しい立場に置かれるだろう。もしかすると紅家の人々にも非がなく、神獄に騙されていただけかもしれない。いや、隠し子の動画が流れた時の紅家の混乱ぶりを考えると、そう考えるほうが妥当だ。
だが、紅家が真実を知っていたかどうかはこの際関係がない。当主の罪は一族の罪だ。何も知らされてなかったとしても、偽の神獄が六華主人となったことで紅家が莫大な利益を得てきたのは事実なのだ。
本来、紅家が得るはずのなかった財産と繁栄。他家がそれを許すとは思えない。紅家は虚偽の繁栄を貪った、その償いを迫られるだろう。
問題は黄家だ。
黄家は紅家との協力関係を築くことで《東京中華街》の繁栄の一翼を担ってきた。このまま協力関係を続け、紅家をかばい立てしようものなら黄家も確実にとばっちりを受けるだろう。
他家の者はこう疑っている。黄家も紅家と同様、六華主人が偽物であることを知りながらみなを欺き、不当な利益を得ていたのだろうと。
それも事実かどうかが重要ではない。黄家を攻撃する口実を『他家』に与えてしまう。それが何より問題なのだ。
真実を証明する方法が残されていない以上、その疑惑は永遠に黄家について回る。《東京中華街》の権力争いは熾烈だ。弱みにつけ込まれたら、あっという間に勢力を削られてしまう。
黄家を守るためにも紅家を切り捨てるほかない。
また、雷龍自身も紅家とはなるべく関わりたくないというのが実情だ。そして紅家を排除してしまったら、雷龍が手に取れる選択肢は無いに等しい。
(藍家は中立を家訓とするような一族で、伯父貴ですら彼らを取り込めなかった。俺が藍家を味方にできるとは思えない。白家は当主の昴殿が亡くなったばかりで混乱しているし、緑家は面会を拒絶していて話し合う余地すらない。となると……残る選択肢は黒家しかない……!)
黒家は黄家にとって長年、宿敵と言っていい存在だ。伯父の鋼炎も黒家を敵視し、彼らの勢力を削ぐことに全力を注いでいた。雷龍も蛇水や彩水を蛇蝎のごとく嫌ってきたし、まったくと言っていいほど信用していない。
だが、蛇水は密かに雷龍に接触を図ってきて、こう囁いたのだ。『我々と手を組むなら《レッド=ドラゴン》をまとめ、みなの合意を得たうえで雷龍を次期六華主人にしてみせよう』と。
蛇水がどこまで本気なのか雷龍には分からない。しかし、この混乱を放置していたら《東京中華街》は再起不能に陥ってしまう。黄家のため、《レッド=ドラゴン》のため。雷龍は迷いや葛藤を振りきり、決断を下すしかなかった。
「蛇水は……いや、蛇水殿は今、どこにおられる?」
「黄龍太楼です。そこであなた様のお戻りを待っておられます」
鼯鼠は雷龍の選択を見透かしていたかのように即答した。それを耳にした影剣は真っ赤になって激怒する。
「貴様っ! 雷さまの留守中に堂々と我らの屋敷に上がり込むとは! 無礼にもほどがあるだろう!!」
しかし、鼯鼠は冷ややかな一瞥を返すのみだ。
「何をおっしゃるか。これから黄家と黒家は共に力を合わせ、《東京中華街》を支えてゆくのです。そのためには互いに警戒するのではなく、胸襟を開いて信頼するよう努力しなければ。主なりに雷龍さまの胸中を気遣われてのことです」
「詭弁を弄すな! そんなことで我々が騙されるとでも思っているのか!?」
黄家が蔑ろにされていると感じたのだろう。怒りのあまり直刀の柄に手をかける影剣を、雷龍は横から諫める。
「……やめろ、影剣。今は揉めている場合ではない。すぐに黄城へ戻る。……お前は先に行き、主へそう伝えよ」
「かしこまりました。……さすがは雷龍さま、話が早い。我が主も大層お喜びになるでしょう」
満足そうな声音で答えると、鼯鼠は音もなく舞い上がり、街路樹の並木の中へと姿を消してしまった。
あとに残されたのは雷龍と影剣、そして赤々とした炎と黒い煙を噴きながら崩れ落ちる紅龍芸術劇院のみだ。
影剣は不安と不満をあらわにして雷龍に尋ねる。
「雷さま……本当によろしいのですか?」
「仕方あるまい。蛇水は信用のならない男だが、今は黄家が生き残ること、《レッド=ドラゴン》を立て直すことを優先して考えねばならん。とにかく一度、蛇水と話をしなければ……すぐに屋敷へ戻るぞ」
「は……はい」
こうなったら一刻も早く黄龍太楼へ戻り、次の手を打たなくては。雷龍と影剣は黄城を目指して急ぐのだった。
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