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ところがその途中、《東京中華街》の中心部では目を覆うばかりの悲惨な光景が広がっていた。
黄龍太楼に詰めかけ、デモを行っていた群衆たちは一転してパニックに陥り、右往左往して逃げ惑っている。
耳をつんざくような悲鳴と怒号が響き渡り、人々は我先へと逃げ出そうとするものの、あまりに人が密集し過ぎており、てんでばらばらに動くため、かえって膠着状態に陥っていた。
逃げ出したいのに身動きが取れない状況にパニックを起こしたのだろう。あちこちでドミノ倒しのように人垣が崩れて、子どもやお年寄り、小柄な女性が押し潰されたり踏みつけにされたりしているが、彼らを助け起こそうという者はいない。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
雷龍は愕然として頭を抱えた。
「これは……いったい何が起こっているんだ!?」
「あれをご覧ください! 紅龍大酒店に紅龍タワー、紅家邸……紅家に関連する施設にことごとく火がつけられています!」
影剣は街の中心部にそびえ立つ紅龍大酒店を指差して叫んだ。
《東京中華街》随一を誇る最高ランクの高級ホテルが燃え上がっている。しかも燃えているのは紅龍大酒店だけではない。東西南北、街のほうぼうで巨大な火柱が上がっているのだ。
燃えているのは、どれも紅家の名を冠した施設ばかりだ。紅家関連の施設はどれも潤沢な資金が投じられており、豪華絢爛でありながら設備も最新鋭で規模も大きい。まさにこの街の繁栄を象徴する建物だ。それらの建造物が凄まじい炎を上げて燃えているのだから、人々がパニックになるのも当然のことだった。
街が炎の赤で染まり、身を焦がすような熱風が吹きつけ、どす黒い煙が容赦なく空気を奪っていく。その火の粉が手当たり次第に飛び散り、さらに周囲へと燃え移ってゆく。まさに《東京中華街》全体が火の海に沈みつつあった。
思えばアニムスを使った暴動はまだマシなほうだった。標的が戦闘員に限られていたからだ。だが、大火は強い者も力なき者も無差別に襲い、命を奪ってゆく。
火が迫る恐怖に平常心を失った誰かがアニムスを暴発させたのだろう。パニックがさらなるパニックを呼び、それに煽られた人々はヒステリー状態に陥っている。狂乱した群衆を止める手立ては残されていなかった。
(これは本当に《東京中華街》なのか……? 俺たちが作り上げてきた、あの繁栄した都市の姿だというのか、これが……!?)
この時初めて、雷龍は紅龍芸術劇院に向かったことを後悔した。
あの時は神獄や鋼炎への怒りでいっぱいで、真実を突き止めてやろうと躍起になっていた。他にやるべきこと、やらなければならないことが山積しているのは分かっていたが、真実の追及を第一にしなければと考えていた。
だが、本当にその判断は正しかったのだろうか。真実の追及という名の『正義』に酔いしれ、己の果たすべき責任を見誤ってはいなかっただろうか。たとえ何があっても最後には神獄や鋼炎が街をまとめてくれるのだからと、心のどこかで甘えがなかっただろうか。
だが、内省している余裕はない。今、雷龍がしなければならないこと。それは《東京中華街》の人々を守ることだ。
「くっ……一刻も早く黄龍太楼に戻り、消火体制や救助体制を整えねば! 急ぐぞ、影剣!!」
「はい、雷さま!」
雷龍はそのまま黄龍太楼へと直行した。もしかすると鋼炎が先に戻っているのではないかと一縷の望みを抱いたが、そんな都合の良い奇跡が起きるはずもない。
黒蛇水は黄龍太楼の最上階、一番豪華な客間で雷龍を待ち受けていた。つい数時間前まで紅神獄が滞在していた部屋だ。
もちろん新たな来客に備えて部屋は清掃されている。紅神獄のいた痕跡など、もうどこにも残っていない。もちろん黄鋼炎のいた痕跡もだ。
それをいい事に、蛇水は我が物顔に振舞っている。彼のそばには養子である黒彩水の姿も見えた。二人して主を失った黄龍太楼を乗っ取り、自らが黄城の―――《東京中華街》の新たな主人であると言外に見せつけるかのように。
雷龍は一瞬、不快さを覚えたものの、顔に出すことはなかった。今は揉め事を起こしている場合ではないと己に言い聞かせながら。
蛇水は黒い法衣のようなゆったりとしたチャイナ服に身を包み、泰然と街を見下ろしている。その背中に雷龍は声をかけた。
「お待たせしたな、蛇水殿」
すると蛇水は威風堂々と雷龍のほうを振り返る。
「いいえ、お気になさらず。それよりも伯父上のことは残念でしたな。お悔やみ申し上げまする」
何とも白々しい―――雷龍は顔をしかめ、影剣も激怒して身を乗り出した。
「貴様! よくもぬけぬけと……すべては貴様ら黒家の陰謀だろう!! 貴様らが鋼炎さまを紅龍芸術劇院に呼び出したことを我々は知っているんだぞ!!」
それに反応したのは彩水だった。
「何を言うか、人聞きの悪い……そこまで言うからには我々の陰謀だという確たる証拠があるのだろうな? まさか伝聞のみで我々が暗躍していると決めつけているわけではあるまい!?」
「くっ……!!」
痛いところを突かれ、影剣は唇を噛みしめる。悔しいが彩水の言う通りだ。状況から言っても黒家が怪しいのは明らかだが、ここに至っても彼らが一連の混乱を裏で糸を引いていた証拠はない。証拠がない以上、さすがに手を下すわけにはいかないのだ。
もちろん蛇水もそれを承知しているのだろう。鷹揚に片手を上げ、彩水を制すのだった。
「よさんか、彩水。そのような喧嘩腰ではまとまるものもまとまるまい? 我らはこれから互いに手を携え、共にこの困難を乗り越えていかねばならぬのだぞ。過去の遺恨は水に流さねば……あなたもそうお考えでしょう、雷龍さま?」
「そうだな……蛇水殿の言う通りだ」
「……さすがは義父上です。私の浅慮をお許しください」
彩水は蛇水に頭を垂れるが、雷龍や影剣のほうは見向きもせず、完全に存在を無視している。
それを見た雷龍は無表情を貫くものの、影剣は強い不満を浮かべたままだ。それでもかろうじて感情を抑えているのは、街が大火災に見舞われつつある今、諍いを起こしている場合ではないと理解しているからだ。
雷龍はさっそく本題へ入った。
「蛇水殿。ご存じだとは思うが、《東京中華街》は大火に包まれようとしている。一刻も早く人員を配置し、鎮火に当たらねば……是非とも黒家や緑家、白家の力を貸して欲しい」
「もちろんです。あなた様は未来の六華主人。これから《レッド=ドラゴン》を率い、《東京中華街》を治めていくお方。我々が全力でお支えするのは当然のことです」
「……。本当にこの俺を六華主人に据えるつもりなのか。お前たちはそれで納得しているのか?」
「もちろんです。紅龍大酒店で申し上げた通り、我々も身の程はわきまえております。この街が一つにまとまるために誰が六華主人となるのがふさわしいか。あなた様をおいてほかにいません」
「……そう言ってもらえるとありがたい。俺も蛇水殿の期待に沿えるよう、全力を尽くすと約束しよう」
蛇水はどうにもうさん臭い男だが、《東京中華街》の危機を救いたい気持ちはあるのだろう。ともかく、これで消火活動に取りかかることができる。
ところが雷龍が内心で安堵しつつ答えた瞬間。それまで穏やかだった蛇水の表情が一変する。
「ただし! 我が黒家があなた様を六華主人に推薦するに当たり、ひとつだけ条件がございます」
「条件だと……!? 貴様、最初からそれが狙いか!!」
目尻を吊り上げる影剣を雷龍は冷静になだめる。
「よせ、影剣。黒家は長らく苦境に立たされてきた。蛇水殿が協力の対価を求めるのは当然のことだ」
これからは紅家が没落するかわりに、黒家が台頭してくるだけの話だ。黄家に大きな影響はないだろう。そう腹の内で冷静に計算している雷龍を試すかのように、蛇水は冷徹な視線を向ける。
「ご配慮、痛み入ります。ただ、私の申し上げる条件とはそのことではありません。紅家の処遇についてです。彼らは偽の紅神獄を六華主人の座に据えることで過分な恩恵を受けてきました。不当な富を得てきた、虚飾と腐敗で汚れきった紅家をこのまま無罪放免とはいきますまい? 街の団結を取り戻すためにも、みなの納得がいく厳しい処分が必要かと」
―――来たか。雷龍はかすかに眉根を寄せた。紅家への処分は必要ではあるものの、曲がりなりにも黄家と長年、苦楽を共にしてきた仲だ。紅家の者たちに過剰な制裁が向かわぬよう、できるだけのことはしてやりたい。雷龍は即座に口を開く。
「待ってくれ、確かに紅神獄は俺たちを欺き裏切った。だが、紅家もまたその嘘偽りに騙されていたのだ。その件で紅家の家人たちを処罰するのは筋違いというものだろう」
「なるほど……雷龍様はとてもお優しい方だ。しかし、人の世とは優しさだけでは立ち行かぬものです。他家の立場で考えてみて下さい。みな紅家は不当に莫大な富を得てきたのだと内心で激しく憤り、忌々しく思っております。その悪感情をどこかで晴らさねば、必ずや将来に禍根を残すことでしょう」
蛇水は嘆かわしいと言わんばかりに首を振ると、どこか試すような目で雷龍を見据える。
「ですから、どこかで災いの連鎖を断ち切らねばなりません。いずれ手を付けなければならぬ問題なら、早めに片を付けるのが良いでしょう。これはみなが一つにまとまるために必要な『儀式』なのです」
蛇水の口調こそ柔らかいものの、その主張は頑なで簡単には折れそうにはない。雷龍は小さく溜め息をついた。―――仕方がない。黒家の協力を得るためには妥協も必要だ。
「……蛇水殿の言いたいことはよく分かった。それでは、どのような処罰が必要だと考えている?」
すると蛇水はニイッと口の端を吊り上げ、邪悪な本性をあらわにするのだった。
「当然、一族郎党の殲滅ですよ。紅家に連なる者はたとえ赤子であろうとも一人残らず屠らねば。中途半端は許されません。この際、腐った膿は徹底的に出し切らなければ。《レッド=ドラゴン》をまとめ上げるには、それしか道はないのです」
「何だと……!?」
雷龍は目を剥いた。さすがに紅家を皆殺しとまでは考えていなかったし、いくら何でもやり過ぎだ。たまりかねたのか影剣も火がついたかのように反論する。
「馬鹿な! 紅家は《レッド=ドラゴン》でも黄家に次ぐ勢力。しかも大部分を非戦闘員が占めるのだぞ!! 貴様はあろうことか、雷さまに力を持たぬ非力な者たちを虐殺しろと言うのか!!」
「それが何だというのです? 古今東西、あらゆる文明で同じことが行われてきました。先人も乗り越えてきた試練が我々にも課されているだけのこと」
「し……しかし!」
ところが影剣など構いもせず、蛇水は鋭利な刃のごとき視線を雷龍へと突きつける。その瞳孔が冷たく狡猾な光を放った。
「あなた様の伯父である黄鋼炎も紫家や茶家を取り潰し、一族を滅亡させてきました。あなたも同じ道を歩むというだけです。何を躊躇することがありましょう? それに……」
蛇水はすっと目を細めた。
「黄家は長らく紅家との蜜月を築いてきました。もし紅家に余計な手心を加えれば、紅家へ注がれている疑いの目が黄家にも向くことになる。やはり黄家と紅家は裏で結託していたのだ。だから、かばい立てするのだろうと。ここで紅家を殲滅させることが、ゆくゆくは黄家を守ることにも繋がるのです」
「……!!」
雷龍は息を呑んだ。その額を、首筋を、氷のような冷たい汗が滴り落ちていく。
自分が紅家を、かつての仲間を皆殺しにする。そうしなければ六華主人となるどころか、黄家を守ることもできない。紅家と共に滅びたくなければ―――何としてでも生き残りたければ、『粛清』を決行するしかない。
―――それは分かっている。分かっていても考えるだけで恐ろしく、手足ががくがくと震えるのが自分でも分かる。
(黒蛇水、この男は……!!)
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