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雷龍はここに至ってようやく蛇水の真の目的に気づいた。
蛇水は紅家虐殺の罪を背負わせることで雷龍に首輪をくくりつけ、支配しようとしているのだ。
仮に蛇水に言われるがまま紅家を取り潰せば、人々は雷龍を恐れてたちまち大人しくなるだろう。《東京中華街》を包む狂乱も瞬時に収束するに違いない。
だが、恐怖による支配は手っ取りばやく事を進められるかわりに、信用と信頼を大きく失うことになる。紅家を粛清したが最後、その『罪』は永遠に雷龍について回るのだ。
この街は狭い。表面上はどれだけ従順に見えても、人々が雷龍の『過去』を忘れることはないだろう。
そして雷龍自身も脅えて生きることになる。みなが紅家の粛清をどう感じているのか。雷龍を残虐非道な暴君だと思っているのではないかと。この先ずっと不信と疑心暗鬼を抱えたまま、《東京中華街》を治めていかねばならなくなる。
だが、そんなやり方が上手くいくとも思えない。雷龍の統治は安定しているように見えて、その実、ひどく不安定で危ういものになるだろう。
ただでさえ雷龍は若く、六華主人としての経験が足りているとは言いがたい。黒家の協力なしに街を治めるのは困難だ。そのうえ『首輪』までくくりつけられたら、雷龍は蛇水と離れたくとも離れられない関係になってしまう。
それこそが蛇水の目的なのだ。
自らの手を一切汚さず、雷龍に目障りな勢力を一掃させ、雷龍もろとも黄家の『力』をも削いで支配下に置く。
すべてが蛇水の都合のいいように仕組まれた策略に、雷龍はまんまと嵌ってしまったのだ。
(だが俺には……蛇水と手を組まないという選択肢は残されていない。紅神獄は疑惑を何ひとつ晴らすことなくこの世を去った。次期六華主人も選ばれずじまいで、俺は正当な手段で六華主人になるわけじゃない。だからこそ、街をまとめていくためには黒家の後ろ盾が必要になる。鎖に繋がれると分かっていても、俺は蛇水の手を取るしか無いんだ……!!)
雷龍とて紅家を『生け贄』とすることに心が痛まぬわけではない。彼らにも言い分があるだろうし、せめて釈明する場だけでも設けてやりたいが、そうしてやれるだけの権限も余裕も今の雷龍には無いのだ。
蛇水は雷龍の葛藤を見透かしたかのような、いやらしい笑みを浮かべつつ、手を差し出すのだった。
「さあ、雷龍さま。どうなさいますか? 決めるのはあなた自身、この街を救うことができるのはあなただけです。あなたは『過去』を清算し、《東京中華街》の王となられますか?」
それは悪魔の誘いだった。だが、その手を取らないという選択肢は許されない。雷龍は腹の奥底から絞り出すかのような声で答えを返す。
「……分かった。蛇水殿の言う通りにしよう」
「と言いますと?」
「紅家の家人は紅神獄の虚偽の片棒を担いだ罪で粛清する。ただし……対象は戦闘員だけだ。非戦闘員は見逃してやってくれ」
ところが蛇水は眼光を強め、表情を険しくして反論するのだった。
「なりません! それでは粛清が何の意味も成さなくなってしまう。先ほども申し上げましたが、腐った膿は徹底的に出し切らねば。……お忘れなきよう。過去を清算してこそ初めて正しい未来が手に入るのです!」
(く……蛇水め! 何が何でもこの俺に紅家を壊滅させるつもりか!!)
雷龍は歯噛みするものの、ここで蛇水に面と向かって逆らい、機嫌を損ねるのは得策ではない。《東京中華街》を襲う火の手は今なお燃え広がり続けている。一刻も早く手を打たねば、《東京中華街》で生きる人々を見殺しにしてしまう。
それに蛇水の主張は極端ではあるものの、共感を覚える部分もあった。過去の過ちは徹底的に裁いて清算しなければ、正しい未来は手に入らない。街の混乱に翻弄される中、雷龍自身も強く感じてきたことだ。
現状を正しく認識してはじめて、正しい判断が成り立つ。真実の究明によって腐敗や歪みを取り除き、古い体制を一新してこそ改革は成し遂げられる。正しい未来を手に入れるためには、揺るぎない真実こそが必要なのだ。
そもそもの事の発端は紅神獄の欺瞞と偽りなのだ。同じ悲劇を二度と繰り返さないためにも、過去を清算してけじめをつけなければ。そうして人々を納得させねば、街の団結は永久に取り戻せない。
雨宮深雪は言っていた。
『誰かを踏みつけにし、犠牲にしなければならないのならそれは『正義』じゃない! 『悪』がやっていることと同じことだ!!』と。
雷龍にしてみれば笑止千万、夢想家の戯言もいいところだ。
『虐殺』は悲しいことだが、みなを救うためには多少の『犠牲』はやむを得ない。雷龍にできるのは、その『犠牲』をできうる限り少なく抑えることだけだ。
意を決した雷龍は唇を噛みしめつつも頷いた。
「……分かった。すべて蛇水殿の言う通りにしよう」
「おお、ご理解いただけましたか!」
「ただ街の鎮火が最優先だ! そのために緑家、白家、黒家の力を我ら黄家に貸してくれ!!」
「もちろんです。それから日和見主義の藍家にも協力させましょう。藍家は我々と距離を保っていますが、さすがに街の存亡にかかわるとあっては協力せざるを得ないはず。すべて我らが手配いたしましょう。……彩水!」
蛇水に名を呼ばれるや否や、彩水は口元にニヤリとした笑みを浮かべて頭を垂れるのだった。
「すでに部隊の編成は終えております。街の治安に当てる部隊、鎮火を担わせる部隊、そして紅家殲滅の任に当たらせる部隊。いずれも出動可能です」
つまり蛇水は雷龍が必ず自分に従うと見越していたのだ。そのうえで万全の準備を整え、雷龍を追い詰めたあげく、あたかも雷龍自身が選択したかのように誘導したのだ。そのことに気づいた雷龍は内心で歯ぎしりをする。
(おのれ……蛇水! なにが『決めるのはあなた自身です』だ! 俺が何を言おうと結論は最初から決めていたくせに!!)
しかし、憤る雷龍など歯牙にもかけず、蛇水は彩水に命令を下すのだった。
「行け、彩水よ! 長年、不当な搾取によって肥え太った紅家の豚どもを狩りつくせ! 連中を一匹残らず始末せよ!! 老若男女、一切の手加減をするな!! そして連中の首をメインストリートに晒すのだ‼ それを紅家滅亡の墓標とし、新たな《東京中華街》を迎える祝宴とする!! 紅家一族の血でこの街に溜まった穢れと腐敗をすすぎ流し、清く正しい真の未来を手に入れるのだ!!」
「御意! 必ずや紅家全員の息の根を止めて見せましょう!! 《東京中華街》の未来のために!!」
彩水は水を得た魚のごとく、意気揚々と客間をあとにする。雷龍の存在など完全に無視をして、礼をするどころか見向きもしない。
しかし、その彩水の態度こそが、この場における力関係のすべてを物語っていた。新しい《東京中華街》の主は六華主人となる雷龍ではない。雷龍を裏で操る黒蛇水なのだと。
それを痛感したところで今の雷龍にはどうすることもできない。子どもじみた癇癪を起こしたが最後、すべてを失うだけだ。雷龍は「ギリ」と奥歯を噛みしめつつも、爆発しそうな感情を押し殺して吐き捨てる。
「……俺たちも行くぞ、影剣!」
「れ……雷さま……! しかし、これでは……!!」
「……みなまで言うな。今は《東京中華街》を火災から救うのが先決だ! 俺たちも街に出て消火活動に当たるぞ! 動ける黄龍部隊を集めろ!」
「は……はい!」
雷龍は影剣へ指示を出しつつ、自らも客間を飛び出した。
この選択が本当に正しかったのか、正直なところまだ分からない。雷龍を導いてくれた神獄や鋼炎はすでにこの世に亡く、頼れる者は信用のならない蛇水のみ。
あれほど望んでいた六華主人の座を手に入れたというのに、納得のいかないことばかり、気に食わないことばかりだ。
それでも課題は山積しており、どれだけ現実と理想がかけ離れていようとも一歩を踏み出さざるを得なかった。
そう。どのような形であれ、雷龍は一歩を踏み出してしまったのだ。その先にいかなる結果が待ち受けていたとしても、ただまっすぐに突き進むしかない。
自らが正しいと思う未来を、少しでも理想の世界を手に入れるために。
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雷龍が壮絶な決意を固めていた一方。蛇水は荒々しい足取りで客間を出て行く雷龍と影剣の背中を冷ややかに見送っていた。
(ふ……他愛もない。伯父の黄鋼炎はしたたかな豪傑だと聞いていたが、甥のほうはまだまだ未熟だな。自分にとって耳障りのいい言葉を並べられたら面白いようにコロッと騙される。この調子だと黒家が実権を握るのも容易いだろう。そうなればこの街の富と権力すべてが俺のものだ!)
もちろん紅家の関連施設に火を放つよう命令を下したのも蛇水だ。街を火の海に沈めることで黄雷龍の退路を断ち、蛇水の思惑通りに動くよう誘導したのだ。
実のところ、蛇水もここまで完璧に計画が進むとは思っていなかった。あまりにも順調に運びすぎて、かえって怖ろしいほどだ。
紅神獄の体調の急変、そこに転がりこんできた隠し子の存在。黄雷龍と緑香露の婚約。多くの偶然と幸運が重なり、そのすべてを最大限に利用してきた。
『黒蛇水』という器が手に入ったこと自体が奇跡なのに、運命の女神が微笑んだとしか思えないほどの幸運の連続のおかげで、悪魔は《東京中華街》を手中に収めつつあった。
これまで『器』を求めて世界中を彷徨ってきただけに、たとえ狭い街ではあっても自分の好き勝手にできる『城』が持てるのだと思うと感慨深かった。
もう『器』の劣化に悩まされることなければ、新たな肉体を手に入れなければと焦ることもない。莫大な富をどう扱おうと思いのままだ。
世界を統べる王になったような感覚に酔いしれながら、蛇水は視線を窓の外へと転じた。夜の帳が降りる中、《東京中華街》は凄まじい炎と煙を噴き上げており、蛇水の足元―――黄龍太楼では大勢の民が逃げ惑っている。
その光景を見下ろしつつ、混迷極まる街のどこかにいるであろう己の半身に思いを馳せながら、蛇水はにんまりと笑みを浮かべた。
(見ているか、オリヴィエ? 俺は《東京中華街》を……ゆくゆくは《監獄都市》を手に入れる! お前の逃げ場などどこにも無い! ゆっくりと追い詰め、たっぷりと絶望に『器』を奪い取ってやる!! 俺が味わってきた苦しみを存分に味わうがいい!)
悪魔は一連の騒動の中、幾度かオリヴィエの気配を感じ取っていた。オリヴィエと悪魔は元は一つだったとはいえ、分離してからの年月のほうが長い。それが何故、互いの存在が敏感に感じられるようになったのか。その理由は数か月前の出来事にある。
己の半身が日本にいると知った悪魔は犯罪組織の一員として《監獄都市》に潜り込み、紆余曲折の末にオリヴィエと再会して戦った。もちろん己の器を―――オリヴィエの体をこの手に取り戻すためだ。その際に両者の血―――《スティグマ》が互いに入り交じってしまった。そのせいでオリヴィエと悪魔は互いの存在に敏感になっているのだ。
間違いなくオリヴィエは近くまで来ていた。それを知りながらも悪魔は動こうとは思わなかった。
以前の悪魔であれば、『器』を取り戻そうと躍起になってオリヴィエを探し回ったことだろう。だが、《東京中華街》を手中に収めつつある今、ある心境の変化が生まれていた。
(思い起こせば……俺は自分の体を取り戻すことばかりに追われる人生だった。それでは何のためにオリヴィエと分離したのか分からないではないか。俺にだって生を謳歌する資格があるはずだ! キリストの教えにもあるではないか。『人はパンのみにて生きるにあらず』とな……!)
ちなみにキリストの教えには続きがあり、本来は悪魔の考えとは真逆の意味を持つのだが、都合の悪い部分はバッサリと割愛する。
(オリヴィエよ、お前も俺の存在に気づいたからこそ《東京中華街》に乗り込んできたのだろう? 偽善と欺瞞に浸り、すべて俺が悪いと責任転嫁してきたお前のことだ。どうにか俺を止めようと奔走したはずだ。だが、お前の思い通りにはさせんぞ!)
蛇水は「くく」と小さく肩を揺らす。
(……悔しいだろう、オリヴィエ? 望むものが目の前にあるのに手が届かない。それがどれだけ歯痒く苛立たしいか……初めて知っただろう? 俺の苦しみなど露ほども知らず、お前が安穏と日々を過ごしている間も、俺は世界中を彷徨い歩き、お前を探し続けてきたんだ! これからは俺とお前の立場は逆転する。今度はお前が苦しむ番だ!!)
悪魔オグルの心は高揚していた。感じたことのない充実感と万能感が身を包み、これから待っている輝かしい未来が恍惚感を増幅させる。
《東京中華街》で最も高い黄龍太、その最上階の客間からは《東京中華街》を見下ろすことができる。まさに真の支配者の特権だ。
(待っていろ、オリヴィエ! その時はもうすぐだ!!)
近い将来、この街は蛇水のものとなるだろう。その瞬間を想像すると溢れ出る笑いが止められない。
いまなお紅蓮の炎が荒れ狂い、黒々とした煙を吐き出す《東京中華街》に、蛇水の高笑いが降り注ぐのだった。
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