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それから六道はふと真顔に戻り、会話を続ける。
「紅神獄亡きあとの《東京中華街》は厳しい状況に置かれるだろう。もし神狼や赤神が健在だったら、もし奈落が負傷してなかったら……『もしも』を言い出すと切りがないのは分かっているが、事務所が通常通りに機能していれば、《東京中華街》の動乱の結末もずいぶん違っていたのではないかと……そう思わずにはいられんな。もちろん『敵』も、うちの事務所が《進化兵》との戦闘で戦力を低下させたタイミングを見計らい、そこにつけ込んで事を起こしたのだろうが……まんまとしてやられたな」
「……俺も痛感しました。自分一人の力じゃできることには限りがあるんだって……」
『通常通り』でなかったのは六道とて同じだ。彼は《進化兵》の動きを封じるために《タナトゥス》を使い、その反動で体調を悪化させて寝込んでしまった。そのため対応が後手に回ってしまったのだ。
主戦力をことごとく失い、司令塔すらいない中で火澄を取り戻すことができたのは、はっきり言って奇跡に近い。
東雲探偵事務所の《死刑執行人》はそれぞれ強大なアニムスを持つ故に、一人でも欠ければその損害は計り知れないものになる。
思い返せば、東雲探偵事務所が深刻なダメージを負ったのと時を同じくして隠し子の動画が流され、《東京中華街》の暴動が起きた。あの時は対応に追われて考える余裕もなかったが、偶然とは思えないほどタイミングが絶妙だった。
六道の言う通り、首謀者は東雲探偵事務所の戦力が低下した機を狙って、一連の騒乱を仕掛けてきたのだ。
雨宮や碓氷も力を貸してくれたものの、彼らの最終的な目的はどうしたって深雪たちとは違う。彼らには彼らの所属する組織の定めたルールがあり、そこから逸脱することは許されないのだ。
(最初から《東京中華街》を襲った動乱の背後で黒家が暗躍していると目星はついていた。でも今の事務所には神狼のお兄さん―――黒彩水と対立するだけの力がない。だから無意識のうちに黒家を避けてしまったんだ。黒幕の察しはついても手が出せず、場当たり的な対処で危機を凌ぐしかなかったんだ……)
深雪は小さく唇を噛むと、拳を強く握りしめる。
(もし事務所のメンバーが健在だったら……奈落や流星、シロ、マリアがいつもみたいに動けて、その能力を十分に発揮できたら……《東京中華街》の内部事情に詳しい神狼がいれば……神獄を死なせることはなかったし、黒家に乗り込むこともできたかもしれない。それどころか悪魔の策略を打ち破ることだってできたかもしれないのに……!!)
だが、どれだけ悔いても現実は覆らない。深雪たちは『負けた』のだ。火澄を取り戻すという目的は達成したものの、『敵』の陰謀を挫くまでには至らなかった。それは《進化兵》に敗北するよりも、よほど深刻で重々しい意味を深雪たちに突きつけていた。
六道は淡々と続ける。
「……紅神獄は手ごわい相手だったが、高い志の持ち主だった。《東京中華街》に発展と繁栄を……そして《監獄都市》に安定と平和をもたらそうと全力を尽くしていた。彼女の信念に我々が助けられたのも事実だ。今はただ……彼女の冥福を静かに祈ろう」
「……はい」
最後にもう一つ、六道に確認しておかねばならないことがある。深雪は少し口ごもると意を決して口を開いた。
「それから神獄は……真澄は所長をもう一つの名で呼んでいました。『北斗くん』と……」
その質問を予想していたのだろう。六道は表情を変えることなく、ただ静かに瞳を閉じる。
「そうか……それでお前は俺のことを思い出したのか?」
「はい。《冷凍睡眠》で眠り続けた俺にとって、《ウロボロス》はわずか二年前の出来事です。そう簡単には忘れられません」
深雪が六道のことを思い出せなかったのは、外見が変貌していたうえに名前まで変わっていたからだ。もっとも真澄から『北斗くん』と聞いても、すぐには心当たりが浮かばなかった。
何故なら彼は《ウロボロス》では別の呼び名―――ニックネームで呼ばれていたからだ。
「所長は《ウロボロス》ではこう呼ばれていましたね。……『ロボ』と。北斗政宗……それが所長の本名でしょう?」
すると六道は懐かしさと諦めと―――それでいて何か強い覚悟を固めたかのような複雑な笑みを一瞬だけ覗かせると、真っ直ぐに深雪を見つめて言った。
「そうか……ようやく思い出したのか。過去の俺を」
「でも、どうして教えてくれなかったんですか? 名前さえ聞けばすぐに分かったのに……」
「それついては後日、改めて説明しよう。お前に見せておきたいものもある」
「……。分かりました」
できれば、今すぐにでも六道から事情を聞き出したい。それが深雪の正直な気持ちだ。何故なら『北斗政宗』は―――かつて京極鷹臣の配下だったからだ。
京極は当時、《ウロボロス》の№2の座に就いていた。№3だった深雪と京極は敵対しており、そういった意味では京極の手下だった北斗政宗も、深雪とは敵対関係にあった。深雪も《ウロボロス》時代に北斗政宗と言葉を交わした記憶は数えるほどしかない。
それなのに何故、どんな経緯があって彼は『東雲六道』となり、《中立地帯の死神》となったのか。北斗政宗は―――六道は京極鷹臣とどういう関係なのか。
(悪い方向に考えたくはないし、疑心暗鬼にもなりたくもないけど、六道が京極と繋がっている可能性はゼロではないんだ……!)
そう思うとさすがに心穏やかではいられない。何か自分の知らない事実が眠っているのではないか。自分は所長に騙されているのではないか。そう考えると胸の奥がザワザワとしてくる。
だが、根拠もなく疑ってかかるのがどんなに危険なことか、今の深雪はよく知っている。『真実』の追求にこだわるあまり、『真実』に振り回される恐ろしさを《東京中華街》で目にしてきたばかりだ。
それに人は変わる。火矛威には火矛威の二十年があり、真澄には真澄の二十年があった。だからきっと六道にも六道の二十年があるのだろう。
何故、名を偽っているのか。何故、深雪に正体を黙っていたのか。知りたいことは山ほどある。けれど六道の体調は回復しきっていない。倒れた時より顔色はだいぶ良くなっているものの、まだ無理をしないほうがいい。
当の六道はふと視線を落とし、話題を改めた。
「……オリヴィエや奈落の具合はどうだ?」
「《進化兵》との戦闘で負傷したとは思えないほど元気です。ただ、黄雷龍や黄影剣と交戦したこともあって疲労が激しく、今日はそのまま帰宅しました」
「そうか……」
そう答える六道は安堵を滲ませることなく、何故か表情を曇らせた。うな垂れて、どこか悄然としているようにも見える。
深雪は不思議に思った。奈落やオリヴィエの無事を耳にしたにもかかわらず、六道はどうして沈痛な面持ちなのか。ひょっとして―――それを上回るほどの悪い報せがあるのではないか。にわかに胸騒ぎを覚えた深雪は六道に尋ねる。
「あの……俺たちがいない間に何かありましたか?」
すると六道は沈黙を挟んだあと、重々しい口調で切り出した。
「……先ほど石蕗医師から連絡があった。神狼は重症ではあるものの、順調に回復しているそうだ。ただ、赤神は……」
「流星……? 流星に何かあったんですか!?」
「今夜が峠だと告げられた。容体は非常に厳しく、予断を許さない状態が続いている。いざという時のことも覚悟しておいてくれと」
「そんな……! 流星が……!!」
覚悟はしていたつもりだが、言葉にして告げられると頭を殴られたような衝撃に襲われる。
流星の容体が悪いことは深雪も知っていたが、それでも心のどこかで流星は助かるのではないかと思っていた。決して楽観していたわけではない。ただ流星がいなくなってしまう事実に、どうしても現実感が湧かないのだ。
流星は心強く頼もしい存在だ。思えば深雪が《監獄都市》に初めてやって来た時、《ディアブロ》から助けてくれたのも流星だった。
流星は本当に死んでしまうのだろうか。どうしても信じられないし、信じたくもない。
ところが六道は途方に暮れたように右手で顔を覆いつつ、呻くかのような声音で続ける。
「《監獄都市》で入手可能なあらゆる《アニムス抑制剤》を試してみたが、いずれも効果がないそうだ。何とかしてやりたいが……こればかりはどうすることもできん。あとは本人の生命力に賭けるしかない」
言葉こそ冷静だが、六道の顔を覆う手は心なしか小さく震えている。
その姿が深雪にさらなる衝撃をもたらした。これまで深雪は六道が動揺する姿など見たことがなかった。いや、深雪だけではあるまい。六道が部下の前で狼狽えるなど一度たりともなかった。
(……六道にだって感情が無いわけじゃない。あえて無表情に振舞うことで強いリーダー像を演じていたのかもしれない……)
深雪も《ウロボロス》時代に経験がある。人が恐れを抱くのは恐怖や威圧だけではない。無表情によっても警戒心や畏怖、プレッシャーを与えることができる。相手が何を考えているか分からないと、それだけで恐怖を抱くのだ。
だが今の六道は狼狽をあらわにし、決して見せることの無かった人間的な『弱さ』をさらけ出している。冷徹な《死神》の仮面をかぶる余裕すらないほど衝撃を受けているのだろう。そんな六道の姿が、流星の死を差し迫った現実として突きつけてくる。
(流星は他のメンバーをまとめ、六道の右腕として事務所を支えてきた。流星無しに、この事務所は立ち行かないと言っても過言じゃない。六道も流星に全幅の信頼を寄せていただけにショックも大きいんだろう……当たり前だ)
それは深雪も同じだ。流星は上司であり、先輩であり、気軽に話を聞いてくれる兄貴分だ。その流星がいなくなってしまう―――それを考えると胸が張り裂けそうに痛み、首元に死神の鎌を突きつけられたかのように手足の指先がすっと冷え、心臓がギュッと掴まれたような感覚に襲われる。
しかも流星が危篤状態に陥っているのは深雪のせいでもあるのだ。《進化兵》と戦ったせいで流星は深刻なダメージを負った。その《進化兵》に狙われた原因が《レナトゥス》である以上、深雪が流星を追い詰めたも同然だ。
(流星……!!)
流星は助からないのか。もうどうすることもできないのか。真澄を失ったばかりなのに、流星までこの世から去ってしまうのか。深雪は残酷な現実に打ちのめされ、立ち尽くすしかない。
それは六道も同じなのだろう。抑揚のない疲れ切った声音でポツリと告げる。
「……お前も疲れただろう、雨宮。ご苦労だった。今日はゆっくり休め」
「分かりました。所長もどうかお体を大事にしてください」
そう告げて六道の寝室をあとにした深雪だが、自分の部屋に戻る気にはなれず、そのまま事務所の玄関に足を向ける。
(石蕗診療所へ……流星のそばへ行かないと……!!)
《東京中華街》から戻ったばかりで体はへとへとに疲れているし、あちこち火傷もしている。それでも流星のそばにいたかった。そばにいたところで深雪に何かできるわけでもないが、診療所へ行かなければ絶対に後悔する。
深雪が外に飛び出そうとした寸前、背後から「ユキ!」と呼び止めるシロの声がした。
「こんな遅い時間にどこへ行くの? お外は真っ暗だよ」
「シロ……俺はこれから石蕗診療所へ行く」
「《東京中華街》から帰って来たばかりなのに……疲れてるでしょ?」
「それでも……流星が心配なんだ」
そう答えるとシロは深雪の元へ駆け寄ってきた。
「だったらシロも一緒に行く! シロも流星のことが心配だもん。ユキが駄目って言っても絶対に行くから!」
シロを連れて行っても大丈夫だろうか―――深雪は躊躇してしまう。もしもの事があった場合、シロが傷ついてしまうかもしれない。しかしシロの意志は固く、本人も言った通り、駄目だと言っても強引についてくるだろう。
思えばシロも流星を慕っていた。シロが流星と過ごした時間は深雪よりも長く、それだけ流星を心配する気持ちも強い。もし目の前で流星が息を引き取ることがあっても―――いや、その可能性が高いからこそ、シロも一緒に行ったほうがいい。
「それじゃ二人で一緒に行こう」
いつも騒々しい《監獄都市》も、夜半を越えた今は不気味なほどひっそりと静まり返っており、夜闇の向こうから何が飛び出してきてもおかしくない。
一寸先も見通せない闇の中、深雪とシロは連れ立って石蕗診療所を目指すのだった。
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