僕から君への手紙

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僕から君への手紙

 僕はまず君に真実を告げなくてはならない。  君にはとても信じてもらえるとは思えないけれど、僕は君のいる時代からおよそ一千年後の未来から来た人間だった。僕が君に名乗ったのは偽名で、職業も作家と言ったけれど、実際には言語考古学者だ。言語考古学というのは世界から失われた言葉を過去から発掘し研究する学問のことだ。  君は驚くかもしれないけれど、僕の生きる千年後の世界では言葉というものが既に失われている。人はもはやコミュニケーションの道具としてはあまりに曖昧で不完全な言葉というものを必要としなくなった。  我々は脳内に極小のチップを埋め込み、互いの脳を直接通信させることで、言語というものを介さずにテレパシーによって意思疎通を図っている。そうすることで、母国語だけではないあらゆる言語による意思疎通の障壁は取り払われ、全世界の人々が地球規模で即座にコミュニケートすることが可能になった。多様な言語という意思疎通の障害は我等の叡智によって克服されたんだ。  だが、意思疎通が図れるからといって、世界から戦争が少しもなくならないのは皮肉な話だよ。人は結局、自分の欲望が他人のそれと衝突したとき、互いに譲り合うよりも奪い合うことを選んでしまう哀しい生き物だから、人類が存在する限り、この地球上から争いがなくなることはないのかもしれないね。  僕がなぜ君の生きる時代を訪れたのかというと、学術調査のためだった。言語考古学者は過去に失われてしまった言語を詳しく研究調査するために時空転送装置によるタイムトラベルが許されている。ただしタイムトラベルできるのは一度だけ。それ以上のトラベルは過去を大きく改変してしまうリスクが生じるというのが政府の見解だ。  しかも時空転送装置を利用できる者は厳しい適合試験をパスしたほんの一握りの人間だけなんだ。別に自慢しているわけではなくて、それくらい厳しい基準を設けなくては、誰もが気軽に過去にタイムトラベルしてうっかり未来を改変するようなミスを犯してしまい、我々の生きる時代がめちゃくちゃになってしまうからね。  僕は君の時代に初めてタイムトラベルした日を今でも鮮やかに憶えている。今まで学問上の資料でしか目にすることのなかった千年前の世界が目の前に広がり、さらにカビと埃にまみれた古文書を紐解くことでしか触れることのできなかった失われた言葉を活き活きと話す人々が街に溢れている光景に僕の胸は打ち震えた。  そして、喜び勇んで入った図書館で、僕は君に出逢った。  僕が図書館にやってきたのは、失われた言語を研究するために一番効率よく資料を収集できる場所だったからに他ならない。千年後の世界では紙の書物の大半は失われ、残っているものも国立の博物館に行かないと閲覧できないほど希少である場合がほとんどだ。だから我々の世界では国宝や重要文化財に指定されているような貴重な書物が何の保管処置も施されることなく棚に並び、誰もが手にとって読めることに素直に感動した。  僕は気になる本を次々と手にとっては目を通していった。このときほど失われた言葉を学んだことが役に立ったことはなかった。中でも特に気に入ったのはその時代を生きる老若男女の恋模様を綴った書簡集である『百通の恋文』という本で、千年前の人々がどのような恋に悩み、尽きぬ思いを言葉にしてきたのかを知ることができた。 「あの、もう閉館時間なのですが……」  僕が『百通の恋文』を夢中になって読んでいると、いつの間にか君は僕の下へとやってきて、すまなそうに言った。 「ああ、失礼しました」と僕が本をいそいそと棚に戻すと、君は「そちらの本を借りていかれますか?」と僕に訊ねた。 「ええと、でも、この時代では、本を借りるには何か色々と手続き的なものが必要になるわけですよね、たしか……」  すると、君は可笑しそうにクスッと笑った。その笑顔がとても自然で美しかったから、僕は思わず見惚れた。 「カウンターへどうぞ。利用者カードをお作り致します」  そう言って、君は僕が棚に戻した『百通の恋文』を手に取ると、本棚の間を歩いて行った。僕は夢を見ているような気持ちで君の揺れるポニーテールを眺めていた。  カウンターを挟んで君と差し向かいに座ると僕は利用カード申込用紙に偽りの個人情報を記入した。身分証明書も君の時代に合わせて政府が発給している精巧な模造品だった。僕が未来人であることを君の時代の誰にも知られるわけにはいかなかった。  翌日からは、書物よりも君が目当てで図書館へ通った。  過去の時代の人間に恋をするなんてあり得ないとタイムトラベルをする前は考えていた。まして仕事である学術調査中に何を考えているのかと自分を責めもした。だが、この気持ちを抑えることはどうしてもできなかった。  閉館時刻まで館内にいて、それからは君が仕事を終えて出てくるまで外で待った。偶然に図書館の前を通りかかった風を装って、君に挨拶した。ぎこちなく微笑みあう僕らを紅の夕陽がやさしく包んでいた。  いつしか夕暮れの街を並んで歩くことが僕らの日常になっていった。ときどき手が軽く触れると互いを意識して会話が途切れた。何度か手が触れた後、どちらともなく手を握り合うようになった。  歴史を感じさせる古い街並みのあちこちには観光名所を示す標識や商店の看板、ポスターなどの言葉が溢れ、道行く人々の会話も耳に心地よかった。言葉とはこれほどまでに人の心を和ませ、豊かにするものなのかと驚いた。  自分の暮らす未来の世界ではいくら効率性と利便性の追求による結果とはいえ、どうしてこのような素晴らしい人類の叡智である言葉というものが失われてしまったのか、僕には理解できなかった。  あと少し、あともう少しだけと、僕は未来へ帰る日を先延ばしにしていた。  君と別れることが辛すぎたから。  でも、時は待ってはくれない。    未来へと帰るその日も、僕は君に真実を告げられないまま、最後まで嘘をついた。次回作である長編小説の取材のために長期で海外に滞在することになったなんて口を突いて出た下手な嘘を君は素直に信じた。  街を一望に見下ろせる丘の上で、僕らは別れのキスを交わした。そのとき、君の頬を流れた涙の熱さを今でも僕は憶えている。  この手紙は千年前の君に向けて綴ったラブレターだ。  言葉が不要になった未来の僕が、過去の君に思いを伝えるためにとれる唯一の手段が、こうして手紙を書くことだなんて何とも皮肉なことだね。でも、生まれて初めて書いたこの手紙で、自らの胸の内にある言葉を尽くして愛する人へ思いを伝えることは何と喜ばしくまた悲しいことなのだろうと実感している。  僕は規則により、もうタイムトラベルをして君の下に行くことは許されない。だから、この手紙はまだタイムトラベルをしていない僕と研究分野を同じくする言語考古学者に託すことにした。彼が僕の代わりに君へこの手紙を届けてくれることだろう。  さよなら、愛しき人、どんなに遠く離れていても、君を忘れない。  僕は手紙を書き終わると、それをタイムトラベルを控えた友人に託し、胸に去来する切なさに突き動かされるように国立言語博物館へと足を向けた。そして、そこに保管されている書物の中から重要文化財に指定されている『百通の恋文』を閲覧した。そのとき開いたページの間に挟まっていた以下のような手紙を発見した。  その文面を目にした瞬間、僕の目から涙がこぼれた。
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