0人が本棚に入れています
本棚に追加
私の下宿に母が来たのは、そんなある日の事だった。
「卒業後はこの人と結婚して頂戴ね、とても良い方よ。」
決定事項の通達を思わせる言葉だったが、私は生まれて初めて母に逆らった。
「いや、 出来ません。 私には 恋人がいるんです」
その言葉に、母は血相を変えて問い詰めてきた。
「どこのお嬢さんです、 どうせ平凡な学生でしょう。 恋愛だけなら結構ですが、結婚となるとそれではいけません。 貴方は園田医院を継ぐ大 事な跡取りなのですからね。 その妻となるからには、ちゃんとしたお家の人でなくては。」
元より選択肢など無く、母はただ釘を刺しに来たのだと理解した。
「しかし......。」
「どうしてもというのなら、勘当します
。」
突き刺す様な母の言葉に、自分の無力さを思い知らされた。 当時の私に、両親の助けなく生活する甲斐性は無く、恋人を幸せにできる力もない。できるのは、その場で彼女との別れを誓うことだけだった。
彼女と過ごす最後の日。 至って普通に過ごした。 映画を見て、喫茶店に入り、買い物をして、夕食を摂った。
いつものように彼女を駅まで送ると、立ち止まり、そっと告げた。
「今までありがとう。 私とのことは忘れて、幸せになってください。」
「え…。」
「別れましょう。」
私の言葉に彼女は驚き、後退りして、静かに涙をこぼした。 丁度恋人になってほしいと告白した時の顔と同じだった。
しかし今は、抑えきれぬ狼狽を押し殺し、冷静さを必死に呼び戻し、それでも私を直視して言葉を絞り出した。
「…....わかった。」
「ありがとう、 さよなら」
私は、逃げるようにその場を離れた。
振り返ってはいけない、離れられなくなってしまう。
彼女もわかっていたのだ、いつかこの日が来ることを。
その気高い眼差しと、流させてしまった涙が、脳裏に焼き付いて離れない。おそらく私は生涯、この記憶に責め続けられるのだろうと覚悟した。
彼女と別れた駅から二つ先の駅に着いた頃、雪が降っていたことに気がついた私は、 自分の冷酷さを激しく嫌悪し、また憎悪した。そして迫り来る耐え難い喪失感に抗う術はなく、人目もはばからず泣き崩れた。
最初のコメントを投稿しよう!