交差点

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交差点

「それじゃ、おつかれさまです」  スーパーのバイトを終えると足早に最寄の駅へと向かった。  去り際、店長に「(おか)くんは今日、成人式じゃないの?」と聞かれたが、バイトの掛け持ちがあるのでと無愛想に答えた。  駅近くの横断歩道で信号が変わるのを待つ。 「寒いね~」  隣りに1人の若い女性が立っていた。  軽くパーマのかかった長い金髪をなびかせ、ヒョウ柄のロングコートを羽織り、厚底のロングブーツを履いていた。  最初は僕に話しかけていると思ったが、すぐに勘違いだと悟った。 「ねえシュウく~ん」  その女性の手にはベビーカーがあったからだ。 「でんちゃっ! でんちゃっ!」 「う~ん♪ 今からでんちゃに乗るよ」  最近はいわゆる『できちゃった結婚』が多いと聞くが、成人式にまでこんな小さな男の子を連れて行くのか……。  なんだか、バイトで毎日忙しい自分とはいかにも対照的な女性を見て少し苛立った。  別に女性が悪いはわけではない。  僕が『こんな』生活になったのも自分に非があるわけだし、誰も責めるわけにはいかない。 「あ、青になったね~♪ しゅっぱ~つ!」  参ったな…。この親子と駅まで並んであるくことになるとは。  予想通り、駅まで並んで歩き、乗った車両まで一緒だった。  僕が別の車両に移ればいいだけなのだが、なんとなく意地になっていた。 「あ、岡さん!」  声をかけたのは目がねっ子の早乙女 裕子(さおとめ ゆうこ)。  19歳の大学生だ。 「あれ? 今日って成人式でしたよね? 行かなくていいんですか?」  車内の乗客が何人か僕たちの方を見た。  というのも、この車両は成人式に向かう若者ばかりだからだ。  あの若い母親も僕を見つめている。 「あ、いや…。僕はバイトしないと……貧乏だからね」 「そうなんですか……。じゃあ、休憩の時にコーヒーおごりますよ♪」  いらぬ気遣いだった。  でも裕子ちゃんはこういう子なのだ。嫌いじゃないけど。  だが、なぜか今日は彼女の優しさが僕にはうざったくて仕方がない。 「コーヒーか」 「ああ、そうだ! 私、おいしい焼きドーナツ屋を見つけたんです♪ 帰りにいきましょ?」  勘弁してくれ。  彼女とたわいのない話をしているうちに僕たちの目的地についた。  第二の勤め先は大学内にある喫茶店だ。  当の学生は大半が同じ建物内にある安い食堂に行ってしまうため、暇な時が多い。  客といえば、ほとんど大学内の教師や職員。あとは入学前の親子連れぐらいだろうか。 「さあ今日もがんばって働きましょ、岡さん♪」  彼女に強引に引っ張られ、ホームに降りた瞬間だった。 「岡くんなの!?」  振り返ると、例の若い母親が驚いた顔で口を開けている。 「え?」 「わたし! 山田中学校の西村(にしむら)!」 「に、西村!?」  と言ったところで、電車の自動ドアが閉まった。  彼女の声は何も聞こえなかったが、ドアを叩いて何かを必死に伝えようとしていた。     ※  中学2年生の頃、僕は福岡に転校してきた。  前の中学は田舎で、校則や先生の雰囲気もゆるかった。良くも悪くも。  だが、入学した山田中学校はとても厳しく、よく抜き打ちの服装検査もしていた。  僕は真面目な方だったから、なにも負い目などない。  だがそんな『ノリ』が嫌いだった。  学校ごときでなにをそんなに必死になっているんだ……。  そんな態度からか、よく先生には目をつけられ、みんなの前で叱られていた。  公開処刑じゃないか。  だから僕は毎朝、中学校に行くふりして、近所の神社で時間をつぶしていた。  もっぱら図書館で借りた小説を読むのに時間を費やしていた。    僕は神社の賽銭箱の裏で腰をつき、活字を楽しむだが、その日は先客がいた。  「あ……」  同じ山田中学校の制服を着た女子だ。  名札には西村(にしむら) つかさ。  校則では長い髪は首元でくくらないといけないのに、そのまま肩まで下ろしている。  素朴な顔つきだった。  その頃の時代もあったのだろうが、眉毛は太く。  眼は切れ長の目で、鼻は細く、唇は薄く小さい。  声をかけようとしたが、寝息を立て気持ちよく瞼をとじているため、僕は黙って隣りに腰をおろした。 「きゃっ!」 「ん? ああ、お目覚めかい?」  小説にしおりを挟むとカバンに直した。 「う、うん……今って何時ごろかな?」 「さあ、10時ごろじゃない?」  素っ気なく答える。  僕は立ち上がると背伸びをした。 「きみは……」 「人に名前をきく時は、自分から名乗ることだよ」  この頃の僕は口が開けば嫌味ばかり言う、とても『イヤな奴』だった。 「私は西村、西村 つかさ」 「僕は岡 太郎(おか たろう)。君は学校にはいかないの?」 「べ、別にいいじゃん……。きみだって学校に行かないんでしょ?」 「それもそうだ」  と言って僕はカバンを手に取った。 「ちょ、ねぇ、学校に今から行くの?」 「え? 行くわけないじゃないか?」 「じゃあ、どこにいくの?」 「いいとこだ♪」     ※  「うわぁ、きれ~」 「そうだろ? ここから見える海が一番だと思うよ」  彼女を案内したのは学校からずいぶんと離れた浜辺。  潮風が眼にしみるが、波を打つ音が疲れた心を癒す。 「ねぇ、岡くんもひょっとして転校生?」 「そうだよ、2ヶ月前に越してきたばかりさ。君もかい?」 「うん。だから学校に馴染めなくて……」 「まあそんなに気を落とす必要なんてないさ。所詮は義務教育であって、勉学には向いてない場所だよ。要は集団生活の練習さ。社会人に向けてのね」  僕がそう言うと、西村は腹を抱えて笑い出した。 「なあにそれ! ハハハッ!」 「そんなにおもしろいことでも言ったかい?」 「だって、岡くんってば、オヤジ臭いもん!」 「それは失礼したね…」  しばらく海を見つめたあと、彼女は言った。 「ねえまた明日もつれてきてくれる?」 「別に構わないけど。1人で来れないの? 道は覚えただろ?」  何を思ったのか、西村は突然、海に向かって『バカヤロー』と大声で叫んだ。 「な、なにを……」 「岡君にデリカシーがないからだよ♪」  こうして僕たちの不登校生活が始まったのだ。      ※ 「さん……ねえ岡さんってば!」  気がつくと、大学の喫茶店にいた。  僕はメイド服の裕子を何分見つめていただろうか? 「あ、ああ……。裕子ちゃんか」 「オーダー、たくさん入っているのに、何も出来てないじゃないですか!?」  気がつくと、店内にはいつもと見慣れぬ光景があった。  今までにないぐらい客がごった返している。 「うわっ。なんでこんなに客が……」 「なあに、驚いているんですか!? 今日は教授さんたちの集まりがあって、お客さん多くなるって、昨日、店長に言われたでしょ?」 「そう、だったね」  僕はなにを動揺しているんだ…。  あんな昔の同級生の……。  しかも、人妻で母親になった西村のことなんて……。 「岡さん……めっ!」  僕のコック帽を少し上げると、おでこにデコピンする裕子。 「いった!」 「どうせ、あの若いお母さんのことでも考えていたんでしょ!? 変態!」 「いや、考えてないってば、裕子ちゃん、待ってよ……」  彼女の袖を引っ張ろうとすると、細い手ではらわれる。 「触らないでください! 早く料理つくって!」 「はい……」  二十歳にもなって、こんなミスをするとは。  成長した西村に再会して、気持ちが10代に戻ってしたまったのだろうか。      ※  蝉の鳴き声がうるさい夏。  僕と西村はいつもの海に来ると、架空の話で盛り上がっていた。  お互いに家でストーリーを作って、評価し合うというゲームだ。 「そこでだ……殺人鬼がそのカップルを襲うんだ。だが、これで話は終わらない」  僕は浜辺に立ちながら臨場感たっぷりに話を聞かせる。  マイクは丸めた教科書。演技も評価点の一つだからだ。  目の前には砂浜に座る西村と、青く広大な海がある。  それがまた僕の話にも熱が入る。 「うんうん」  西村は僕の話に夢中だ。 「その殺人鬼は……実は未来から来たカップルの男の方だったんだ!」 「おお♪」 「どうだった? 今日のは?」 「うん♪ なかなかおもしろい話だと思う! じゃあ今度は私の番だね」  教科書を手渡すと入れ替わる。  今度は僕が浜辺に腰を下ろす。 「え、ごほん! 私が考えてきた話ですが……。ある1人の少女が主人公です」  珍しいな。主人公はずっと大人が多かったのに。 「その少女は今まで生きてきて、何も良いことがなかったのです。学校でも地獄、塾でも地獄、家に帰っても地獄! ですが、ある日……救世主が現れたのです」  英雄ものかな。 「それは岡 太郎! あなたです!」 「え?」 「だ、だからね。岡くんのことがね……」  顔を赤らめて話が続かない。 「その続きは?」 「だから、好きだって言ってるんじゃん!」 「へぇ~」 「って、なんでそんな落ち着いてられるの? 意味わかんない!」  泣き出してしまった。  女の子なんて、生まれて初めて泣かせたもんだから、慌てて立ち上がり、彼女の頭を撫でてあげた。 「付き合ってほしいの……」 「僕なんかでいいのかい?」 「岡くんがいい」  気がつけば、僕の唇は彼女の唇に重ねていた。    ※  休憩時間。宣言通り、コーヒーをおごって貰ったが。  当の裕子ちゃんといえば、ずっと眼を合わせてはくれない。 「裕子ちゃん、いただくね?」 「ど~うぞ!」  参ったな。西村に出会ってからと言うものの、機嫌を損ねている。  どうにか、休憩時間内に機嫌を戻したいところだ。 「裕子ちゃんって……ひょっとして、前髪切った?」 「ええ。切りましたけど」 「ああ、やっぱり~♪ 随分とおでこが目立つとおもっ……」 「2ヶ月も前ですけどね! おでこが人様よりも広くてすみませんね!」  こりゃ無理そうだ。    ※  夏休みに入り、西村と付き合い始めて1ヶ月が経ったころ。  繁華街にある映画館に来ていた。 「この映画の監督が最高なんだよ。原作も監督が書いててさ。僕は穴が開くほど読み直したよ」 「ふふ、岡くんは好きな小説や映画になると止まらないね」 「だって、そうだろ? いいものは何年経っても良いんだからさ」  西村はストローをくわえながら言った。 「私も?」  そう言う彼女の唇はリップグロスのせいか、それともジュースで潤ったためか、輝いている。 「西村……」  ブー! と映画の始まりのベルと共に、僕たちは激しく口づけを交わした。  数人しかいないことを良いことに、僕は西村のキャミソールの中に右手を入れた。  そのまま2時間も僕は西村の乳房を触り続けた。  映画が終わると息が荒くなった僕たちは近くのラブホテルに入った。 「シャワーを浴びたい」と言った西村を強引にベッドに押し倒す。  彼女のキャミソールを破れるぐらい力いっぱい脱がすと、細身の身体にまだ発達しきれていない胸が露になる。 「恥ずかしい……暗くしてくれる?」  そのあとは無我夢中だった。  彼女がどうやったら気持ちよくなれるのか、考えるので精一杯だった。  途中、ゴムがうまくつけられず、僕は生で彼女の中に入った。  西村も僕の行為に、なにも言わなかった。  嫌がる素振りも見せずに。  ただただ、互いの荒くなった息づかいを聞いて、強く抱きしめあう。  僕は西村と一つになっている実感が欲しかった。     ※  21時、その日のバイトが全て終わった。  相変わらず、裕子ちゃんは機嫌が悪いままだった。  明日、喫茶店のバイトは休みだ。  このまま、来週の仕事に持ち越すのは何とも気分が悪い。  彼女が更衣室から出てくるのを待つことにした。 「岡さん、おつかれさまです」  そう言って、走り出そうとしたため、彼女の手を強く掴んだ。 「待って、裕子ちゃん!」 「離して下さい!」 「あの女性とは、今は何もないんだ……」 「そんなの……そんなの、私だってわかってるんです! でも、それを許せない自分が嫌いなんです! だから今日もずっと……」  これ以上、先に進めばまた傷つかせる……いや、自分が傷つくと臆していた。 「でも、岡さんのことが……好きです」  そう僕を見つめる眼鏡の奥にある瞳は涙で輝いている。 「裕子ちゃん!」  ただ強く抱きしめた。自分の腕が引きちげれるぐらい。  それでも、裕子ちゃんは何もいわず泣いていた。  むしろ、受け入れているように思えた。  しばらく抱きしめたあと、ゆっくりと身体を離し、彼女の涙をふいてあげる。 「僕も君のことが好きだ」  優しく唇を重ねる。  寒空の中、彼女の唇はとても暖かく感じられた。 「岡さん、このあと……空いてますか?」 「うん」  彼女の家は、昔僕が西村と一緒にいた『あの海』の目の前だった。  オートロック式の新しい単身者向けのマンション。 「最近の若い子はこんな家に住んでいるんだね……」 「なあに言っているんですか? 年1つしか違わないのに」  彼女の部屋に入ると、ピンクのキャラクターもので彩られた、いかにも女の子らしい部屋だった。  きれいに掃除されていて、いつ客が来ても大丈夫そうだ。  僕が部屋を見回していると、裕子ちゃんは「あんまり見ないでくださいよ。ちょっと待っててくださいね」と奥の部屋に入っていった。  そして、浴室から水の流れる音が聞こえた。  つまり、『そういうこと』なのだろう。  おもむろに財布の中を見る。  コンドームなど持ち合わせていない。  浴室にいる裕子ちゃんにコンビニに言ってくると伝えると「カギを持っていってください」と言われる。  なんだかもう付き合っているようなやり取りだな。  と、家のカギを閉めて近所のコンビニに向かった。  コンドームだけ買うのも、こっぱずかしいので、雑誌とコーヒーを2つカゴに入れた。  そう言えば、この年になって初めてゴムを買うのかもしれない。  我ながら情けない。     ※  11月、この冬は例年以上の寒さが観測された。  僕と西村は相も変わらず、会えばところかまわず、セックスにあけくれていた。  ラブホテルばかり行っていたら、お金が持たないからだ。  初めて出会った神社の裏、真昼間の公園の遊具の中、カラオケボックスの中、普段、学校に行きもしないのに体育館に忍び込んで。  最中、僕と西村はコンドームは一切使わない。  ただ彼女の熱を肌で直に感じたいからだ。  それに西村もゴムは痛いと嫌がった。  思えばバカだったし、本当に西村を大事にしていたら、そんな行動も取らなかっただろう。 「岡くん、好き」 「僕も西村が好きだ」  その日は神社でしていた。  だが、誰かが僕たちの行為を目撃していたらしく、警察官が2人やってきた。 「君たち! 学校はどうしたの?」  これが元で僕と西村は、親同士の話し合いのもと引き離された。  僕は市外に両親と引っ越した。  以前住んでいた場所。中学校も以前通っていたゆるい学校だ。  引っ越して、何度か西村に手紙を出したが、返事がくることはなかった。  母親の僕に対する監視も酷くなり、学校をサボることもできない日々が続いた。  家に帰れば、母と父がお互いに「おまえのせいで太郎はああなったと」押し付けあう。  僕が中学校を卒業する前に、両親は離婚した。  母はその後、病気ですぐに倒れた。  父はすぐに新しい女を作って家庭を持ち、生活費も嫉妬に狂った後妻に止められた。  ろくな治療も受けられないまま、母は亡くなった。  ひとりになった僕は高校を中退して、バイトを掛け持ちするしかなかった。  その頃から、僕は『作り笑顔』が上手くなり、大人へと成長し始めた。  そんな生活を初めて一年後、一通の手紙が来た。  封筒の中には一枚の写真だけが入っていて、裏には『岡くん、ありがとう』とあった。  写真はいつも僕たちがいた海をバックに取ったツーショット。  僕は生まれて初めて声をあげて泣き続けた。 「もっと……僕に力があれば」  この日ほど、大人たちを恨んだことはない。  だが、その子供の僕も、あと数年でその大人になるという事実が、とても怖くてならなかった。     ※ 「ハァハァ……裕子ちゃん。痛かったら言ってね?」 「ん……だ、大丈夫です。岡さんの好きにしてください」  考えてみれば、裕子ちゃんは僕にとって『2人目の女性』だ。  6年ぶりのセックスは、そこまで気持ちよく感じられない。  別に裕子ちゃんが魅力的じゃないとか、そんなのじゃない。  言い訳をするのならば、6年前の僕は猿並みに元気だったし、今はゴムをつけているから、以前のように『相手』を感じられない。  裕子ちゃんに優しくすればするほど、一つになれた気がしない。  彼女に悪いとは思いつつも、何度か今日、出会った西村を思い出した。  すると裕子ちゃんの息づかいが荒くなる。 「うっ、いたっ!」  どうやら西村を思い出して、僕のが元気になってしまったようだ。 「……このまま、いい?」 「はい、私の中で……」  果てたあと、裕子ちゃんへの罪悪感が重く圧し掛かる。 「ごめん、痛くなかった?」 「はい。岡さんが優しいから……」  彼女の笑顔がかわいそうで仕方ない。 「あの、岡さん……。電気つけないで、そのままお風呂場に行って下さい」 「え?」 「いいから、お願いします」  初めてだったのか。なお更、悪いことをしたな。  これから大事にしないとな。  シャワーの栓を回すと同時に、涙が流れる。  若いころ西村には素直に自分を表現でき、思うがままに愛することができた。  それに対して、大人になった僕は、裕子ちゃんに配慮できる優しい僕がいる。  理性がなく、ただ相手を想って繋がりたいという気持ち。  一方で社会的な立場を考えて、欲望を抑えることができる……気持ち。  その2つの僕がぶつかっている。  「く、ふぅ……う、うわぁぁぁ!」  気がつくと泣き叫んでいた。  こんなに大泣きしたのは、西村の手紙を見て以来だ。  裕子ちゃんに気づかれたらまずいと、手で押さえたが、どうやら声がもれていた様だ。  彼女は血相を変えて、風呂場に駆けつけた。 「お、岡さん! だ、大丈夫ですか!?」 「うわぁぁぁ! ぼ、僕は君を傷つけた!」 「そんなことないです! ちゃんと優しかったですよ?」 「違うっ! そうじゃないんだ……」 「岡さん、どうしたんですか」     ※  10ヶ月後、僕と裕子ちゃんは同棲を始めた。 「じゃあ、いってくるね」 「待って、太郎くん!」 「え?」 「ん!」  目をつぶって唇を向ける裕子ちゃん。  僕はそれに応えるように、彼女の唇に舌を入れた。 「ん……」 「じゃ、いってきます!」 「いってらっしゃい!」  同棲したのには理由がある。  裕子ちゃんのお腹の中には今、赤ちゃんがいるからだ。  あのあと、すぐに僕たちは避妊するのをやめた。  僕がゴムをつけると大概、『中折れ』してしまうからだ。  裕子ちゃんに「じゃあなぜ、最初だけあんなに元気になったの?」と聞かれるかと思ったのだが、彼女は何も言わなかった。  ひょっとしたら僕の涙と西村が関係していると、思われたのかもしれない。  事実、避妊しなくなってからは一切、中折れはないし、セックスの最中に西村のことを思い出すこともない。    今は裕子ちゃんのことだけを考えて、セックスを楽しめている僕がいる。  生に切り替えたのは、裕子ちゃんの優しさなのか、それとも西村に対するジェラシーなのか……。  裕子ちゃん曰く、計画的な『できちゃった結婚』と言っていたが、どうも後味が悪く、彼女の両親に挨拶に行くのは気が重い。  結婚式は来年を予定している。  僕はバイトしていたスーパーの社員試験に合格し、今では掛け持ちする必要もなくなった。 「いらっしゃいませ~!」  今日は土曜日の安売りの日、店内はどこも客でごった返している。  普段は品だしや発注ばかりしている。  僕もレジの応援に呼ばれていた。 「次の方、どう……ぞ」  僕はその姿を見て、驚愕した。  軽く当てられたパーマに金髪をなびかせ、胸元がくっきり開いたセーターにショートパンツの若い女性が立っていた。  小さな男の子を2人つれて……。  1人の男の子はまだ、よちよち歩きだ。  もう1人の男の子は近所の幼稚園の制服を着ている。 「岡くん?」 「西村……」  しばらく2人で顔を確かめ合っていると、後ろの客から「早くしろよ!」と怒鳴られた。  急いで西村のカゴをレジに通す。 「子供さん?」  驚きを隠すため、話題を切り替える。 「うん、下の子は会ったことあるよね?」 「ああ……前に電車の中で」 「あんた達、お兄さんにシール貼ってもらいな!」  そう叫ぶ西村の顔は、僕の知るカノジョではない。 「はい、おじさん!」 「あ~い、おじたん!」  お菓子にシールを貼ってあげると、2人の子供は笑いながらカゴ台の上に座って、お菓子を開けだした。 「まだ開けたらダメだって!」  なんだか笑いが出てきた。  あの『西村 つかさ』が母親とはな。 「お前が母親か」  思わず昔のように話してしまう。  空白の時が埋もれてゆくように……。 「なあに、悪い?」  西村は意地悪そうに笑ってみせる。  その笑顔は、年を重ねてとってもセクシーに感じた。  一緒に住んでいる裕子ちゃんには悪いけど、西村の方が垢ぬけて見える。 「別に、悪くはないけど」  僕は鼻で笑いながら、ビニール袋に商品を入れていく。  淡々と仕事をこなす僕に、西村はそっと呟いた。 「あのさ……あの子たち、実は父親が違うんだ」 「え?」  驚いて、手の動きが止まる。 「下の子はシュウ。ああ見えてヤンチャでね。怒ると止められないんだ。父親がバカだからね」 「ま、まあ……。子供のやることじゃないか」  言いながら声が震えだす。 「でも……上の子。イチローはしっかりしていてね。あの年で私が読めないような難しい本ばかり読んでいるよ」 「そう、頭がいいんだね……」 「父親に似たんだと思う」  そう言うと、彼女は僕の心臓あたりを、人差し指で強く突いた。 「そ、それって……どういう?」 「教えてあーげない!」  西村はパンパンに膨れあがったレジ袋を僕から奪い取る。  そして、振り返ることもせず、二人の子供たちを連れて去っていった。  残された僕は、彼女の吐き捨てていった言葉が、ずっと胸に突き刺さっていた。  何百本ものナイフを、心臓に刺されたように、激しい痛みが襲ってくる。  手が震えだし、呼吸が荒くなり、その場に立ち尽くす。    次に来た客のおじさんが、なにやら叫んでいた。 「早くしろよ、あんちゃん! こっちは急いで……っておい。何も泣くことはないじゃないか……」  
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