第五話/ 落花枝に還らず

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第五話/ 落花枝に還らず

 ラウラはその1年半後、再び赤ん坊を生んだ。今度は男児で、スウェンと名付けた。この名はラウラの育ての父であるシャオ大老の名、ウェン・シャオの一部を頂いたものであるが、ハルシュカ家ではリーザとドロテ以外に気づいた者はいない。  待望の男児誕生とあって、ハルシュカ家はお祭り騒ぎとなった。義父母はもちろん、ターニャの時には無関心を貫いたアレンも、嫡男の誕生を大いに祝い、職場の仲間に大盤振る舞いをしたり、街の一流テーラーに洗礼式のベビードレスを注文したりした。  それだけ聞けば、祝福された平和な家庭のように思えるかもしれない。しかし、この1年半はラウラにとって、まさに地獄のような日々だった。  まず、ラウラが頭を痛めたのがアレンの金遣いの粗さである。ある程度は、覚悟していた。しかし、いささか度が過ぎるのだ。舅である子爵も最初は大目に見ていたが、見たこともない高級馬車の請求書がロットレング領に回ってきたときは、さすがに腰を抜かしそうになった。 「アレン、この馬車は何だね」 「新調したのです。王都の家には馬車がないので、色々と都合が悪いのです。子爵も男ならお分かりいただけると思いますが」  要するに、娼館や夜の遊興など、羽目を外して遊びたいときに使う、お忍びの馬車である。上位貴族であれば納得できるが、子爵の娘婿なら辻馬車で十分ではないか。当主であるユーリがそう言うと、またもやアレンは得意の御託を並べようとした。 「辺境伯家では――」 「アレン、残念ながらうちは子爵だ。君はもう、子爵家に婿入りしたのだ。今後は分を弁えて、物入りの際には必ず私に許しを得なさい」  結局、その馬車は下取りに出したが結構な損になった。一事が万事アレンはこの調子で、さらには家計と事業が別というのも理解していておらず、ロトス銀行と険悪な雰囲気になってしまった。困ったことに、アレンは仲間をロットレング・スパに招待しては、気前よく飲み食いさせるのが常だった。当然、その支払いはハルシュカ家に来る。  アレンはロトス銀行に怒鳴り込み、アーチを窓口に呼びつけた。アーチは5年間の出向を終えて銀行の本店に戻っていたが、引き続きロットレング領の会計顧問を担当している。 「どういうことだ、何で自分の家で遊んだのに、金を払わねばいかんのだ」 「事業は独立した採算になっておりますので、ご家族でも売上として計上します。もちろん、家事消費として原価で計算していますから、一般のお客さまよりお安く――」 「もういい! お前の話は規則や法律ばかりでうんざりする。ロットレング領の事業をハルシュカ家の人間がどうしようと、こっちの勝手だ。もうお前に任せてはおけない」  そう言って、何とアーチを解雇してしまったのだ。正確に言えばアーチはロトス銀行の社員なので、契約の解除ということになるが、これにはユーリが慌てて待ったをかけた。 「何ということを勝手に行ったのだ! アーチの契約を解除したら、融資が打ち切りになるかもしれんぞ。せっかく有利な条件なのに、事業が立ち行かなくなったらどうする!」  しかしアレンは反省のかけらもなく、逆に子爵に詰め寄った。 「義父上、あなたのその弱気がアーチを増長させたのですよ。ロトス銀行がなんだって言うんです。ロットレングに融資したい銀行なんて、いくらでもありますよ。どうです、この機会に事業を私に一任しませんか? 貴方よりうまくやる自信がありますよ」  自分がやったことの重大さを、アレンはまるでわかっていなかった。その翌週、ラウラのもとにロトス銀行のマク・ロトスから手紙が届き、銀行の頭取室でアーチを交えて秘密の会談が行われた。 「ロトス様、このたびは夫が愚かなことを致しました。どうかお許しくださいませ」 「ラウラ様、顔をお上げください。貴女に謝って欲しくてお呼びしたのではありません。今後のことを考えましょう」  マク・ロトスは落ち着いたものだった。しかし恩人の娘と言えども、今回のことはハルシュカ家の信用を大きく落としたに違いない。商売には厳しい銀行である。融資の打ち止めになるのではないかと、ラウラは不安で仕方がなかった。 「私たちは、様子を見ようと思っています」  ロトス銀行の予測では、いくら右肩上がりのロットレング領でも、大手が融資を打ち切ったとなれば、どこの銀行も手を出さないだろうということだった。たとえ融資が通ったにしても、事業が担保に取られ金利もかなり高くなる。「信用」とは、それほど大切なものなのである。 「きっと、泣きついてくるか自棄になるか、どちらかでしょう。それを待って、貴女が再び事業の舵を取ってください。我々は、貴女となら取引を続けたいのです。しかし、アレン様がやるのであれば、申し訳ないですが撤収します」  ラウラは急遽ロットレング領に手紙を書き、子爵夫妻を王都に呼び寄せた。そしてロトス銀行から出た提案を共有し、家族会議を開いた。家族と言っても、アレン以外である。三人の意思は同じであった。あの男に事業を手渡してはいけない。せっかくここまで育てた事業を、娘婿に台無しにされるわけにいかなかった。  しかし、そんな家族の想いをよそに、アレンは酒場で怪気炎を上げていた。やけ酒である。実は今日の昼間、バクリアニ王国の主要な銀行を回って、けんもほろろに追い返されていたのである。どの銀行も、言うことは同じであった。 「ロトス銀行とお取引がありましたよね。なぜ、銀行を変更なさるのですか」 「あいつらは話にならんのだ、もっと融通の利く銀行でないといけない」 「でしたら当行では、お役に立てないかと存じます」  いったい、何なのだ。ロットレング・スパは開業以来、急成長を続けているバクリアニ王国随一の高級保養地である。アレンはその事業において、実質上の経営者だと自負していた。しかし、世間の評価はそうではなかった。義父もそうだ。ラウラと結婚したのだから、権利を大人しくよこせばいいのだ。絶対にうまくやる自信がある。今の何倍も発展させてやろうというのに。  その鬱憤がアレンを深酒に誘った。酒はあまり強い方ではないが、ひとりでふらふらと酒場を飲み歩き、かなり酩酊した状態でさらに杯を重ねていたところ、とうとう眠ってしまい従者が呼ばれた。酒場にいた客たちが、懐中時計に刻まれた家紋から身元を確認したらしい。恥もいいところである。  やがて担ぎ込まれるように家に到着したアレンは、深夜だったためゲストルームに運ばれた。もう家族がみんな寝静まっていたためだが、それが酔っぱらいには我慢ならなかった。 「俺はこの家の主人だぞ! なぜ客間で寝ないといかんのだ!」 「奥さまはもうお休みですので、どうぞ今夜はこちらをお使いください」 「お前、それが主人に対する態度か!」  アレンの拳が、ドロテを殴りつけた。傍にいた従者が止めに入ったが、酔っている馬鹿力で腕を振り回し、吹っ飛ばされてしまった。調子づいたアレンは、馬乗りになってドロテを殴りつけ、無理やり主寝室に押し入ると、悲鳴をあげるラウラをそのまま組み敷いた。 「俺は、子どもの頃から兄たちの代替品だった。もしもあいつらが死んだら、家を継がせるための予備だ。でも、二人とも死ななかった。だから、養子に出された」  ラウラの夜着を引きちぎりながら、自棄になったアレンが胸の内の泥を吐き出す。厳格な父のもと兄に劣等感を抱いて育ち、養子先でも格上の妻や家族から見下され、ようやく二度目の結婚で経営者になれると思ったのに、世の中が自分を評価しない。  押さえつけられた反動で、強烈な権利欲や名誉に対する渇望が芽生えてしまったのだろう。アレンはもはや精神の均衡を欠いていた。ラウラは恐怖で抵抗できず、ただひたすら事が終わるのを待った。それは幼いころの記憶を蘇らせるもので、もうこの男とは夫婦でいられないと確信するに足るものであった。  翌朝、別の客間に泊まっていたハルシュカ子爵夫妻は、従者が腕を骨折していること、ドロテの顔が腫れあがっていること、そして家の中の惨状を見て取り、何があったかを察した。昼過ぎに起きてきたラウラの体にも無数の痣が残っている。ハルシュカ子爵は、アレンがもはや正常でないと判断した。 「アレン、君は少し疲れているのではないかね。どうだろう、少し実家の方で静養してみては」  貴族的な言い回しだが、要は「しばらく謹慎して頭を冷やせ」と言う意味である。アレンもさすがに自分がしでかしたことを後悔し、素直に従うことにした。アレンは玄関に見送りに来たラウラに向かい、自嘲気味に言った。 「俺はどこへ行っても、役立たずってことだな」 「そうとも言えないわ」  抑揚のない声でラウラが答え、アレンは怪訝な顔をした。 「少なくとも、跡継ぎが生まれたわ。貴族の務めって子を成すことでしょう。それに関しては、あなたは有能だったわ。貴方も私も、家を継ぐための道具に過ぎないのだもの」  そう言うと、ラウラは優雅に微笑んだ。引導を渡す瞬間である。 「私たち、十分お役に立ったのだから、もう夫婦ごっこはおしまい。貴方も無理をして、女を抱かなくていいのよ」  アレンの目が大きく見開かれた。 「……知っていたのか」  アレンはため息を吐くと、肩をすくめて出て行き、それ以来、二度と彼ら夫婦が同じ部屋で眠ることはなかった。一度でも、あの男と本当の夫婦になれるのではないかと夢見た、自分の甘さをラウラは呪った。  ラウラが三人目の子どもを妊娠していることを知るのは、それから2カ月後のことである。 ※タイトルの「落花枝に還らず」は、「落花枝に帰らず、破鏡再び照らさず」より。落ちた花が再び枝で咲くことはなく、割れた鏡も姿を映すことは二度とない……という意味で、一旦壊れたものは元に戻らないことの例えです。破綻した男女の仲が戻らない例えに使われます。
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