第六話/ 貴族の生き方

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第六話/ 貴族の生き方

 アレンは実家でさんざん父や兄から油を搾られ、年明けのパレードが王都の大通りを練り歩くころ、ようやくハルシュカ家に戻って来た。ラウラは悪阻が治まらず、寝て過ごすことが多かったので、アレンと会う時間が少なくてほっとしていた。  あんな暴力があったとは思えないほど、表面上は穏やかだ。他人から見れば、間もなく3人目の子どもが生まれる仲睦まじい夫婦であろう。しかしその実は、ただの同居人である。貴族の結婚は家と家の契約なので、社会通念として離婚はありえない。表面を取り繕いながら、裏ではすき間風が吹いている夫婦も少なくないのだ。  アレンはロットレング領での手柄を諦めたようで、すっかり吹っ切れた様子だ。淡々と役所に出勤し、まじめに仕事をやっている。また、妻に性の秘密を知られたことで開き直ったのか、最近は出がけにこういう言伝を残すことも多くなった。 「帰宅は明日になる」  恋人と一緒に過ごす、という意味である。ラウラはとっくの昔に、その相手も知っていた。王立劇場の舞台に立っている役者で、オヴェーリスという男だ。年のころは30代前半、ほっそりとした金髪の優男で、骨太く濃い髪色のアレンとは対照的な組み合わせである。  二人はもう10年近く恋愛関係にあるらしく「役者仲間に金を握らせたら、ぺらぺらと喋った」とドロテが言っていた。ただしオヴェーリスは、女性との浮名も数多く流している。そしてその多くは、アレンとの関係が始まって以降である。もしかすると、金づるとして利用されている可能性がある。しかしアレンには黙っておいた。知らぬが仏という言葉がある。 「噂が広まると外聞が悪いので、この部屋をお使いください」  アレンが戻って来た直後、ラウラは2本の鍵を手渡した。細やかな彫刻が施された、美しい銀色の鍵である。 「どこの鍵だね、これは」  アレンがしげしげと鍵を眺めつつ、ラウラに問うた。 「あなた方の、逢引の部屋ですわ。借り上げておりますので、ご自由にお使いください」  これまでアレンは、王都の下町にあるオヴェーリスのフラットに通っていた。彼には金を渡していたようだが、衣装代に消えてしまったのか、他の女性に貢いだのか。オヴェーリスの住まいは二等地の古ぼけた部屋である。そこへ貴族の男が足繁く通うと、目立って仕方がない。そこで、ラウラは知恵を絞った。  黒蝶館の一室を借り上げて、そこをアレンとオヴェーリス専用の部屋にしたのだ。もちろん、彼らにはラウラが黒蝶館にいたことは秘密である。街でいちばんの娼館を探して交渉した、ということにしている。  物置にしていた余り部屋なので手狭ではあるが、恋人同士の短い逢瀬には十分だろう。男性が娼館に通うのはおかしなことではないため、二人が別々に来て別々に帰れば、世間の噂になることもない。 「あんたも変わった女だね、自分の亭主に浮気部屋を用意してやるなんて」  マダムはそう言って呆れたが、事情が事情だけに致し方ない。ちなみに、当のアレンは大喜びで、これまでは夜の闇にまぎれるように下町へ通っていたのが、娼館であれば大手を振って馬車で乗り付けることができる。彼も彼なりに苦労していたのだ。  こうして非常に変則的ではあるが、ラウラとアレンは心の平穏のための仕組みを作り、仮面夫婦生活を営むことにした。争う理由がなくなったので、家内は平和なものだ。暴れる父親より、よほど子どもたちの情操教育にも良い。  その子どもたちであるが、実にすくすくと育っていた。この国の貴族は、血にこだわりすぎて近親婚を繰り返した結果、虚弱な質の家系が多い。乳幼児が大人まで育つのは、およそ6割。貧民はもっと率が低いが、それは栄養と衛生の問題であり、体質的には貴族よりも格段に強靭である。  そんな庶民の中でも、特に頑健なラウラの血を引いているせいか、ターニャもスウェンも風邪をたまにひく程度で、熱が出ても重症化することはなかった。お腹の中の子どもも、順調に大きくなっている。ハルシュカ家では4人の子のうち3人が亡くなっているため、子爵夫妻はことのほか孫の健康を喜んでいた。 「やっ、やっ、やっ」  ターニャは最近おしゃべりになり、こちらが言うことに返事ができるようになった。今はおもちゃを片付けて昼寝をしなさいという言いつけに「いや」と抵抗している最中だ。  親もきょうだいも知らないラウラは、初めて自分の赤ん坊を抱いたとき、どうしていいかわからなかった。こんな小さな子を育てられるのかと、不安で押しつぶされそうだったが、そんな自分が間もなく3人の母親である。全く世の中はわからないものだ。  近頃は生活がようやく安定したせいか、母としての自覚や自信も出てきたと感じる。どうにかして、この子たちを一人前にしないといけないし、幸せになってもらいたいと心から願う。  そんなラウラに、人生で最も大きな試練が訪れた。子どもたちとの別れである。 「なんと、おっしゃいました?」 「ターニャとスウェンを、ロットレング領で育てると言ったのです。子爵家の子どもたちなのですから、当然のことです」  ロットレング子爵夫人であるエルカ・ハルシュカは、孫たちに会うため毎月1回王都を訪れていた。最初は、その往復が辛くなったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。彼女は孫たちの将来のためだとラウラを説得した。 「もうすぐこの子たちも物心がついてきます。貴族に相応しい教育を受けさせなければなりません」 「私は、愛情をもって育てています」  可愛い盛りの子どもたちを奪われる恐怖に慄き、ラウラは声を震わせた。 「貴女が悪い母親だと言っているのではないの。平民であれば、それで良いのです。しかし、あの子たちはロットレング子爵家の後継者なのですよ」  言われている意味は、よくわかっている。実は、この義母とはターニャの誕生時に衝突したことがある。貴族の家では、赤ん坊が生まれると乳母が宛がわれ、実母は乳もやらないしむつきの世話もしない。それが上流階級の生活様式である。  しかしラウラは、それでは母親になった意味がないと主張し、自分の乳を与えて夜も一緒の部屋で眠った。エルカは「まるで平民のようだ」と嫌悪したが、ラウラは構わず自分のやり方を押し通した。人生で初めて手に入れた肉親である。他人任せになるのがどうしても耐えられなかった。 「お義母さまは、私が乳母をつけなかったことを、仰っているのですね」 「それだけではないわ。一事が万事、貴女は貴族のふるまいはできても、貴族の考え方ができませんでしょう」  有体に言えば「平民根性の沁みついたお前には、貴族は育てられない」、ということだ。ラウラはどうにか子を失いたくなくて、必死に義母に縋りついた。 「私も、ロットレング領に戻ります。そこで家庭教師をつければ良いではないですか」 「それでは意味がないわ。あなたの影響を受けないように、離れて暮らすのですから。それに、アレンはどうするの? 夫婦が別居すれば、悪い噂が広まるわ」  もしもラウラが貴族の娘として育っていれば、子育てを人任せにすることに抵抗はなかっただろうし、義母も無理に母子を引き離す必要はなかった。貴族らしい希薄な親子関係を構築できない時点で、ラウラは子らの養育者として失格なのだ。 「別に、二度と会わせないと言っているのではないのよ。私たちが王都に来るときは、子どもたちもこの家に滞在しますし、貴女だってロットレング領に帰って来る用事があるでしょう。その時に会えるではないですか」  隣の部屋で、勢いよくスウェンが泣き出した。ラウラはその声を聞いて乳房が張るのと同時に、目の前がまっくらになる思いがした。  お乳をやるときの、きゅっと握った小さな拳。大泣きして眠った後の、湿った額の巻き毛。たどたどしく可愛い声で「たあさま」と呼ばれるときの、体の奥からこみ上げる幸福感。その愛しい日々が、ラウラの目の前から消え去ろうとしている。 「それに貴女、まだ若いのですから、あと何人かは産んでいただきたいわ。もしスウェンが死んでしまったら、ターニャに養子を取らないといけないもの。取りあえず、そのお腹の子が男の子であればいいわね」  エルカはそう言うと、部屋を出て行ってしまった。ラウラの貴族としての素養は、確かに付け焼刃に過ぎない。しかしそのお陰で、ロットレング領は窮地から脱出できたのではないか。しかし恨みをぶつけてみたところで、子爵夫妻にとっての決定事項は覆らないだろう。  ラウラはスウェンのもとへ向かいながら、絶望感を噛みしめていた。きっとこのお腹の子も、早晩彼らに連れていかれてしまうに違いない。
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