第七話/ 巨星墜つ

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第七話/ 巨星墜つ

 ラウラが3人目の子を出産したのは、秋の始まりを告げる静かな雨の午後だった。生まれたのは男の子で、ラウラにそっくりの赤銅色の髪をしていた。まだ目も開かぬうちから、ラウラはその子の瞳がエメラルド色であることを予感した。夫婦はその子にエイデンと名付けた。  ラウラが覚悟していたように、ハルシュカ子爵夫妻は、エイデンの首が座ったころに、彼を迎えに来た。ラウラは何度も、子どもたちを義父母から取り返そうかと考えていた。容易いことだ。彼女がロットレング領で収めた功績を振りかざせば、彼らは否とは言えまい。  しかしそれは、自分の母性を満足させるものではあっても、貴族として生きていく子らの将来に、果たして幸せをもたらすのであろうか。感情に任せて傲慢になり切れないところが、ラウラの賢さゆえの弱点でもあった。幾夜となく考えた結果、ラウラはエイデンをロットレング領へ引き渡すことを決心した。  別れの朝、ラウラの指をしっかり握っているエイデンの小さな手が、名残惜しさをさらに増幅させた。やがて赤ん坊が乗った馬車を見送った後、ラウラは茫然自失となった。意外にも、それを慰めてくれたのはアレンだった。 「俺は男だから、きっと母親ほどではないだろう。でも、子どもたちがこの家からいなくなるのは悲しい。実を言えば、前の結婚の時にはもっと子どもたちが大きかったので、別れた時には隠れて泣いたよ。思い出が、たくさんありすぎて」  そう言えば彼も妻の死後、3人の息子を婚家に残してきた父親である。合計6人もの子どもと生き別れてきたのだ。アレンに背をさすられて、とうとうラウラは声をあげて泣いた。貴族とは、何と愚かしい人種であろうか。親子の情さえ、形式の前には阻まれてしまう。これならば、雑穀をすすって震えていた孤児の方が、よほどましだったかもしれない。  ラウラはしばらく何もする気が起きず、ぼんやりと一日を過ごした。アレンは仕事で忙しく、年末の王宮舞踏会にも出席しないまま新しい年が明けた。ラウラは数えで21歳になった。  やっとラウラが重い腰を上げたのは、2月に行われた慈善舞踏会であった。前半に行われる音楽会でピアノを弾く約束をしていたので、仕方なく出席した。 「ちょっとお痩せになりましたね」  リーザが心配そうに呟いた。久々にドレスを着せてもらうと、腰回りに少し隙間がある。スウェンを妊娠する前に作ったので、その頃よりも肉が落ちているということだ。 「何度も出たり引っ込んだりして、お腹も疲れてるのよ、きっと」  冗談めかして言ってみたが、その腹に愛し子がいたのだと思うと、じわりと涙が滲んでくる。こんな調子で、子どもの事を考えるたびに滅入ってしまうラウラであった。  しかしそのやつれ具合も、ラウラの場合は色香に転じた。10代の頃のみずみずしい果実のような美貌は、いまや滴り落ちる蜜のごとく熟し、馥郁たる芳香を放っていた。  その香りに惹きつけられる男は大勢いたが、中でもセミル・ブライガは昔日の恋の再燃に悩まされた。ラウラは子を宿して何年も公に出ていなかったが、セミルはパーティー会場で彼女を久々に目にして、知人との会話が途切れたのにも気づかぬほどであった。  セミルは昨年、ようやく婚約者のグレーテと結婚式を挙げた。グレーテは適齢期が過ぎることに焦っていたが、不幸なことにセミルのひとつ上の兄が病死し、予定されていた次兄の結婚が延期された。そのせいで彼らも待たざるを得なくなったのだ。 「私と、踊っていただけますか」  いそいそとラウラをダンスに誘いに来たセミルは、年齢を重ねて押し出しが立派になっていた。彼は騎士団に2年間在籍した後、父や兄と同じく貴族院に入り政治の道へ進んだ。ブライガ公爵家のお決まりである。しかし、彼はそれに満足していない様子であった。 「私としては、もっと社会福祉や地域活性に直結する仕事がしたいのです。貴族院で審議する内容は国政の大枠で、下院では上院の決議を地方の官吏に発布するだけ。それが本当に民の利益につながるか、実情がわかりかねる状態です」  バクリアニ王国の貴族院は、上院と下院に別れている。セミルたち若手や下級貴族の次男以下は下院に所属し、高位貴族で審議する上院の補佐的な役割を担っている。セミルは公爵家の人間なので、いずれは父と兄が所属する上院へ上がるだろう。しかし、本人の目指すところは「民に寄り添う為政者」だ。 「ご立派ですわ。閣下は高潔な政治家でいらっしゃるのですね」 「どうぞ、セミルとお呼びください。いやはや、上院の爺様たちには、若造だの青瓢箪だのと言われています。ところで、ラウラ様は少しお元気がなさそうですね」  セミルは単純な男だが、変に直感的なところがある。ラウラは当たり障りのないよう、薄く微笑みながら返事をした。 「子どもたちが領地へ行ってしまいましたので、ちょっと寂しいのですわ。夫が役所務めなもので、致し方ないのですが」 「そうですか、それはお寂しいですね。しかし、いずれ領地を相続するお子さまたちですから、貴族の宿命とも言えましょう」  そこで曲が終わった。セミルは「もう一曲」と手を離さなかったが、ラウラは遠慮した。セミルの背後からグレーテがこちらへ歩いてくるのが見えたからだ。にこやかではあるが、冷たい怒気を含んだ笑顔だ。 「まあ、アリエタ様、お久しぶりですわね」  グレーテは常にラウラのことを、元の名であるアリエタと呼ぶ。彼女とは親しくする気もないので放っているが、それがまた癇に障るようだ。 「お久しぶりです。セミル様に政治のお話を伺っておりました」 「まあ、そうでしたの。貴女、またお子さまがお生まれになったそうですね。おめでとうございます」 「ありがとうございます」 「うちはまだだから羨ましいわ。貴女のように次々と生まれるといいのだけれど。そう言えば、領地の雌鶏(めんどり)も毎日のように卵を産みますのよ」 「よさないか!」  さすがにセミルが一喝した。以前から辛辣な絡み方をしてくる女性だったが、セミルと結婚してもまだ悋気が止まないようだ。ラウラは微笑んで気にしていない旨を伝えた。 「まあ、アリエタ様の心が広くてようございました。ついでに、私の夫のことはセミル様ではなくて、カラバフ卿と呼んでいただけると嬉しいわ」 「グレーテ!」  セミルはラウラに辞去の挨拶をすると、グレーテを会場の外へ連れて行ってしまった。あの奥方には、彼も手を焼いているようだ。ラウラは少し羨ましかった。悋気を起こすほど惚れた男と、一生添い遂げることができるのだから。  それからほどなくして、緊急の報せがラウラの元へ飛び込んで来た。普段は落ち着きのあるリーザが、青い顔をしてラウラを寝室に急き立てた。 「すぐにお支度なさってください。リヴォフ夫人が、お倒れになりました」  リヴォフ夫人は宰相である息子のセレフツィ公爵家に滞在中、椅子からぐらりと転げるように意識を失ったという。自分に厳しい彼女のことだ、具合が悪いのを限界まで内緒にしていたのではないか。  最近は子どもたちのことで落ち込んで、しばらく会っていなかった。こんなことなら、もっと足繁くご機嫌伺いに行けばよかった。そんな後悔を噛みしめながら、ラウラは王都郊外の公爵家に馬車を走らせた。  公爵家に着くと宰相閣下が直々に出迎えに立ち、ラウラは大層恐縮した。リヴォフ夫人とは子どものころから親しくしているが、大貴族であるのだと改めて実感する。宰相は母親に似た、いかつい顔を顰めてラウラに乞うた。 「お呼び立てして申し訳ない。最後に、貴女にどうしても会いたいと申しまして。ああいう性格ですので、親しい人間は少ないのですが、貴女は特別だったようです。ぜひ、会ってやってください」  部屋に入ると、リヴォフ夫人は意識を取り戻していたが顔色は蒼白で、もう間近に迎えが来ていることは明白だった。しかしそれでも、言葉は相変わらずに手厳しい。それがラウラを余計に切なくさせた。 「みんな、大騒ぎしすぎなのです。年寄りなのですから、死ぬのは当たり前でしょうに」 「そんな事を仰らないでください」  ラウラは枕もとの椅子に座り、すっかり細くなってしまった恩師の手を取った。タレス皇国最後の皇女にして、バクリアニ王国宰相の母。高潔にして尊厳なる、貴婦人の鑑といえよう。もとは孤児の自分がここにいるのが、今さらながら不思議でならない。 「悲しむ必要はありませんよ。私はもう十分に生きました。とりわけ、貴女と会ってからは、なかなかに愉快でした」  リヴォフ夫人は、いつもは引き結んだ口元に、僅かな笑みを浮かべた。この人が笑うのは、滅多にない事なのだ。 「私は、タレスの第二皇女として生まれて、12歳の時に戦争が起きました。それからは何年も隠れるように過ごし、いよいよ攻め落とされるという間際に、家族と僅かな従者を連れて亡命したのです」  その時、荷馬車に彼らを隠して国境を超えたのが、若き日のシャオ大老だ。以来彼らは身分や国籍を超えて、長い友情を繋いできた。リヴォフ夫人の数少ない友人のひとりである。 「彼をユマ国からこちらへ手引きしたのは、私です」 「そうなのですか!」 「息子も夫も知らない秘密です。彼は、かけがえのない友人でした。そして、貴女を託された。まあ、最初は何という山猿かと呆れましたが、これが磨くほど珠のように光って来るので面白くて」  リヴォフ夫人は喋るだけでも疲れるようだが、伝えたいことがあるようで、再びゆっくりと話を続けた。 「貴族など、格好ばかりでつまらない身分です。それでも、公爵の妻として最善は尽くしました。だから余計に、貴女の無鉄砲が面白くて、晩年は実に愉快に過ごせたと思うのです」  枯れ枝のような手が、ラウラの手をぎゅっと握った。 「心からお礼を言います。ありがとう、ラウラ」  流れる涙を止める術を知らず、ラウラは嗚咽を漏らした。セレフツィ公爵先代夫人、エレノワ・リヴォフ。彼女がその波乱の生涯の幕を閉じたのは、ラウラの訪問から2日後のことだった。  第四章 完
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