第一話/ サロンの女王

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第一話/ サロンの女王

 静かにこの世を去ったリヴォフ夫人であったが、とんでもない物をラウラに遺して逝った。貴族街にある、タウンハウスの権利である。 「生前に遺言状をお作りになり、その中に貴女さまへの譲渡が記載されておりました。  上品なスーツを着こなした高齢の弁護士が、書類を持って訪れた時は、腰を抜かしそうになった。装飾品などであれば話はわかるが、家屋である。そんな値の張る形見はいただくわけにいかない。 「もし、貴女さまにお受けいただけない場合は、教会に喜捨するようにとの内容です」  それでは受けざるを得ない。きっとリヴォフ家にとっても思い出深い場所だろう。ラウラはそう思っていたが、実はあのタウンハウスはリヴォフ夫人の隠れ家で、夫亡き後にひとりで使用していたものらしい。宰相や娘たちも入ったことがないそうだ。そんな秘密の場所に娘時代、一カ月も住まわせてもらったことにラウラは一種の感動を覚えた。  取りあえず現在は王都に住まいがあるので、管理をしている夫婦にそのまま住んでもらうことにした。きっと、彼らの面倒を手厚く見て欲しいという伝言だったのだろう。リヴォフ夫人は外見こそ冷徹であるが、実は困った人を捨て置けない人情家なのである。  また、元気のないラウラを励まそうと、セミルが提案してくれた茶会も、沈んだ気分を晴らす助けになった。今まで茶会と言えば、高位貴族からたまに招かれる程度で、自分で開催したことはなかったが、小さな居間におさまる少人数を招いて、女性同士で他愛もない話をするのは気が楽だった。  困ったのは、セミルがその茶会に顔を出すようになったことだ。もちろん、ひとりではなく男性の仲間を連れては来るが、これが知られればグレーテの角が尖ってしまうのではないかと心配だった。しかし当の本人は呑気なものだ。 「今はお腹が大きいので、実家にずっと帰ったままです。あと半年ほどは戻ってきませんので、たまの気晴らしくらいよいではないですか」  そんなある日、招待していた伯爵家のご夫人が、ひどい胃痛に悩まされていると言う。そこで、ラウラは手持ちの薬草を煮出し用に調合して、数日分持たせてやった。すると、次の茶会で彼女が目を輝かせながらラウラに礼を言った。 「ラウラ様、素晴らしい効き目の薬湯でしたわ。飲んだ翌日から、胃の痛みがすーっと引いて。お陰で最近は食べ過ぎが心配になるくらいです」 「それは良かったですわ。ロットレング領は薬草の産地ですので、スパでも薬湯をお出ししているのですよ」 「まあ、そうでしたか。私、ぜひ購入したいのですが、ロットレングでないと買えないかしら」  ラウラは処方箋を書いてやり、街の薬店で調合してもらうよう勧めた。それを機に、頭が痛い、腰が痛い、肌が荒れるなど、茶会に来る客たちがラウラに健康相談をするようになった。そして薬湯を処方してもらい、ご機嫌で帰っていくのだ。 「ラウラ様は、どこで薬湯の知恵を身に着けられたのですか」 「子どものころ、体が弱くて療養院で過ごしましたの。健康になりたくて、あらゆる本で学んだのですわ」  処方の出所を聞かれるとそう答えていたが、実際ラウラの薬湯は非常に効き目が良かった。当然である。かの薬商、シャオ大老の技を受け継ぐ弟子なのだ。貴族が気休めに飲むハーブティーとは威力が違う。そのうち貴族の間に「ハルシュカ家の薬湯は素晴らしい」という噂が広まって行った。  こうなると、ラウラの中に実業家としての火が燃え上がって来る。ラウラは王都に小さな薬店を開いた。自分が経営していることは伏せ、「ロットレング薬湯店」として、スパで提供している薬湯や石けん、薔薇水やオイルなどを販売したのだ。  店の奥には生薬の調剤師がおり、処方箋を持って行けばその通りに調合してもらえる。ティティの医学校が順調に進み、独り立ちできそうな者が出てきたので、彼らを雇って腕試しさせることにしたのだ。  貴族や金持ち連中は、この店に押しかけた。また、茶会でラウラに処方箋を書いてもらった者たちも、ロットレング産の生薬が手に入るとあって、喜んで店へ足を運んだ。しかしそこで、薬湯が実は高級品であることを知るのだ。 「まあ、そんなにお高いものだったのね」  女中を買いに行かせた貴族のご婦人方は、そんな高級な薬湯をラウラの家で馳走になり、何日分も土産にもらっていたことに恐縮する。もちろん貴族なので懐の痛む値段ではない。しかし、何かお返しをしないといけないと考えるのが、上流階級の通念であった。 「では、喜捨をお願いしますわ」  薬湯のお礼に、何かさせてくれと申し出る貴族たちに、ラウラは慈善事業への喜捨を呼び掛けた。実はこの慈善事業は、ラウラの企みを実現するために、セミルの地位を利用したものである。その始まりは、数週間前にさかのぼる。  ある日、茶会の開始時刻より「ほんの少し早くいらしてください」と、ラウラからの伝言をもらったセミルは、薔薇の花束を手に1時間も早くドアベルを鳴らした。 「実は、セミルさまにお願いがありますの」  潤んだ上目遣いでラウラに頼まれて、否と言える男ではない。中身を聞く前から、もちろんですと胸を叩き、力になることを約束した。グレーテが見たら金切り声を上げるだろう。ラウラの願いの内容はこうである。  茶会に参加したい貴族が増えてきた。薬湯の処方箋が欲しいのが理由である。しかし、ハルシュカ家は居間が小さく、大人数は対応できない。かと言って人数を制限しようにも、高位貴族には断りを入れにくい。そこで、公爵家の子息であるセミル主催のサロンということにしてもらい、参加者の選別をセミルにやってもらいたい、というものだ。 「お安い御用ですよ。むしろ、申し訳ありません。私が茶会をおすすめしたばかりに、ラウラ様にご迷惑をおかけしたのではないですか」 「いいえ、迷惑だなんてそんな。気晴らしになって助かりました。実はもうひとつ、ご協力いただきたい事がございまして……」  最近では、問診したあと薬湯の処方箋だけ渡して、生薬は薬店で買い求めてもらうようにしたため、ハルシュカ家の負担は少なくなった。しかしそれでも、お礼に何かしたいという貴族が多い。通常の医師であれば、診察と薬の処方だけで金貨一枚かかるからだ。そこで、そのお礼を慈善事業への喜捨にしてもらえたらと、ラウラは考えていた。 「私、恵まれない子どもたちのために、養護院を作りたいのです。彼らには、温かい食事や教育、衛生的な住まいが必要ですわ」  子どもたちと別れて以来ラウラは目標を失っていたが、ようやくずっと心の奥底にあった望みが形を成してきた。自分が育った劣悪な環境、児童の性的消費や労働力の搾取など、もう二度と自分のような子どもが苦しまない、そんな世の中を作りたいと考えていた。  教会に孤児院はあるが、国から降りた予算を聖職者が着服し、実際は生死の境目を彷徨っている孤児ばかりだ。ラウラの計画は、その予算を教会から取り上げ、貴族主体の慈善事業にしてしまうというものであった。  貴族は社会に対して施しをすることが名誉になる。公爵家のセミルの呼びかけで基金を立ち上げ、養護院を運営することができれば、子どもたちを守ると同時に、聖職者の着服を阻止することができるのだ。  教会の存在自体に恨みもある。「ラウラという娘が孤児院にいたか」と問い合わせたら「そんな娘はいない」と言われたことは死ぬまで忘れない。孤児のひとりやふたり、教会は簡単にこの世から消すことができるということだ。ラウラはもちろん自分の生い立ちは打ち明けなかったが、熱い思いをこめてセミルに訴えた。 「修道院の療養所にいたとき、たくさんの貧しい人々を見てきました。自分だけが温かなベッドで眠るのは心が痛みます。しかし私は子爵家の人間で、世の中への影響力がありません。セミル様を頼って申し訳ないのですが、貴族の方々へご協力を呼び掛ける、主催者になっていただけたらと思っております」  療養所の下りは嘘だが、後はラウラの本音だった。自分に対する純粋な好意を、利用するのは気の毒だと思ったが、この男は人好きがするし何より身分が高い。目的を果たすための手段としては、この上なく都合がいい存在であった。  セミルはラウラの話を聞きながら、ずっと一言も口を挟まず俯いていた。そしてようやく顔を上げたその目は、滂沱の涙に濡れていた。 「貴女のお役に立つことが、私の喜びです」 「サロンの女王」、ラウラ・ハルシュカの誕生である。この瞬間から、カラバフ公爵家セミル・ブライガは、彼女の傀儡として生きることになる。
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