第二話/ この身は貴女のために

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第二話/ この身は貴女のために

 ラウラの話を聞きながら、セミルは感動の只中にいた。目の前の女性は、やはり女神であると確信する。18歳のあの日、ロットレング領の屋敷で出逢った、輝くばかりの美貌の少女は、心の中も姿以上に美しくあった。  彼女は、努力して得た技能を人のために役立て、報酬を恵まれない子どもたちに与えようとしている。何という清廉な魂なのだろう。それは自分が幼いころから目ざす、民に寄り添う政治と志を同じくするものである。  セミルは、激しく胸を打たれてラウラの言葉を聞いていた。彼女はアレン・ハルシュカの夫人である故、男として守ることは叶わない。しかし、人生を捧げて彼女を崇拝し、支えていくことは許されるはずだ。むしろ、その役目は誰にも譲れない。 「嗚呼、ラウラ様。この身は、貴女のために在るのです」  セミルは書斎のテラスから、月を仰ぎ見て呟いた。机の上には、領地に帰っている妻からの手紙が、開封されずに置いてある。どうせ食事が不味いだの、親戚の悪口だの、こちらへ会いに来ないのは不実だの、読むとうんざりする内容に決まっている。グレーテにとって世界は、彼女を中心に回っているのだ。  妻とは幼いころからの知己で、彼女が自分に好意を持っているのは知っていた。しかし、自分にとっては単なる家同士が結んだ契約の相手だ。それなのに、過剰な期待を押し付けられて精神的に参っていたので、妊娠して実家に戻ってくれたのは非常にありがたい。このまま赤ん坊に夢中になって、自分への興味が薄れてくれればいいのに。 「同じ女でも、こうも違うものなのだな」  セミルは再び、独り言ちた。ラウラの結婚により一度は封印した想いが、再び奔流となって迸り、もはや彼の心は留める堰を持たなかった。  貴族の善意で立ち上げられた慈善事業は、政治にも少なからず影響を及ぼした。近年微妙な均衡で保たれている、教会と国政の関係がその顕著な例であろう。  教会は民意を抱き込み、冨を蓄えている。さらには貴族の次男や三男が中枢を占めていることもあり、国政への口出しが年々増えてきた。貴族院にとっては、油断ならぬ相手であったが、今のところは狐と狸の化かし合いが続いている状況である。  そんなある日、セミルは上院の中でも高位貴族で占められる、顧問会という会議に呼ばれた。宰相セレフツィ公爵をはじめ、自分の父であるブライガ公爵、妻の父ロサナリア公爵など、この国の政治の頂点に君臨する大臣たちがずらりと並ぶ。ただの若造なら縮みあがりそうな図であるが、セミルの心は落ち着いていた。なぜなら、事前にラウラがこうなることを予測していたからだ。 「率直に言おう。実は君の立ち上げた慈善基金に、教会から意見が出ているのだ」 「基金そのものではなく私の提出した議案書に、でございましょう。従来は教会が運営していた孤児院を撤廃し、その予算を慈善基金が設立する養護院に充当させるという議案は、バクリアニ聖教から異議が出ると想定しておりました」  大臣たちの目が見開かれた。カラバフ公爵の四男坊は、これまで血気盛んな青二才という評価であったが、目の前の彼は準備してきた資料を手に、実に堂々と持論を述べた。 「教会は、神の教えと道徳を以て孤児を教育すべし、と主張するでしょう。しかし私に言わせれば、そんなものは詭弁です。自分たちの取り分がなくなるから文句を言っている……ああ、皆さま方は先刻ご承知でしたね」  ここで小さな笑いが起こる。みんな教会に対しては似たような感情を持っているのだ。 「まあ、この取り分の程度が問題でして、昨今においては特に目に余ります。我がカラバフ公爵領を例にとれば、ある聖堂の大司教は教区外に私邸を持ち、なんと部屋が8室、使用人が10人おります。もちろん聖職者ですから建前のうえでは単身です。ちょっとした貴族より豪勢ではありませんか」 「おい、うちの領にそんな奴がおるのか」  セミルの父親が、苦い顔で顎をさする。まさか息子に自領の教会腐敗を暴かれるとは思わなかったようだ。 「ええ、けしからんことです。本来、聖職者は衣食住の戒律がございます。しかし現実には、それを遥かに逸脱した贅沢が横行しているのです」 「だが、それは彼らの実家から出た金かもしれんぞ」 「ならば、ますます予算は必要ございませんね。贅沢をなさりたければ、自費でなさると良いのです。もっとも、聖職者は清貧たれ、という教義には反しますが」  また笑いが起こった。瞬時に切り返すセミルに、大臣たちは内心頼もしいものを感じた。いつからこの男は、こんなに切れ者になったのだろう。セミルは場が鎮まるのを待って「ここからが本題です」と切り出した。 「もし、宗教に基づく教育を施したいというなら、養護院へ教師としてお迎えします。馬車代くらいはこちらがご用意しましょう。それでも嫌だと仰るのなら、その理由を明示していただきたいですね」 「ああだこうだと理由をつけて断るに違いないな」  宰相が苦々し気に吐き捨てた。この御仁は過去に何度か枢機卿とやり合ったことがある。 「でしたら、孤児院の収支を過去10年分、徹底的に洗うと脅してください。理由を聞かれたら、こう言います。教会が主張する、衛生的で栄養の行き届いた素晴らしい環境というものを、ぜひ我が家でも取り入れたいのです、と。奴らどんな顔をするでしょうね」  もうみんな笑いを抑えきれない。痛快であった。そしてセミルは、最後に核心に触れた。 「そろそろ、教会の力を削いでおかないと、危ない時期に来ています」  大臣たちの顔が、一瞬にして引き締まった。そして、その後に行われた上院の審議で、セミル・ブライガが稟議をあげた「孤児院の予算を教会から養護院へ移行する」という議案が採択された。弱冠26歳の下院議員にとっては、過去に例を見ない快挙である。  議会が終わり、院の回廊を並んで歩きながら、ロサナリア公爵がセミルの父、カラバフ公爵に声をかけた。 「先が楽しみですな」  気のいいだけが取り柄と思っていたが、案外いい男に娘を嫁がせたと、ロサナリア公爵は悦に入っている。その隣でカラバフ公爵は、息子の急激な変わりように首を捻っていた。  セミルは数日後、茶会の始まる1時間半前にハルシュカ家に現れたかと思うと、棒を投げてもらった犬のように目を輝かせて、ラウラを質問攻めにした。 「やはり顧問会に呼ばれました。そして教会から基金に文句が出たと言われたのです。準備しておいてよかった。しかし、どうして事前におわかりになったのです?」 「療養先の修道女から聞いたのですわ。孤児院の予算は、高位の聖職者が着服していると。教区外に私邸を持っていることも、彼女たちから教えてもらったのです。それならきっと、予算を取り上げられると文句が出ますでしょう?」  ラウラの作り話を、セミルはすっかり信じている。しかし、教会が腐敗しているのは真実なので、セミルが納得するならそれでいい。 「そうでしたか。カラバフ領の大司教の屋敷も、ちょっと調べればわかりました。辻馬車の御者や商店の売り子に聞けと、ラウラ様が教えてくださったお陰です」  銀貨一枚で、彼らは町中の噂を教えてくれる。それは為政者の目には見えないものであり、その闇に潜んで悪党たちは跋扈するのである。 「質問された内容も、ラウラ様が言われた通りで、お陰でうまく切り返すことができました。貴女はまるで、預言者のようだ」 「まあ、そんな大層なものじゃありませんわ。昔読んだ本に、同じような議会の様子が書かれていましたの。病気で本ばかり読んでいたのも、たまには役に立ちますわね」  ラウラは効果的な説得のための、理論の組み立ても得意だった。すべて本で読んだことにしているが、彼女が宰相になったら国が変わると思われるほど、言葉の応酬と戦略に長けているのである。 「ところで、顧問会で教会を糾弾しろと仰ったのはどうしてです? 大臣たちの前で教会を悪く言うのは躊躇われましたが、みんな納得していたようです」 「あらまあ、セミル様は高位の貴族なのでご存じないのですわ。高位の聖職者はたいてい、伯爵以下の次男や三男が多いのですよ。彼らが私腹を肥やして、貴族院の対抗勢力になることは、上院の皆さまにはよくないことではないかしら?」  可愛らしく、ラウラは首を傾げた。その仕草にセミルはうっとりとしたが、言っていることは極めて政治的である。ラウラはわざと馬鹿の振りをしながら、セミルに入れ知恵を続けた。子爵令嬢など政治の世界ではなんの力もないが、公爵令息にできることは枚挙に暇がないのである。
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