第三話/ ロットレングを閉鎖せよ

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第三話/ ロットレングを閉鎖せよ

 その年の秋から冬にかけて、バクリアニ王国全土を疫病が襲った。最初は流行り風邪かと思われていたが、やがてそれは国を揺るがす感染症「菊熱」だと判明した。半年の間に国民の30人に1人が死亡し、多くの者が後遺症で苦しんだ。これがその後のバクリアニ王国の運命を、大きく変えるきっかけとなった。 「感染経路は、風邪と同じです。鼻や喉から感染し、粘膜の炎症や発熱、倦怠感があらわれます。ただ、風邪と違うのは致死率が非常に高いということです」 「予防はできないの?」  ラウラはシャオ家を訪れ、菊熱の病態についてティティに説明してもらっていた。ユマ国の文献には、過去に菊熱で街ひとつが壊滅状態になったと記されている。この屋敷はほぼ外界から隔絶されているので安全だが、ロットレング領に正しい予防法を徹底させておきたい。  この頃はまだ、菊熱の流行はそれほど深刻に捉えられていなかったが、ハルシュカ家には幼い子どもたちがいる。そしてスパの従業員や領民を守るため、できる手は尽くしておきたかった。この時のラウラの判断が、後にロットレング領を窮地から救うことになる。 「予防も風邪と同じです。手洗い、うがい、温かくして栄養と睡眠。体が健康なら罹患しにくいし、重症にもなりにくいのですが……」 「何? それ以外に何かあるの」 「成人男性が罹患した場合、症状の重さに関わらず、子種が尽きてしまうのです」 「ええっ、子種?」  菊熱が風邪と大きく違うところは、死亡率の高さと生殖機能への影響だった。これを聞いてラウラは、医学校の生徒たちに酒精度の高い消毒液を蒸留させた。通常は外科手術に使用するものである。ラウラはこれをハルシュカ家とスパに置いて、衛生を徹底させた。しかしそのうち、それでは済まなくなってきた。 「まあ、寂しいわ。しばらくサロンが閉鎖なんて」 「怖い病気が流行していますので、用心のためですわ」  ラウラのサロンは、慈善事業の基金が公式に貴族院の後ろ盾を得たことで、ますます人気を博していた。貴族たちから上手に金を集める仕組みを、ラウラが巧妙に作り上げた結果である。  まず、サロンで健康相談をしたい者は、セミル・ブライガに伺いを立てる。慈善事業への喜捨が、このサロンへの参加資格となっているからだ。ラウラが矢面に立てば家格の高い貴族に押し切られてしまうが、さすがにカラバフ公爵家にねじ込む猛者はいない。また、サロンを慈善事業のための受け皿としたことで、セミルとラウラの癒着が疑われることもなかった。ただ一人、グレーテを除いては。 「なぜ貴方が、アリエタ様のサロンの責任者になっているのかしら。自分で管理すればいいじゃない!」 「貴族院から基金の運営を拝命しているのだ。喜捨の窓口がサロンなのだから、私が責任者でなければおかしいだろう。ラウラ様は無償で協力してくださっているお立場だ。君こそ下らないことを言う暇があったら、夫の事業に手助けの一つでもすればどうなのだ!」  もはやセミルは、家に帰ることも苦痛だった。グレーテが赤ん坊を連れて帰宅してからは、毎日何かにつけ文句を言われ、自分を最優先にしろと泣きわめかれる。自然、足は職場に向く。セミルは次第に家庭を顧みなくなった。  そんな状況だったので、サロンをしばらく閉鎖することを聞いて、最も落ち込んだのはセミルである。彼の唯一の慰安は、ラウラに公然と会えるサロンであったからだ。しかし、大切な人が病に侵されるのは恐ろしい。セミルは想いをなだめ、養護院の設営に注力することにした。  いよいよ感染症が猛威をふるい出したのは、朝の息が白くなる頃であった。ラウラは自分の予感が正しかったことを知り、菊熱が終息するまでロットレング・スパを閉鎖することに決めた。その間の収入がなくなることを考えれば苦渋の選択ではあったが、決定が遅れると領全体が命取りになる。 「たあさま、だっこ」  久々に会った娘のターニャが、ラウラにだっこをせがむ。幸せな親子の時間に浸りたくはあったが、領地に迫っている危機への対処が先である。子爵夫妻は「大げさな」と言ったが、感染が収束するまではロットレング領から王都への往来も規制した。商人など通行が必要なものは記録をつける。これで感染経路を特定することができる。 「スパの従業員たちはどうするかね。仕事がなくなるんだが」 「仕事はありますよ、閉鎖したスパでこれを作ります」  子爵が領地経営を心配するが、ラウラにはもう次の算段がついていた。ラウラが手に持つ瓶には、透明の液体が入っている。ティティの医学校で作っている消毒液である。これを大量生産し、感染地域で販売する。すでにシャオ家から医学生を10人ほど派遣してもらう手筈がついていた。あとはスパの従業員を総動員して作業に当たる。  その結果、この消毒液を求めて王都のロットレング薬湯店には貴族が押し寄せた。また、王都に2か所設営した養護院でも消毒を徹底し、冬の厳しい時期を乗り越えるべく口布も装着させた。こういう時、孤児院では大半の子どもが死ぬ運命だが、ラウラは養護院から一人の死者も出さないことを目指していた。教会に運営能力の差を見せつけてやるのだ。  しかしこれだけ人がバタバタと倒れていても、学習しない人間がいる。その筆頭が貴族の男だ。セミルはラウラの言いつけに従い、消毒や薬湯で健康を保ったが、アレンが菊熱に罹患してしまった。毎晩のように酒場へ通い、感染対策も怠っていたからだ。  ラウラはハルシュカ家を急ごしらえの病室に改造した。部屋の隅々まで消毒し、アレンの衣服やシーツは熱湯につけてから洗濯をした。病室にはラウラ一人が入り、使用人とは隔離している。家中、全員口布と上っ張りを着用し、冬であったが1時間に1回の換気を行った。 「奥さま、私たちが看病をいたしますのに」 「それでは貴方たちに感染するかもしれないわ。私は妻です。夫の病気には責任を負います」  リーザやドロテ、女中たちが心配したが、ラウラは一人でアレンに付き添った。結婚してから、最も夫婦として密な日々が、このようにして訪れるとは皮肉なものだ。アレンは最初、ただの風邪だと笑っていたが、そのうち高熱でうなされるようになった。そしていよいよ意識が途絶えがちになった時、ラウラはリーザを下町に遣いにやった。 「ラウラ様、お会いすることはできたのですが……」 「そう、オヴェーリスはここへ来ることを拒んだのね」  戻って来たリーザが、しょんぼりと肩を落とす。アレンの長年の恋人、オヴェーリスに今際の際を看取らせてやろうとした、ラウラの気遣いは拒絶された。オヴェーリスは感染を恐れて、玄関先で話が終わってしまったそうだ。 「奥さまにこれをお返しください、と」  リーザの手には、銀色の鍵があった。二人が世間の目を忍んで睦み合った、黒蝶館の部屋の鍵である。オヴェーリスにとって、アレンは恋人ではあったが、共に果てる覚悟を持てなかったのだろう。ラウラはアレンが哀れになった。  病室へ入ると、アレンが水を求めていたので、スプーンですくって飲ませてやった。すっかりやつれて、白髪が一気に増えた気がする。彼もすでに四十路の半ばである。思えばもう、結婚生活も6年目に入ろうとしていた。 「ラウラ」  かすれた声でアレンが妻を呼んだ。ここにいますよというかわりに、首元まで布団を引き上げてやった。 「……ラウラ、俺はたぶん死ぬ」  ラウラの手がぴたりと動きを止めた。どう答えようか迷っているうち、アレンはかすれ声を振り絞って話を続けた。 「オヴェーリスは来ないって、……言ったんだろう?」 「それは――」 「……いいんだ、わかっていた」  利用されているのは知っていた。しかし、それでも彼が自分の性を受け入れてくれる、唯一の拠り所であった。お互い利用し合っていたのだからお相子だと、淡々とアレンは語った。それだけではないことは、ラウラにはわかっている。自分が与えられなかったものを、オヴェーリスはアレンに与えたのだ。 「お前には、悪いことをしたと思っている……すまなかったな」  隠し事をしたまま、結婚をしたことを言っているのだろう。それなら自分の方が、秘密が多い分だけ悪党だ。ラウラは夫の頬にそっと手を当てた。無精ひげがざらりと手のひらにあたり、まだ肉体が生きていることを主張している。 「あら、私はけっこういい夫婦だったと思っているわ」  するとアレンが薄く笑った。また手のひらにひげが当たって、ラウラは泣きそうになった。 「……そうだな、少なくとも……ラウラは、俺にとっては良い妻だったよ」  アレンの手が弱々しくラウラの手首をつかみ、そっと自分へ引き寄せた。意を察したラウラがそっと口布を外す。やがて二人は何年かぶりの口づけを交わした。今生で最後の口づけである。 「ありがとう、ラウラ」  その言葉を最後に、アレンは昏睡状態に陥り、駆け付けたスコティエ家の家族に看取られながら、44歳の生涯を閉じた。ラウラは21歳で、未亡人となった。
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