第四話/ セミルの躍進

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第四話/ セミルの躍進

 菊熱の撲滅に向けて、貴族院が総出で対処に当たる中、陣頭指揮を執ったのはセミル・ブライガであった。彼はロットレング領で行われた対策を書式にまとめ、各領で直ちに実行できるよう、不眠不休で対策本部に張り付いた。  領地を持つ貴族たちは、予想を超えた死者数に慄き、セミルに従い大慌てで消毒液や薬湯を手配した。その嵐のような恐慌の中で、またもやセミルの議案が採択された。養護院を王都だけでなく、各領に設営するというものだ。しかし最初は、上院も下院も皆同じようにセミルの意見を一蹴した。 「この大変な時期に、孤児の面倒など見ていられないだろう!」 「この時期だからこそです。菊熱で親を亡くし、多くの子どもが孤児になっています。その子たちが、皆死んでしまったらどうなります? 数年後に皆さまの領の、労働力がなくなるということなんですよ」  セミルの説得を受け、領主たちは考え込んだ。孤児たちは安価な労働力として、国を下支えする力になっている。もしも10年、20年経って、彼らが多く従事する農業や林業が人手不足に陥ったら……。そう考えると、領主たちの顔色が変わった。 「養護院の子どもたちの中で、死んだ者は現在ひとりもいません。ぜひ各地にも設営するべきです。さあ、手引きを差し上げますので、今すぐに着手してください! バクリアニ王国を守るのは、皆さま方の決断ですぞ!」  この結果、急ごしらえではあったが各地に養護院が作られ、手引きに沿って運営が進められた。そして各施設にティティの医学校から、若手の医師たちが送り込まれたのである。  同時に養護院は、低所得者層の急患受け入れ所となった。この緊急の対策により、バクリアニ王国は壊滅的な人口減少に、かろうじて歯止めをかけたのである。  しかし大活躍の陰で、セミルの心は晴れなかった。先日、ラウラが未亡人となってしまった。夫のアレン・ハルシュカが菊熱でこの世を去ったのである。  弔問に訪うたとき、喪服に包まれた細い肩が震えているのを見て、セミルは何もしてやれないことが悔しくてならなかった。しかし、そんなセミルをラウラは気丈にも鼓舞したのだ。 「セミル様、どうかこれ以上菊熱で亡くなる方が出ませんよう、貴族院でお取り計らいくださいませ。ロットレングで行った予防策の記録が、お役に立つかと存じます。まだうちの領では、ほとんど重症者が出ていません」  悲しみの中に有りながら、民のために心を砕くラウラの姿に、セミルの中で激しい衝動が起こった。この慈悲深い女神の声に従い、世に貢献することこそが、己に与えられた使命なのである。  セミルはラウラの記録をもとに、徹夜で議案書を書き上げ、貴族院で演説をぶちまけた。生意気だと言われるだろう、敵を作るだろう、それでもいい。ラウラの涙を拭えるのなら。  しかし結果は多くの貴族が賛同し、彼の議案は大きな成果を残した。後に貴族院の議員が語ったところによれば、セミルの演説はさながら獅子の咆哮のごとく場を圧したという。セミル・ブライガはお人よしの青二才から、救国の英雄となったのである。  年が明けた最初の貴族院で、セミルは上院への昇格を知らされた。また、菊熱が収束した春には、国王から褒章を賜るという、ブライガ家の歴史に残る手柄を立てた。 「夫が褒められると、私も鼻が高いですわ」  セミルの昇進をいちばん喜んだのはグレーテだろう。彼が対策本部にいるときには、「私のことはどうでもいいのか」と罵詈雑言を浴びせたものだが、いざ褒章を賜れば、そこら中に夫の自慢話をばらまいて歩き回っている。 「私の自慢話をするのはやめてくれ。貴族たるもの、どんなお褒めを賜っても、常に謙虚であらねばならん」  セミルはそう言って諫めたが、当の本人はどこ吹く風で、ご婦人方を集めては茶会を開き、夫の自慢をやめない。一度、父親であるロサナリア公爵に叱ってもらったが、反省するどころか機嫌が悪くなっただけだった。もうセミルはグレーテに関わるのはやめて、ラウラのことだけを考えるようにした。  今回の褒章にせよ、ロットレング領の感染対策がラウラによって既にまとめられており、セミルはそれを貴族院で配っただけなのだ。本当の手柄はラウラにあることを、宰相に報告したいとセミルは言ったのだが、本人はそれを固辞した。 「お恥ずかしゅうございます。私は記録を書きつけただけで、それを国のために役立ててくださったのはセミル様でございます」  ああ、何と奥ゆかしいのだ! それに引きかえ、わが妻ときたら。セミルはますますラウラに惹かれていった。そして、再び彼女の願いのために奔走することになった。その願いとは、貧しい人のための救済施設である。  壊滅的な打撃は防いだものの、菊熱の蔓延はバクリアニ王国に大きな爪痕を残した。その最も深刻なものが、出生数の急落である。感染により成人男性の生殖機能が失われてしまったため、翌年以降の出生数が激減することは間違いない。  さらには、国の混乱で経済が立ち行かなくなり、貧民の死亡率が過去最高となっている。これは、今後数十年に渡って国力を低下させる大問題であった。 「低所得者は、不衛生や栄養不足で病気になりやすく、医者にもかかれないため死亡率が高いのです。セミル様は養護院で、多くの貧しい子どもを救われました。どうぞ次は、大人もお助け下さいませ」  もちろん、セミルは承知した。もとより人口減少の阻止は、現在の上院の最重要課題である。特に労働者人口をどう確保するか。それが領地を預かる貴族にとっては死活問題であった。  救済所であれば比較的少ない費用で賄える。そう考えつつ頭の中でそろばんをはじいていたセミルの耳に、悲しげなラウラの呟きが聞こえてきた。 「……貴族の婚姻も、この機会に見直すべきでしょうけれど、難しゅうございましょうね」  ラウラが言う意味は、バクリアニ王国の「行き過ぎた血統主義」である。王制や貴族制度を営々と継承しているくせに、養子縁組での相続を認めないので、消滅する家系もある。今回の菊熱では、その問題が国の中枢にまで及んでいた。  なんと、王太子殿下が菊熱にかかってしまったのだ。昔から王族は体が弱く、子ができにくい。現王にも嫡男はたった一人しかいないが、その王太子が子を成せない体になった。王制の危機である。これをどうするかで議会は紛糾していた。 「おそらく制度が変わるでしょうが、我々には影響しないでしょう。あくまでも王族の問題ですから」  そう言ってセミルは呑気に笑った。やがて御者に合図をすると、ラウラを残して馬車を下りた。  いくら慈善事業を共に運営していると言っても、男女で親しく話をすることは憚られる。ましてや貴族である上に、既婚者と未亡人だ。お喋りの場となっていたサロンも、菊熱に続いてアレンの逝去で閉鎖されたままなので、セミルはラウラに話があるときは、こうして馬車に相乗りを誘った。 「それでは、ごきげんよう」  セミルが礼儀正しく礼をして、ラウラの馬車を見送った。傍から見れば、何ということもない光景である。しかし、運悪くそれをセミルの知人が見てしまった。 「グレーテ様、ご主人をお見かけしましたわ。馬車から降りて来られるところでしたけれど、中にご婦人がお乗りでしたよ。お気をつけになった方が、よろしいのではなくて?」  いつもの茶会で、夫の自慢をしていたグレーテに、招待客がにやにやしながら言った。彼女たちも自慢話にいい加減うんざりしているので、いい気味だと思われているらしい。 「あら、そうですの? どなたかしら」  なるべく動揺が顔に出ないよう、グレーテは優雅に微笑んだ。内心は般若の顔である。 「さあ、馬車の中ですから、お顔はわかりませんでしたけど、黒い服をお召しでしたわね。まるで喪服のような」   バクリアニ王国では、未亡人は夫の死後一年間、喪服を着用する風習がある。思い当たる女は一人しかいない。今度こそグレーテの顔から笑みが消えた。
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