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今日は会社で原稿のチェックをしていたら、雪月が文芸部を訪れた。会社で雪月と会うのは、実に配属になって以来のことである。
「華乃子さん」
「まあ、先生! わざわざおいで下さらなくても、仰って頂ければ伺いましたのに!」
思いもかけない場所で雪月と会ってしまい、動揺と興奮で声が大きくなってしまった。同僚たちにくすくすと笑われ、華乃子は自分のはしたなさにハッとする。
「す、すみません、大声で……」
「いえ。僕も唐突にお伺いしてしまい、すみません」
ぺこりと頭を下げる雪月は何時ものシャツに着物の書生姿ではなく、見たこともないスーツ姿だった。この姿にも驚いてしまって、驚きが大きくなったと言ってもおかしくなかった。
「先生……、洋装をお持ちだったのですね……」
「はは、着ないので持っていないも同然ですが、一応仕立てておりまして」
パリっとしたスーツを着る雪月は普段の和装の穏やかな雪月と違ってとても堂々として見える。寛人のようにとはいかないけれど、このまま街を闊歩したら行き過ぎる女性がわんさと振り向きそうな様子だ。ただ、着なれないのか、しきりにシャツの襟が首に当たるのを気にしている。そんなところはやはりかわいいと思ってしまっても仕方がないと思う。
「それで先生。お召しになられないスーツをお召しになって、どんなご用事でしたのですか?」
「はい。実は華乃子さんにお付き合いいただきたい場所がありまして」
「私に……、ですか?」
「はい。華乃子さんにしか、頼めないのです」
華乃子にしか頼めないこと……。なんだろう……。
思いもかけない訪問の次は思いもかけない頼みごとだった。真剣な雪月の表情に期待すまいと思ってもどきりとする。
「な、なんでしょう……。私でお役に立てると良いのですが……」
あやかしの体験談だったら雪月の家で話せばいいことだ。一体何だろうと思っていると、一緒に来て欲しい場所があるのです、と言って、雪月は華乃子を会社から連れ出した。
華乃子は雪月に連れられて訪れた店の前で口をあんぐりと大きく開けた。其処は帝都でも有名な宝飾品店だったのである。
「せ……っ、先生……、こんなお店に何の御用ですか……?」
こういう店の店主が継母に美しい品を見せては継母が気に入って買っていたのを思い出す。じわっと染み出す、嫌な思い出。華乃子がぐっと奥歯を噛みしめると、その思いから庇うように雪月が華乃子の手に触れた。
「……っ!」
不意のことで顔が赤くなる。華乃子は隠しきれない頬の熱さをごまかそうと俯くと、良いですね、と雪月が微笑んだ。
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