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いらっしゃいませ、と品の良い店内に迎え入れられ、華乃子は雪月の隣で両手両足が一緒に出るような感覚だった。足を進める雪月に何とか倣って華乃子も店の中に入る。店員の男性がにこやかに挨拶した。
「ようこそおいでくださいました。今日はどのようなお品をお探しですか?」
そう言われて華乃子ははっとした。雪月と恋人『の振り』でこの場に立たなくてはいけないのだ。
それは、どういう気持ちで……?
(えっ? だって私は雪月先生のことが好きだけど、雪月先生は私のことなんて何とも思ってないのに、でも今は恋人だからそんなに私のことを見て嬉しそうなの!?)
華乃子がそう思ってしまう程に、雪月が華乃子を見るまなざしはいとおしさを含んでいた。この視線で騙されるなと言う方が無理だ。
華乃子は今度こそ本当に真っ赤になって俯いた。その横で雪月が華乃子の手を握り直し、よくとおる声でこう言った。
「彼女と正式に結婚が決まったので、結婚指輪を選びに。この店なら間違いないと、聞いておりまして」
雪月の言葉に店員は頬を綻ばせた。
「さようでございますか! おめでとうございます! 当店で一番お勧めを、まずはご用意いたしましょう。お嬢さまのお好みもお伺いした方がようございますね」
「そうしてくれますか。あと彼女は少し引っ込み思案なので、出来れば二人でゆっくり拝見させていただけるとありがたいです」
淀みなく言う雪月の隣で、華乃子は一言も発せず、また雪月に手を握られたまま、身動きも取れなかった。
いや、好きな人に恋人扱いされて手を握られて……、夢にも見なかった現象が今華乃子の身の上に起こっていて、華乃子が膝から砕けなかっただけ、耐え抜いたということだろうと思う。
店員が上機嫌で店の奥の方へと去ると、雪月が華乃子に小さく耳打ちした。
「大丈夫ですか? きっとゆっくり選ばせてくれると思います。華乃子さんは肩の力を抜いて楽になさっていてください。僕は店の応対の仕方や店内の様子を出来るだけ覚えて帰ります」
な、成程。カタログではなく実際に店に赴かなければならなかったのは、こういう理由か……。
少し気が抜けてしまう。ぼうっと雪月を見つめてしまったその華乃子の視線の先で、雪月が他の店員に怪しまれない程度に、その所作と店の備品や内装などを観察しているのが分かった。
(先生はただ、あの話のあらすじを知っている私に、その役割を振っただけなのよ……)
そう自分に言い聞かせて落ち着こうとしても、こんな店の中で落ち着けるわけがなかった。目の前には女性が憧れる宝飾品がずらりと並び、奥に行ってしまった店員とは別の店員が、お試しになってみられますか? なんて華乃子に対して笑顔を振りまいている。
「いえ……っ、あの……」
あれもこれもそれも頂戴、と言っていた継母の言葉は思い出せるが、どう断ったらいいのかなんて、緊張で思いつかない。すると助け舟を出すように雪月がにこりとその店員に言葉をかけた。
「ありがとうございます。でも彼女がこれ以上美しくなってしまうと、僕が心配でならないので、飾るのは指だけにさせてください」
華乃子を庇ってくれたのは、何時もの雪月じゃなかった。スーツを着て華乃子を庇ってくれた雪月は、会社に来た時とは違って、驚くほど堂々としている。
いつもと違うのは『恋人の振り』をしてくれているから?
今まで気づきたくなかった、何時か誰かの手を取る雪月を、今、まざまざと見せつけられている。彼は、唯一だと思った人に、こういうことを言う人なのだ。華乃子を相手に言ったことのない、そう言う言葉を。
……すごく大事にするんだろうな、その人のことを。
そう思うだけで胸が痛い。涙が出そうだ。
「大変お待たせいたしました。当店で一番お勧めの結婚指輪は此方になっております」
丁度その時、奥へ行ってしまっていた店員が戻ってきてくれなかったら、華乃子はもしかしたらその場で涙を零していたかもしれない。場の空気が変わったことで泣きそうな感情が少し収まり、涙は引っ込んだ。
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