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鬱々とした気持ちのまま雪月の許へ行くわけにはいかず、華乃子は花屋で白と紫の桔梗を買い、会社から持ってきた資料一式と共に雪月の許を訪れようとした。すると、遠目にも立ち姿の美しい女性が雪月の長屋から出てきたところを見た。
(どなただろう。ご家族だろうか。それとも……)
嫌な予感を振り切って華乃子が雪月の家を訪れようとすると、丁度華乃子に声を掛ける人が居た。
「あれ、あんた」
「あっ、ご無沙汰しております」
彼女は華乃子が雪月の賄いをするようになってしばらくした時に会ったことのある、雪月の近所のおばあさんだった。おばあさんはなにかいけないものを見たような目でちらっと雪月の長屋を見た後、華乃子に向かってこう言った。
「あの子、あんたという恋人が居ながら他の女を家にあげるなんて、とんだ遊び人だね。あんたもあの子にきっちり言ってやった方が良い」
「え……っ」
ではあの女性が、雪月の想う相手だったのだろうか。
失恋がいよいよ確実になってきて、華乃子は表情を暗くした。落ち込むんじゃないよ、とおばあさんが励ましてくれる。
「いえ……。私はあの方にはお仕事でお会いしているだけですので……」
「なんだって? まかないまでしてやってたから、てっきりあんたと恋仲だと思ってたよ」
そうだったらどんなに良かっただろう。でも現実に雪月はあの女性を家に招いていたのだから、仕事で通っている華乃子より、何倍も親しみ深いのだろう。
「そういう不誠実な男は早く忘れた方が良い。あんたも良い相手を見つけるんだよ」
おばあさんはそう言って華乃子を慰めてくれた。……失恋だと分かっているのに諦められないのはどうしてなんだろう。それが恋なのだと、しくりと痛む胸で華乃子は感じていた。
おばあさんとの会話を済ませたあと華乃子が雪月の許を訪れると、台所にはお茶を出した形跡があり、明らかに先程の女性が雪月と幾ばくかの時間を共にしたことが分かった。
「先生、お邪魔いたします。資料と、今度の新刊の表紙案を持ってまいりました」
華乃子は何時もの要領で声を掛け、雪月の部屋の襖を開けた。
「やあ、華乃子さん。ちょっと散らかってしまっていますけど、どうぞ入ってください」
部屋の中を見ると、何時もはおおよそ規則正しく積み上げられている資料の本などが、部屋の中に散乱している。その中で雪月は散らばってしまった原稿用紙を集めていた。
「ど、どうなさったのですか、先生。まるで突風が吹きこんだみたいじゃないですか」
「いやあ、まさに突風でして……」
えっ? 此処に来る時にそんな突風吹いていなかったけど……。
そう思ったが、雪月が苦笑いをしながら部屋を片付けるのに忙しそうだったので、華乃子も手伝う。ばらばらに散らばった本を作家別に本棚に戻し、もともと積まれていた本は、文机の脇に戻す。
「そういえば、お客様がいらっしゃってたのですね」
何気に問うただけなのだが、華乃子のその問いに、雪月は肩をびくりと揺らした。
「お……、お客、ですか……?」
あれっ? まるで何かを隠そうとしているかのような、おどおどと華乃子を窺う顔……。
「え、ええ……。台所に、急須とお湯のみが二つ出ていたので……」
「あ、……ああ、湯のみ……。そ、そうなんです、ちょっと知人が会いに来てまして……」
その最中(さなか)にこの突風が吹いたのだろうか。それは、せっかくの機会だったのに、二人ともさぞかし大変だっただろう。
「それではお話も落ち着かなかったでしょうね。こんな風が吹き込んでしまっては」
「そ、そうですね……。彼女と会うと、いつも荒れるんです」
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