【1972】 柊嗣

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 特別やりたい事があるわけでも、夢を抱いているわけでもない。何となく毎日大学へ行き友人と馬鹿な話をしながら笑い、バイトもしつつ休日には酒を飲み、再び訪れる平日をただ繰り返す。二十歳になったことで目標が出来たり進路を考えたりする訳でもなく、寧ろ未来から目を背けながら日々を過ごしていた。  一人暮らしをしている1Kのこじんまりとしたアパートで柊嗣(とうじ)は、出掛ける準備をしながら頭の中で色々な思いを巡らせていた。ヘアリキッドのついた指を髪に絡ませながら、テレビ台の上にある「診断書」と書かれた書類にふと視線を向ける。  ぐしゃぐしゃになっている紙を手に取り、綴られている文字の羅列を見る。何度この事実が夢であって欲しいと思ったことか。何度この事実を嘘だと言って欲しいと思ったことか――「急性骨髄性白血病」と書かれているこの紙を見てから、未来を黒く塗り潰されていく夢を何度も見てしまうようになった。  「さて……そろそろ行くか」  準備を整えた柊嗣はデニムパンツのポケットに財布を入れてベッドの上にある黒いジャケットを持ち、外に出て鍵を閉めながらブルルと体を震わせた。  思えば去年――今と同じくらい寒さを感じるようになった頃から、あまり体調が良いとは言えなかった。貧血気味で以前より疲れやすかったし、体のあちこちで痣が目立つようになった。そして約一ヶ月前、異常だと自覚するほど鼻からの出血があった為病院へ行き、自分の身体がどのような状態なのか知った。診断書や紹介状を書いてもらったけど、中々両親にはこの事を言えずにいる。二十歳(おとな)になったとはいえこの問題を一人で解決できる筈もないのに、すぐ言い出せないのは「親を悲しませたくない」という感情が少なからずあるからなのかもしれない。  友人と待ち合わせをしている居酒屋まで考え事をしながら歩いていると、まるで自分以外の時が止まっていて一瞬で着いたような感覚がした。早急に病気と向き合い戦わなければならないのに、また今日も楽な方へ逃げてしまった。 「柊嗣ー!こっちだ、こっち!」  三十席ほどのこぢんまりとした店内で、大きな声を響かせたのは大学で知り合った友人の小日向(こひなた)だ。四人ずつ対面して座れる座敷席には、既に顔を赤く染めた男子学生三人と女子学生四人が座っていた。 「わりぃ。少し遅れた」 「もうみんな飲み始めてるからなー!お前の席はそこだ」  小日向が指差した席に腰を下ろすと、左隣に座っている一学年後輩の美咲がメニューを差し出してきた。 「トージ先輩、何飲みますか?いつも通り生ビールで良いですか?」 「いいよ、自分で頼むから。ありがとな」  未だ未成年の美咲はソフトドリンクを飲んでいるからか、他の皆とは違い冷静な表情をしていた。その背後では小日向たちが品があるとは言えない笑い声を上げながら、教授の批判や課題に対する愚痴を零していた。 「あの親父シラけるよなー。何回か授業ブッチしただけで単位くれないとか、ホント死ねって感じだわ」 「えーキモーい!単位もらえないとか死にたくなるわ」 「親にもこんな事言えねぇし、ホントもう酒飲んでこのまま死にてぇわぁ」  メニューを見たふりをしながら小日向たちの会話を聞いていた柊嗣は、怒りで震え上がっている右手が暴れないよう懸命に沈めようとしていた。
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