第1話 実家に帰らせていただきます!

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第1話 実家に帰らせていただきます!

 アウトドアなんて好きじゃない。それよりも、温かいこたつの中でぬくぬくとしながら、お気に入りの紅茶をかたわらに置いて、じっくり本の世界にひたる方が、ずっとずっと楽しくて幸せだ。アウトドアなんて、断じて趣味じゃない。  なのに。  凍るように寒い早朝から、わたしたちは今、人気(ひとけ)なんて全くない山の中にいる。  はぁ、とついた息が白いけむになり、大気に溶ける。  前に座る、蛍光オレンジ色の上着を着込んだ友人の後ろ姿を見やるけれど、友人はひたすらにじっと、なにもない前方を見つめ続けていた。その耳元には無線機につながるイヤホンを取りつけていて、時折、ガガがッという掠れた音が、同じような格好をして後ろに控えている、わたしのところまでうっすら聞こえてくる。  音らしい音と言えばそれくらいなもので、わたしは、肺いっぱいに山の空気を満たすと、もう一つ白い息を吐き。少しぶかっとしたオレンジ色のキャップを、深くかぶり直した。  昨晩降った雪のせいで、周囲の木々は雪をかぶり、日陰になっている地面にもまだ白いものが残っている。  お尻の辺りから忍び寄ってくる冷気に震えながら、固くなりかけた身体をほぐそうと、大きく伸びをし――ついでに、やたらと早起きをしたためわだかまっていた眠気を振り払おうと、アクビをしかけた、そのときだった。  それまでほとんど音も立てずにいた友人が、ぴくりと動いた。無線のスイッチをカチカチっと鳴らしたかと思うと、そっとこちらに囁いた。 「来るよ」  端的な友人の言葉に、「えっ」と訊き返す間もなく、山の上から犬の吠え声が聞こえてきた。  犬の声が、静かな山の中に響いている。それが、段々と近づいてくるのに気づき、わたしは舌を出した。乾いた唇を湿らせて、友人が見つめている先にじっと目をこらす。友人はその両手で抱えるように持っていた黒光りする猟銃を、しっかりと持ち直した。  さっと、友人が動く。猟銃の底部を肩につけ、更に銃に頬をつける。そのときになってようやく、わたしも獣道を跳ねるように駆けている標的を見つけることができた。  ――鹿だ。野生の鹿。  特徴的な角は生えていない。きっと、メスなんだろう。獣の動きは素早く――そしてそれを追うように、友人の銃口も滑らかにスッと動く。  ハッとして、わたしは首に引っかけていたイヤーマフを自分の耳に当てようとし。  それよりも先に、文字通り耳が痛いほどの銃声が、山の空気を震わせた。  ――バンッ、バンバンっ!  乾いた発砲音が続いたと思うと、軽快に跳ねていた鹿の動きが、ひょこひょことぎこちないものに変わった。  やがて弱々しくその場に伏すように倒れたのを確認すると、友人は無言で歩き出した。わたしも、慌ててその後ろを追う。  鹿は、脚から血を大量に流していた。鮮やかな赤い色が、白い雪を溶かしている。  力なく頭を地面に擦りつけ、じたりじたりと鹿はうごめいていた。煙のように白い息を、荒く吐き出しながら。動かない脚を、ばたつかせるようにして。 「ん」  友人が、腰からなにかを取り出して、わたしにさしだしてきた。その、鈍い輝きに気づいたわたしは、思わずぎくりと身体を強張らせてしまった。  手のひらより少し短いくらいの刃渡りがあるナイフ。その柄が、こちらに向けられている。  わたしは出しかけた腕の動きを止めたまま、じっと鹿を見つめた。倒れている彼女は、小さくもがきながら、わたしたちをじっと見つめているような気がする。 「えっと。わた、し」  下手くそな笑顔になりながら、なんと言うべきか言葉を探していると、友人は白い息を濃くして、ナイフを持ち直した。しっかりと握ったそれを、鹿の首もとにあてがう。  雪の上に、更なる鮮血が流れて。  見つめあっているような錯覚を覚えていた鹿の瞳から、すっと光が消えるのが、見えた気がした。
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