level.2

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 柚莉愛が妙なネーミングセンスを発揮したせいで、桐谷は大学で峯に会った瞬間、吹き出しそうになるのを必死で堪えた。 「桐谷、おは、よう……?」  明らかにおかしい表情筋の桐谷を眺めながら不思議そうに峯から初めての挨拶をした。 「おぅ、おはよー」  どうにか湧き上がる笑いを腹の奥の下の下へと抑え込んで、桐谷は不自然な声でなんとか返す。 「日曜は本当にありがとう」 「いや、もう平気か?」 「うん、あの後すぐ元気になったよ。ライブも最後までちゃんと見れたし。あの時桐谷がいてくれたお陰」  峯の照れながら嬉しそうに話す仕草に、なんとなく桐谷の胸はちくりと痛んだ。 「──お前さ3Pとか興味ある?」  この会話のキャッチボールのどこにその球の流れがあったのか、案の定は全身を真っ赤にして泡こそ吹きはしなかったが、何本か頭のネジがふっ飛んだらしく、アワアワと口が動くだけでとてもじゃないが、返事が出来そうにもなかったし、何よりもそれが返事であることを桐谷は理解した。 「お前、柚莉愛が好きなんだろ?」 「へっ? ヘイ!」 「ヘイって……商人(あきんど)かよ。──お前、柚莉愛とヤリてぇとか思わねぇの?」 「ヤッ?! やっ……ヤーッ???」 ──こりゃダメだ。と桐谷は静かに全てを察した。 「アイドルって自分が好きな女のタイプの現れだろ? つまり、お前は巨乳な柚莉愛がいいんだろ?」 「ちっ、ちがっ、ゆりりんはそんなじゃっ……」 「ゆりりん……」と桐谷の目があからさまに細くなる。 ──ちなみに峯の言う"ゆりりん"とは、ファン内での愛称だ。 「やっ、あの、ゆっ、柚莉愛ちゃんはなんていうか、見てて元気になれるから好きなんだ。いつも明るくて笑顔が可愛くて、たまに天然で……」  それは全部あの女の計算だけどな、と桐谷は真顔のまま心の中で悪態をつくが決して口にはしなかった。 「俺、一時期進学で悩んでた時期があって……それで家族ともギクシャクして、そんな時にLOVE6がデビューして……。知らない世界に出て、新しいことを始めるのはすごくプレッシャーもあって怖くて緊張するけど、その何倍もその先にある未来が楽しみですって柚莉愛ちゃんが話してるのをテレビで見てすごく感動したんだ。だから俺も悩んでないで始めてみようって……」  峯があまりにも純粋に柚莉愛を愛しているものだから桐谷は馬鹿にする気すら起こらなかったし、誰かの存在が、しかも互いの存在を知る仲でも何でもないテレビの中にいる遠い偶像が、人ひとりの人生を変えてしまうのかと驚愕とともに慄いた。 「お前……すげぇな」 「何が?」 「誰かにそこまで心酔するって感覚、俺にはわかんねぇから。怖くねぇの?」 「怖い? 桐谷ってば変なの」  峯が小さく噴き出し、思わぬ言葉を口にするので桐谷は余計目を丸くした。 「だって、柚莉愛ちゃんはアイドルだよ? どんなに心酔したって限界があるよ。怖くなることなんか一生ないよ。この気持ちはずっと俺だけの世界線で平行に続いてるだけで柚莉愛ちゃんとの距離は変化することはないし、ファンはどんなに前に進んだって一定のところまで辿り着いたら頑丈な壁が存在していて、進めるのはそこまでなんだ。それ以上は絶対に進めないし、もしその壁を壊すなら最早それはファンじゃないし、最早ヒトでもない」  桐谷は峯の話す言葉の密度と強度に衝撃をひたすら受ける一方だった──。言葉の一つ一つが心臓に食い込むくらいの強さが、正しさが、そこにはある。  この感覚がなんなのかはわからない。初めての感情で形容できない──だけど、峯は柚莉愛の言うような単なる純情ボーイなんかじゃない。もっと真剣に柚莉愛を想い、愛し、真っ直ぐに応援している。  柚莉愛に軽くオタクなんて集合体の中のひとつみたいに呼ばれるのは不本意なほど、峯は人間的に優れていると桐谷は思った。 ──お前は本当に女の見る目がないよ、と桐谷は再び心の中で絶望した。
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