タナトスの時代

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 4 鈴音が一歳の時に特攻で亡くなった伯父の玉木太郎の顔は、母から引き継いだ一枚の写真で知っているだけだった。先日、従兄の満男やその友人の山田聡志と喫茶店で叔父について長い時間話したことで、その後も時々、叔父のことを考えている自分に気づくことがあった。 鈴音は主人に先立たれ子供たちは別居しているので一人暮らしだった。 夜、寝ていると男の人の声がした。 「誰?」 鈴音は不安な声をだした。 「俺だ。おまえの伯父の太郎だよ」 鈴音は、その時それほど恐怖は感じなかった。 「特攻で亡くなった伯父さん?」 「そうだ。おまえが俺のことを思い出してくれてお前の従兄たちと俺のことを話してくれたろう。 俺は嬉しくて、あの世から少しの時間くることができたんだ。少し話してもいいかな」 鈴音は叔父に聞きたいことがあるので、即座に承知した。 「いいわよ。私、叔父さんのことは母から引き継いだ一枚の写真でしか知らないの。だけど、私が赤ちゃんの時、抱っこしてくれたんですってね」 「そうだ。おまえは、それは可愛い赤ん坊だった。あまりぐずることもなく、にこにこして俺に抱かれてくれたよ」 「そうだったんですか。ところで伯父さん。この前も満男さんたちと話したんですが、伯父さんは特攻の命令が出た時、必ず死ぬと分かっていて承知したんですか。本当はいやだったけど、軍の命令は絶対だから、やむを得ずに承知したんですか?」 「おいおい、いきなり俺の痛いところを聞いてきたな。これは説明しにくいんだ。今の時代のお前たちの考え方と戦時中は全く違っていたんだ。お前も知っていると思うが、明治に発布された教育勅語というのがあってな、「一旦緩急あれば義勇公に奉し以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と書かれていてな、平たく言えば戦争になったら天皇のため死ぬ覚悟で戦い抜けという意味だ。俺たちはそういう教育を受けていつでも死ねる覚悟を求められていた。合言葉は「靖国で会おう」と言って、戦死したら靖国神社に神として祀られることで死んでも名誉が与えられることになっていた。死ぬことに対する恐怖心をそれで帳消しにしようと国は考えたんだな」 「そうなの。そんなの私には理解できないわ」 「でもな。俺だって全く死ぬのが怖くなかったわけじゃない。人間を含めてすべての生き物は生きたいという本能を持っている。中には軍隊を逃げ出す者もいたが、すぐ発見されて捕らえられて軍法会議にかけられて銃殺さ。日本は島国だから国境を越えて簡単に他国には逃げられない。それにな、もし軍に逆らえば、故郷の父母兄弟、親戚らが村中の者から国賊扱いになり村八分にされるだろう。俺だけでは済まないのだ。」 「そうなのね。日本人は同調圧力に弱いと言われるわね。戦時中だから一層それが強かったのね」 「少しは当時の雰囲気が分かってくれたかね。当時は赤紙一枚で軍は壮年男子を誰でも徴兵することができた。そこで、逃れるため仮病を使ったり大怪我したりした者も居たと聞いたことがある」 「恐ろしい時代だったのね。伯父さんはご存知ないかも知れないけれど、戦後、アメリカ占領軍から言われて新憲法を制定したのよ。この憲法は国民主権、平和主義、基本的人権尊重の三本柱から出来ているの。とても理想的でしょ?でもね、実際の運用となると憲法違反みたいなのが多くてね。しかも、アメリカから与えられた憲法だから改正したいと自民党は綱領にしているのよ。まだ改憲されてはいないけれど、集団的自衛権等の安保法制は憲法学者から違憲と指摘されながら成立させちゃってるの。私は叔父さんのような戦争の犠牲者を出さないためにも、与えられた憲法でも守りたいと思っているのよ」 「そうか。俺たちの時代と様変わりしているんだな。そんな立派な憲法は守り通して二度と俺たちのような戦争犠牲者を出さないようにしなけりゃな」 「伯父さん、そちらの世界から守ってくださいね」 鈴音がそう言うと、伯父さんは消えていた。 鈴音はぐっしょりと寝汗をかいていた。起き上がってパジャマを脱いで汗を拭った。
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